マーク・コヤマ「ジェームズ・C・スコット“Seeing Like a State”に関する考察」(2024年7月22日)

市場に対する過小評価を考えると、スコットの国家に対する批判も同様の問題を抱えていないだろうか、という疑問が湧く。

イェール大学の高名な政治学者、ジェームズ・C・スコットが今月(2024年7月)の19日に亡くなったという悲しいニュースが入った。

以下に掲載するのは、私が2017年に書いた書評(に少し変更を加えたもの)である。2017年はスコットの著書『反穀物の人類史』が刊行された年だ。私はこの素晴らしい著書を受けて、国家計画、農業、経済発展におけるハイモダニズム(high-modernism)への批判として名高く、私もよく学生や友人に勧めているスコットの前著、“Seeing Like a State”『国家の視点に立つ』〔未邦訳〕について再考したくなった。

『国家の視点に立つ』は、スコットの他の著書と同様、多くのリバタリアンや古典的自由主義者に広く絶賛された(ここここを見よ)。これは驚くべきことではない。『国家の視点に立つ』は、大がかりな国家計画に伴う見過ごされがちなコストを描き出している。スコットは、国家がいかにして社会的世界を把握可能(legible)にしようと試みたか、その試みがいかにして、社会に対する高コストかつ破滅的な介入をもたらしたか、を記述している。歴史上の膨大な事例において、国家計画者のトップダウンの知識と、ローカルな共同体の「知恵」(metis、暗黙の知識)とが対照的に描かれている。

スコットの議論は、(ブラッド・デロングが述べるように)非常にハイエク主義的だ。しかしスコットは、ハイエクと自身の議論との繋がりに関してアンビバレントな態度をとっている。スコット自身はリバタリアンでも古典的自由主義者でもない。これは、彼が市場の利点に対してかなり懐疑的な立場をとっていることからも明らかである。例えば、Cato Unboundで開催された洞察に満ちたシンポジウムの中でスコットは、国家の視点に立つことの欠点と、均質化をもたらすという資本主義の傾向との間に、自身が強い類似性を見出していることを明確に述べている。

大規模な資本主義は、国家と全く同様に、均質性、画一性、定型化、大胆な単純化を行う主体である。違いと言えば、資本家にとっては単純化がペイしなければならないということだけだ。それどころか利潤動機は、ドイツの初期の科学主義的林業よりもひどいレベルの単純化と視野狭窄を強いるものだ。この点で、私が近代の社会工学の失敗から引き出した結論は、官僚制による均質化だけでなく、市場によって駆動された標準化の現象にも適用可能である。

この批判は確かに一理ある。スコットが見事に批判しているル・コルビジェのハイモダニズム建築と同様、資本主義市場におけるひっきりなしの売り買いは、審美的観点からするとつまらない結果をもたらしがちだ。しかしスコットはそれ以上アナロジーを展開していないので、読者としては大きな不満が残る。スコットは真剣かつ深く政治を研究してきた学者だが、少なくともここでは、市場や商業を表層的なレベルでしか捉えていないという印象を受ける。上の文章でスコットは、市場が政府と異なるのは、単純化がペイしなければならない点だと述べている。経済学者からするとこれは、消費者の欲望に反して社会を均質化しようとする資本家の欲望に、〔市場による〕一定の制約が課されていることを示している。しかしスコットの考えでは、ペイしなければならないことは単に均質化への本能を助長するだけである。自身の考察は政治領域と同様、民間セクターにも適用可能だと彼は主張する。

スコットが市場の適応性と柔軟性を過小評価しているという印象は拭いがたい。もちろん、市場は均質化をもたらし得る。しかし、市場のプロセスはまた、独創的な実験やイノベーションを駆動しもする。ブランドの標準化があまりに進行すれば、市場は企業家に、独創的で非凡な製品を作るインセンティブを与える。プロセスとしての市場は確かに冷酷であり得るし、市場のひっきりなしの取引によって価値あるものの多くが失われるかもしれない。しかし、市場が国家計画者や官僚よりも自己訂正能力に優れがちだということは、日常的経験が非常によく示している通りである。

