●Lars Christensen, “Gideon Gono, a time machine and the liquidity trap”(The Market Monetarist, October 11, 2011)
2008年当時のメディアの記事を適当に拾い読みしていると、次のような文章が目に入った。
金利が異例なほど低い水準に向かって下がり続けている。それに伴って、世界各国の中央銀行は急速な勢いで打つ手を失いつつある。
「金利がゼロ%に近付いているために、中央銀行は打つ手なしの弾切れ状態に追いやられている。金融政策を通じて景気を刺激しようと思っても、中央銀行にできることはもう何も残されていないのだ」・・・というわけだが、あちこちでよく目にする意見だ。マーケット・マネタリストの面々であれば、「その意見は間違いだ」とすかさず強く異を唱えるところだが、そのように異を唱えるということは、長い歴史を持つ伝統に真っ向から歯向かうことを意味してもいるのだ。
「金利がゼロ%に近付くにつれて、金融政策にできることはますます限られてくる」という意見は長い歴史を持っている。その点を確かめるために、タイムマシンに飛び乗って、1935年のアメリカにタイムスリップしてみることにしよう。
1935年3月18日。下院銀行・通貨委員会では、1935年銀行法をテーマに意見交換が行われている最中だ。民主党の議員であるトーマス・アラン・ゴールズボロー(T. Alan Goldsborough)が、第7代FRB議長のマリナー・エクルズ(Marriner Eccles) に助け舟を出しているようだ。
エクルズ議長: 今のこのような状況下では、FRBにできることはほとんど何もありません。
ゴールズボロー議員: 「ヒモは押せない」ということでしょうか [1] … Continue reading。
エクルズ議長: それは上手い表現ですね。そうです。「ヒモは押せない」のです。アメリカ経済は不況のどん底に陥っている最中であり、・・・(略)・・・景気回復を後押しするためにFRBにできることといったら、割引率(公定歩合)を引き下げることくらいしかありません。それ以外にできることは、ほとんど何も無いのです。
エクルズ議長が語っているように1935年の段階でアメリカ経済が果たしてそれほど絶望的な状況に置かれていたかというと、(2011年現在の時点から振り返ると)はなはだ疑問なわけだが、少なくともアメリカがまだ金本位制にとどまっていた時期(1933年以前)に比べれば、状況はいくらかマシになっていたとは言えるだろう。
そこで次に、(アメリカがまだ金本位制にとどまっていた)1932年にタイムスリップしてみることにしよう。
1932年のアメリカ経済は、不況のどん底に突き落とされている。失業率は物凄い高さに達しており、物価がこれほどまでに急速な勢いで下落した例はいまだかつてない。
フーバー大統領も絶望的な状況に立たされている。思いつく限りのことをすべて試してみたものの何もかもうまくいかず、間近に迫る次期大統領選で勝つ見込みはゼロだということは誰の目にも明らかだ。
第5代FRB議長であるユージン・メイヤー(Eugene Meyer)がフーバー大統領に囁く。「景気を上向かせるために、財政政策を試してみるべきです。金融政策にできることはありません」。
その時だ。まるでSFの世界のような出来事が巻き起こったのだ。メイヤー議長がスコッティー(ことスコット・サムナー)の手によって過去(1932年)から現在へと転送され(タイムスリップさせられ) [2]訳注;原文は、“Meyer is beamed up by … Continue reading、それと入れ違えで、ジンバブエ準備銀行の総裁であるギデオン・ゴノ(Gideon Gono)が1932年のアメリカに転送された(メイヤーの代わりにFRB議長の座に収まった)のだ。
不思議な出来事はそれだけにとどまらない。どうしてだかはわからないが、「ギデオン・ゴノは、輪転機をひたすら回してお金を刷りまくることに心を奪われたセントラルバンカーだ」という評判がそこら中に(1932年当時のアメリカ全土で)広まっているのだ。
ギデオン・ゴノが1932年のアメリカにタイムスリップしてきた後には、どんな展開が待ち構えているだろうか? ギデオン・ゴノFRB議長は「ヒモは押せない」とかいう話にはまったく耳を貸さない人物だと、アメリカ国民の誰もが思っている。ギデオン・ゴノは、狂ったようにお金をひたすら刷りまくるだけであり、FRB議長になる前はどこかの国でハイパーインフレーションを引き起こしたらしいともっぱらの噂だ。さて、何が起こるだろうか? アメリカ国民は、インフレの到来を予想するに違いない。アメリカは金本位制から今すぐにでも離脱するに違いないと、アメリカ国民の誰もが予想するはずだ。ギデオン・ゴノは、(金本位制への復帰を唱える)ロバート・マーフィー(Robert Murphy)とは相容れないのだ。ギデオン・ゴノは、1932年にタイムスリップするやいなや、フーバー大統領のもとを訪れて金本位制からの離脱を決断するよう直言することだろう。
