ジョナサン・ポルテス 「『ケインジアン』ってどういう意味?」(2012年2月7日)

●Jonathan Portes, “Fiscal policy: What does ‘Keynesian’ mean?”(VOX, February 7, 2012)


「ケインジアン」ってどういう意味なのだろうか? 経済学のその他の用語と同様に、「ケインジアン」という用語も政争の具にされてしまっている。そのせいで政策論争がいたずらに紛糾していて、何百万もの雇用が失われる羽目になってしまっているのだ。

少しばかり私の個人的な経歴に触れさせてもらうとしよう。1987年にイギリスの大蔵省で職を得た後、経済学を学ぶために一時的にプリンストン大学の門を叩いた。そこではロゴフ(Kenneth Rogoff)やキャンベル(John Campbell)から教えを受けたが、その後は再びイギリスに戻った。2008年に金融危機が勃発した時には、内閣府で首相に経済政策についてアドバイスを送る任務に就いていた。これまでを振り返ると、自分のことを「ケインジアン」と考えたことが一度もなかったことに気付く。ケインジアンかどうかを問うことに、そもそも意味がなかったのだ。物理学者に対してニュートン主義者かどうかを問うようなものだったのだ。ケインズは偉大な存在であり(20世紀のイギリスを代表する最も偉大な経済学者の一人であることは間違いない)、彼の洞察を理解せずしてマクロ経済学を理解することはできなかったのである。しかしながら、常にそうだったわけではない。

2008年に金融危機が勃発するまでのイギリス大蔵省では、財政政策の重要性は否定されてはいなかったものの、総需要を管理するために財政政策を微調整するのは――実行面でのいくつかの困難もあって――賢明ではないという意見が大勢だった。金融政策の方が小回りが利くし、透明性も高いし、政治的な圧力によって歪みが生じるおそれが小さいと考えられていた。このような見解に対して理論的な後ろ盾を与えたのが、ナイジェル・ローソン(Nigel Lawson)が1984年に行ったかの有名なメイズ講演である。当の私もこの見解を全面的に支持していた。

しかしながら、2008年に金融危機が勃発して以降は、事情が少々複雑になっている。そこで、問わなくてはいけない。「ケインジアン」ってどういう意味なのだろうか? いくつかの定義を考えることができそうだ。

定義<その1>

時計の針を1930年代まで戻すと、ケインズは、いわゆる「大蔵省見解」(“Treasury View”)に決然と異を唱えた――「大蔵省見解」は、「供給はそれ自らの需要を生み出す」と説く「セイの法則」と同一視されることがあるが、それは些(いささ)か不正確だ。「大蔵省見解」をめぐる過去の論争の概要については、Quiggin(2011)を参照されたい――。 「大蔵省見解」によると、財政政策は、「会計上の恒等式」の制約ゆえに、総需要に影響を及ぼせないとされる。政府が支出を増やすためには、税金を徴収するか国債を発行するかして市中に出回っているお金を調達しなければならず、政府が支出に回せるお金が増えると民間部門でそれと同額だけ支出に回せるお金が減るというのである。さて、「ケインジアン」の定義<その1>のお出ましである。「財政政策は『会計上の恒等式』の制約ゆえに総需要に影響を及ぼせない」という言い分を受け入れないのが「ケインジアン」というわけである。シカゴ大学のジョン・コクラン(John Cochrane)が以下のように書いているが、この「ケインジアン」の定義が念頭にあるようだ(Cochrane 2009)。

まず第一に、お金が新たに発行されないようなら、市中に出回っているお金をどこかから調達してこなければならない。政府があなたから1ドルを借り入れたとすれば、その1ドルは消費に回されることもなければ、設備投資を行うための資金として企業に貸し出されることもない。つまりは、政府支出が増えるのと同じ額だけ民間部門で支出が減らねばならないのだ。政府支出が増えたおかげで新たに雇用が生まれたとしても、民間部門で支出が減るせいで別のところで雇用が失われることになるのだ。公共事業で道路を建設しても、民間部門で工場の建設が取り止めになる。財政刺激策によって道路も工場もどちらも建設することはできないのだ。このようにして「クラウディング・アウト」が発生するのは、会計上の必然的な帰結なのであり、経済主体の行動についてどんな想定を置いても結論は変わらないのだ。