さて、どういう展開が待っているだろうか? 今後はこれまでのように現金の価値が上昇し続ける(デフレが続く)ことはなく、そうだとすると、現金を手元に持っておく理由もなくなる。アメリカ国民の誰もがそう考えることだろう。風向きが突如として変わり、アメリカ国民の財布の中からドルがどんどん出ていくことになる(家計部門の消費が盛り上がりを見せるようになる)だろう。これは何も家計だけに当てはまる話ではなく、銀行や企業にしても同様だ。誰もドルを手元に持っておきたがらなくなるのだ。「ホットポテト効果」の発動だ。貨幣需要(貨幣残高に対する需要)が大幅に減少して貨幣供給(貨幣残高)を下回り(貨幣の超過供給が発生し)、その結果として、金融緩和効果が生まれることになるのだ。
これまでの一連の話は、ギデオン・ゴノFRB議長がまだ具体的な行動に打って出ないでいるうちに生じるであろう出来事だ。そうなのだ。金融政策は、中央銀行の具体的な行動に先立ってその効果を表すのだ(今回のケースでは、80年近くも先立って効果が表れているとも言える。というのも、ギデオン・ゴノが2011年から1932年にタイムスリップしてきた結果として金融緩和効果が生まれているからだ)。
そろそろ元の時代に戻るとしよう。2011年にタイムスリップだ。
2011年。世界経済は、新たな不況に足を踏み入れる寸前のところに立たされている。大不況(Great Recession)入りしてからそろそろ4年が経過しようとしているが、「デットデフレ(負債デフレ)のはじまりだ!」と警鐘を鳴らす声はずっと鳴り止まずにいる。インターネットを覗くと、スコッティーという愛称で呼ばれている経済学者が金融政策をテーマにブログ上で盛んに発言を続けている。彼のブログでは、ギデオン・ゴノがヒーローとして高く賞賛されている。ギデオン・ゴノというのは、1932年にアメリカを――そして、ひいては世界経済を――大恐慌から救い出したかの有名なFRB議長だ。「ヒトラー」の名前なんて誰も覚えていないし、「第一次世界大戦」という表現も通じない。世界大戦はこれまでに一度しか起きておらず、1914年から1918年にかけてヨーロッパを主戦場として戦われた世界大戦は「大戦争」(“Great War”)の名で通用しているのだ [3] … Continue reading。
ギデオン・ゴノは、優れたセントラルバンカーだと言いたいわけではない。1932年にタイムスリップした後に、FRBの金庫に保管されている金(ゴールド)をこっそり盗み出した可能性だってある。インフレ政策を手放しで推奨したいわけでもないし、狂気の虜となったセントラルバンカーを褒め称えたいわけでもない。金融政策の効果を左右する上で「予想」(expectations)という要因に備わっている意義の重要性をどうにかして伝えたいと思って、今回のエントリーを物したのだ。
(追記その1)ギデオン・ゴノがFRB議長に就任した後の展開について、いくつか触れておくことにしよう。フーバーは、次の大統領選で見事勝利を収めて再選を果たすことになった。フーバーは、アメリカ歴代で最長の任期を務めた大統領として歴史に名を残し、共和党員から多くの敬愛を集める大統領の一人となっている。アメリカ国民の間では、「金融政策に理解のあった大統領」としても知られている。フーバー大統領がアメリカに社会保障制度を導入するなどという過ちを犯さなかったことに対して、共和党員はことあるごとに「フーバー大統領、どうもありがとう」と感謝の言葉を捧げている。そして何よりも重要なことだが、ポール・クルーグマンが「流動性の罠」の話題を持ち出すたびに、物凄くズレた発言をしているように見えてしまうということも付け加えておこう。
(追記その2)ギデオン・ゴノが1979年のアメリカに転送されなかったことは、何とも幸いだった [4]訳注;1979年当時のアメリカは、いわゆる「大インフレ」(Great … Continue reading。
(追記その3)金融政策をテーマにした「狂気の一冊」を読みたければ、ギデオン・ゴノの「最高傑作」である『Zimbabwe’s Casino Economy: Extraordinary Measures for Extraordinary Challenges』を手にとってみるといいだろう。