読者もよくご存知だろうが、コクランのこの主張をきっかけにクルーグマン(Paul Krugman)やデロング(Brad Delong)を中心にしてネット上で激しい論争が巻き起こった。例えば、サイモン・レン=ルイス(Simon Wren-Lewis)は、「学部レベルの間違いを犯している」とコクランに対して手厳しい批判を加えている(Wren-Lewis 2012a)。デロングらが指摘しているように、しばらくしてコクランは当初の意見をいくらか引っ込めたようである(Cochrane 2012, Delong 2012)。アメリカでの学者間での論争はともかくとして、定義<その1>を「ケインジアン」の定義として採用するなら、私は紛れもなく「ケインジアン」である。しかしながら、この定義を採用するなら、誰もが皆「ケインジアン」ということになるだろう。現在のイギリス大蔵省も含めてだ。財政政策が「会計上の恒等式」の制約ゆえに総需要に影響を及ぼせないと本気で信じている人は、誰一人として――誇張でも何でもなく本当に誰一人として――いないのだ。

定義<その2>

もう少しもっともらしくて標準的な定義としては、財政政策が(理論的な可能性にとどまらずに)「実証的にも」(現実問題として)総需要にかなり大きな影響を及ぼすと信じているのが「ケインジアン」ということになろう(定義<その2>)。それとは対照的なのが、「リカードの等価定理」(“Ricardian equivalence”)を信奉する立場の人々である。「リカードの等価定理」によると、政府支出なり政府の借り入れなりが変化しても民間部門においてその変化を打ち消すような行動が引き起こされるので、総需要はほとんどないしは全く(まったく)影響を受けないとされる。最近になって唱えられ出した「拡張的な財政緊縮」(“expansionary fiscal contraction”)と呼ばれる考えはさらに踏み込んでいて、(財政再建を見据えた)財政緊縮策は総需要を刺激したり経済成長を加速させたりする可能性があるという。そうなるのは、為替レートが減価したり、民間部門における信頼感が改善したりするおかげだという。この説を流布するのに特に貢献したのが2009年に発表されたアレシナ&アルダーニャ論文(Alesina and Ardagna 2009)であり、その影響は(些細で一時的なものに過ぎないが)イギリス大蔵省にも及んでいる。例えば、2010年の緊急予算の中に次のような記述が見られる(HM Treasury 2010)。

財政再建を見据えた財政緊縮策は、総需要を刺激して、経済パフォーマンスの改善に寄与する可能性がある。ポジティブな効果がネガティブな効果を上回る可能性が大いにあるのだ。

私が知る限りでは、イギリス大蔵省がこのような見解を表明したのはこれ一度きりのようだ。それも頷(うなず)けるところである。というのも、これまでの実証研究によると、「拡張的な財政緊縮」説が説くのとは正反対の結果が得られているからだ。アレシナ&アルダーニャ論文に対しては多くの学者から疑問が呈されていて、IMF(国際通貨基金)の研究も異を唱えている。さらには何より重要なことに、「拡張的な財政緊縮」説を支持するような実証的な証拠がほとんど見当たらないのである。IMFがこの件についての通説を代表する立場だと言えるが、IMFは2010年10月の時点で次のように結論付けている。

財政再建は、短期的に経済成長を減速させる傾向にある。新たなデータを用いて検証したところ、対GDP比で1%に相当する規模の財政緊縮(財政赤字の縮小)が試みられると、それ以降の2年間に産出量(実質GDP)がおよそ0.5%落ち込み、失業率が3分の1パーセントポイント上昇する傾向にあることが見出された。

その後のIMFは、この結論をさらに強調するようになっている。例えば、つい先月のことだが、IMFのチーフエコノミストであるオリビエ・ブランシャール(Olivier Blanchard)は、次のように語っている。