References
↑1 | 訳注;「景気の過熱を抑える上では金融政策(金融引締め策)は効果を発揮するが、大きく沈滞した景気を浮揚させる上では金融政策(金融緩和策)の効果には限りがある」という考え(金融政策の効果に関する非対称性)を簡潔に言い表す比喩として、「ヒモは引けても押せない」という表現がよく持ち出される。「ヒモは押せない」という比喩を一番はじめに言い出したのは誰かという点については諸説あるが、ここで引用されているゴールズボロー議員の発言が初出だという説(ゴールズボロー起源説)が有力なようだ。この点については、himaginary氏の次のブログエントリーもあわせて参照されたい。 ●“「紐を押す」の語源”(himaginaryの日記, 2015年7月31日) |
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↑2 | 訳注;原文は、“Meyer is beamed up by Scotty(Sumner)”。リンクが貼られている動画をご覧いただければわかるように、SFテレビシリーズの『スタートレック』にヒントを得た表現。“Beam me up, Scotty!”(「スコッティー、転送してくれ」)というセリフは方々で援用されているようだが、「スコッティー」というのは、作中の登場人物の一人であるモンゴメリー・スコットのことを指している。マーケット・マネタリストを自称する面々の中にもたまたまスコットという名前を持つ人物(スコット・サムナー)がいることに気付き、「これは使える!」と思ったのであろう。 |
↑3 | 訳注;ギデオン・ゴノのFRB議長就任に伴って、アメリカ経済だけでなく世界経済もいち早く景気回復を遂げることになり、そのおかげで、ドイツ国内でヒトラーが台頭することもなければ、第二次世界大戦が勃発することもなかった、という意味。ギデオン・ゴノが1932年のアメリカにタイムスリップし、ユージン・メイヤーに代わってFRB議長を務めた結果として、その後の歴史の流れが大きく変わった、というわけである。「ギデオン・ゴノが1932年のアメリカでFRB議長を務めていたとしたら、その後の展開はどうなっていただろうか」という問いは、反実仮想(counterfactual)的な問い(「あの時、ああしていたらどうなっていただろうか」/「過去のある時点で、現実に選択されたのとは別の行動が選ばれていたとしたら、その後の展開はどう変わっていただろうか」)の一つだが、クリステンセンと似通った問い(反実仮想的な問い)を立てた上でその後のシナリオをつぶさに検討している研究に、アイケングリーン(Barry Eichengreen)とテミン(Peter Temin)の共著論文(“Counterfactual Histories of the Great Depression”(pdf))がある。アイケングリーンとテミンの共著論文では、「第一次世界大戦後に各国が実際よりももっと早いタイミングで金本位制から離脱していたとしたら、その後の展開はどうなっていただろうか」という問いが立てられているが、その内容の一部は本サイトで訳出されている次の記事でも紹介されている。 ●デビッド・ベックワース「第一次世界大戦の見過ごされがちな遺産 ~再建金本位制とヒトラーの台頭~」(2017年11月26日) 反実仮想ついでに触れておくと、「スターリンが国のトップに立っていなかったとしたら、その後のロシア(ソ連)はどうなっていただろうか」/「チャベスが国のトップに立っていなかったとしたら、その後のベネズエラはどうなっていただろうか」/「カストロが国のトップに立っていなかったとしたら、その後のキューバはどうなっていただろうか」という反実仮想的な問いを立てた上でそのあり得る結果を細かく検証している研究もある。詳しくは、次のブログエントリーを参照されたい。 ●Artir, “Russia without Stalin, Venezuela without Chávez, Cuba without Castro”(Nintil, March 30, 2016) |
↑4 | 訳注;1979年当時のアメリカは、いわゆる「大インフレ」(Great Inflation)期の真っ只中にあり、高止まりするインフレをいかにして沈静化するかが課題となっていた。ギデオン・ゴノが1979年のアメリカにタイムスリップしてFRB議長を務めることになっていたとしたら、火に油を注ぐ結果となっていたことだろう。ご存知のように、現実にはギデオン・ゴノではなくポール・ボルカーが(1979年8月に)FRB議長に就任することになった。 |