「財政再建が総需要の足かせになるのは明らかだ。ということは、経済成長の足かせにもなるということだ。」(Blanchard 2012

定義<その2>を採用するにしても、私はやはり「ケインジアン」である。しかしながら、この定義によるなら、IMFの専務理事やチーフエコノミストも同じく「ケインジアン」である。イギリス大蔵省もだし、イングランド銀行もだし、イギリス予算責任局もだ。これらの機関のどのマクロ計量モデルにも財政乗数が組み込まれているし、これらの機関で働く上級職員の中で財政再建がイギリス経済の成長を鈍化させたことを公の文書で否定する者がいるとは思えない。例えば、2011年11月に開催されたイングランド銀行の金融政策決定会合の議事要旨(pdf)に目をやると、次のように述べられている。

GDPの伸びは一年を通じて弱々しかったが、その理由は、家計の実質所得が落ち込んでいること、資金の借り入れが困難な状況が続いていること、財政再建が長引いていることに求められるものと思われる。

定義<その3>

定義<その1>と定義<その2>のどちらを採用するにしても、私は間違いなく「ケインジアン」である。しかしながら、真面目に取り合うべき人たちのほぼすべても「ケインジアン」ということになるだろう。目下の政策論争の場において「ケインジアン」とそれ以外を区別するために用いられている定義は、これまでの2つに比べると「政治的」な色合いがずっと濃いようだ。「イギリス経済(あるいアメリカ経済)が置かれている現状を踏まえると、財政再建のペースを遅らせることが好ましい」と考えるのが「ケインジアン」だというのである(定義<その3>)。しかしながら、この定義は二つの理由で問題を抱えていると思う。まず第一に、「ケインジアン」という用語に何らかの意味を持たせるのであれば、特定の時期に特定の国で議論の対象になっている特定の政策についての立場を指し示すのではなく、もっと普遍的な意味を持たせるべきだろう。独自の哲学なり理論的な世界観なり――少なくとも、実証的な証拠を解釈する枠組みを提供する視座――を指し示す用語であるべきなのだ。

二つ目の理由はもっと重要である。「拡張的な財政緊縮」説の妥当性に疑問符が付いている今となっては、「財政再建のペースを遅らせるべきだ」と唱える陣営にしても、それに反対する陣営(「財政再建のペースを遅らせるのは、大きな危険を伴う過ちだ」と唱える陣営)にしても、財政再建のペースを遅らせたからといって景気に冷水が浴びせられるとは考えていない。財政再建のペースを遅らせると、政府に対するマーケットの「信頼」が損なわれて長期金利が跳ね上がるかどうかというのが争点になっているのだ。長期金利が急騰するリスクを避けるために、景気に冷水を浴びせてまで急いで財政再建に取り組むべきかどうかが争点になっているのだ。

長期金利が跳ね上がるリスクはかなり誇張されていると思うし、財政再建のペースを遅らせたとしたら社会なり経済なりにどんな損害が及ぶのかについて綿密に検討されているようにも思えないが(この点について詳しくは、Portes(2011a)およびPortes(2011b)を参照されたい)、どちらの陣営が正しいのかというのは今はどうでもいいのだ。両陣営の争いは、「ケインジアン」かどうかという区別とは全く(まったく)関係がないのだ。両陣営の争いには数々の問題が絡んでいるが――マーケットが合理性を欠いた振る舞いをしたらどう対処したらいいか、格付け機関の役割についてどう考えたらいいか、複数均衡の問題にどう対処したらいいか等々――、それらの問題について何らかの立場をとったからといって、「ケインジアン」に区別されるわけでもなければ、「反ケインジアン」に区別されるわけでもないのだ。

最後になるが、イギリス大蔵省に勤めていた時に身をもって学んだこととの絡みで指摘しておきたいことがある。私が勤めていた時もそうだったのだが、総需要が極めて低調であるようなら財政政策ではなく金融政策で対応すべきというのが、今でも大蔵省で広く支持されている見解である。この件については、ネット上でも盛んに議論になっている(とっかかりとしては、Economist(2012)をご覧になるといいだろう)。財政政策の役割についての私なりの態度は変わった。過去20年間にわたって大蔵省を支配していた見解――総需要を管理する上で財政政策に出る幕はないという見解――には、最早与(くみ)していないのだ。とは言え、財政政策に真っ先にご登場願うべきとは考えていないけれど――この点については、サイモン・レン=ルイスが優れた議論を展開しているので(特に最後から2番目のパラグラフ)、あわせて参照されたい(Wren-Lewis 2012b)――。

金融政策の方が総需要を管理するのに適しているという見解も理論的な裏付けがあったわけではなく、一種のプラグマティズム(pragmatism)にその根拠を持っていたが、私が態度を変えたのもそれと同じ事情ゆえである。総需要を刺激するのに金融政策だけで十分なのだとしたら、イギリス経済は今のような状況に陥っていないだろう。失業率が自然失業率の推計値を大きく上回っていて、近いうちに雇用情勢が改善される見込みが薄い今のような状況に陥っていないだろう。別の機会にも触れたが(Portes 2012)、今のような状況をもたらしている総需要管理策に合格点をあげることなど到底できないのだ。

私が態度を変えたのは、イデオロギー上の理由からではない。現実の世界(およびマクロ経済)が思っていた以上にずっと複雑であることを認識した結果なのだ。ブランシャールも同じ仲間のようだ。ブランシャール曰く(Blanchard 2011)、

金融危機後の世界は、まったく新しい世界である。政策決定者の目の前には、これまでとは大違いの光景が広がっている。この現実をまずは受け入れねばならない。・・・(中略)・・・マクロ経済政策(とりわけ財政政策と金融政策)が追い求めるべき目標の数は、一つではない。複数あるのだ。使える手段も一つではない。複数あるのだ。

プラグマティックであること。何事も疑ってかかること。現実の証拠という裏付けを求めること。マクロ経済政策のあるべき姿を探る時に心に留めておきたい戒め(いましめ)である。ケインズが今も生きていたら、同意してくれるだろう。

<参考文献>

●Alesina, Alberto F and Silvia Ardagna (2009), “Large Changes in Fiscal Policy: Taxes Versus Spending”, NBER Working Paper No. 15438, October.
●Blanchard, O (2011). “The future of macroeconomic policy”, blogpost, March.
●Blanchard, O (2012), “Driving the Global Economy with the brakes on”, blogpost, January.
●Cochrane, J (2009), “Fiscal Stimulus, Fiscal Inflation, or Fiscal Fallacies?”, University of Chicago webpage, version 2.5, 27 February.
●Cochrane, J (2012), “Stimulus and etiquette”, blogpost, January.
●Delong, B (2012), “John Cochrane says John Cochrane used to be a bullshit artist”, blogpost, January.
●Economist (2012), “The zero lower bound in our minds”, 7 January.
●Guajardo, J, D Leigh, and A Pescatori (2011), “Expansionary Austerity: New International Evidence”, IMF Working Paper 11/158, Research Department, International Monetary Fund.
●HM Treasury (2010), “Emergency Budget”.
●Lawson, N (1984), Mais Lecture.
●Leigh, D, P Devries, C Freedman, J Guajardo, D Laxton, and A Pescatori (2010), “Will it hurt? Macroeconomic effects of fiscal consolidation”, World Economic Outlook, October, International Monetary Fund.
●Monetary Policy Committee (2011), Minutes(pdf), Bank of England.
●Portes, J (2011a) “The Coalition’s Confidence Trick”, New Statesman, August.
●Portes, J (2011b), “Against Austerity”, Spectator, October.
●Portes, J (2012), “The largest and longest unemployment gap since World War 2”, blogpost, January.
●Quiggin, J (2011), “Blogging the Zombies: Expansionary Austerity – Birth”, blogpost, November.
●Wren-Lewis, S (2012a), “Mistakes and ideology in macroeconomics”, blogpost, 10 January.
●Wren-Lewis, S (2012b), “The return of Schools-of-thought macro”, blogpost, 27 January.

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