市場に対するスコットの懐疑についてはこれぐらいにしておこう。しかし、市場に対する過小評価を考えると、スコットの国家に対する批判も同様の問題を抱えていないだろうか、という疑問が湧く。

ポール・シーブライトは、「ロンドン・レビュー・オブ・ブックス」掲載の非常に優れた書評で、まさにこの点を指摘している。シーブライトによれば、スコットの議論は「証明しすぎ」(prove too much)の危険をおかしている。スコットは、ソ連やタンザニアがとった破滅的な集産主義政策と、19世紀ヨーロッパの科学的林業・農業が直面した問題とを、同じような言葉で語っている。そのためスコットは、破滅的な失敗と、意図せざる結果をもたらしながらも大まかに言えば成功した政策との違いを無視してしまっている。この違いを無視するのはミスリーディングかもしれない。シーブライトはその理由を以下のように説明している。

科学的農業が予期せぬ問題に直面しており、そのうちのいくつか(例えば環境問題)は深刻な問題である、というのは否定しがたい。しかしこうした問題を考慮に入れても、科学的農業の達成には目を見張るものがある。世界人口のうち、過酷な貧困下にある人の割合は以前よりもほぼ確実に減少している(絶対数で見れば、依然として容認しがたいほど多いが)。サハラ以南のアフリカのような地域の深刻な体系的機能不全は、科学的農業それ自体よりも、農民全体に被害をもたらした社会的・制度的な惨禍によるところが大きい。科学的農業の問題をソ連の集産主義の問題と同列のものとして語るのは、スターリンとデリア・スミス〔料理家〕はどちらも卵料理を作るのが下手だったと言うようなものだ。

私は、ヨーロッパにおける1500-1800年頃の国家建設(これは私が最近取り組んできたテーマである。ここを参照〔邦訳はここで読める〕)という文脈で、スコットのアイデアとシーブライトの批判について考えてきた。

一方で、スコットの視点はかなりのもっともらしさを持つ。近世ヨーロッパにおいて強力な国家を作り上げる試みは、コストがかかり、暴力的で、大抵は岩を繰り返し山頂に運ぶシーシュポスのような徒労に終わった。ラウロ・マーティネズ(Lauro Martines)の『暴威:1450-1700年におけるヨーロッパの戦争』”Furies: War in Europe 1450-1700“〔未邦訳〕は、近世ヨーロッパの戦争での残虐行為を、鮮やかに、そしてときにグロテスクな細部まで描き出している。抵抗する農民は剣や矛で脅されて税を徴収され、兵士たちは強制徴募され、軍隊では赤痢やチフス、その他の病気が流行り、レイプや火あぶり、拷問は日常茶飯事だった。しかしそれはなんのためのものだったのか? フランスがロレーヌを獲得し、イングランドがアイルランドを植民地化し、ハプスブルグ皇帝がオランダやドイツの反乱を鎮圧するため? この観点からヨーロッパの国家建設のコストをざっと考えてみると、スコットの国家に対する極端な懐疑は完全に正当であり、手ぬるい評価であるとすら思えるかもしれない。

しかし他方で、1800年以降の(それ以前の国家より明らかにリベラルであり、残虐でない)近代国家の勃興をもたらしたのは、こうした一連の戦争と暴力であった、と多くの研究者が論じてきた。こうした議論が妥当なら(私はそう考えている)、国家のプロジェクトに対するスコットの深刻な懐疑は、まさにシーブライトの強調する問題に直面する。国家の破壊的な側面は、国家のもたらす(少なくとも、ある種の政治秩序がもたらす)潜在的な利益と比較考量する必要がある(スコットに対して公平を期すなら、アナキズムをテーマにした『実践 日々のアナキズム』で彼はこの問題に取り組んでいる)。

ここでこの論争にハッキリとした結論を出すつもりはない。代わりに、Cato Unboundのシンポジウムにおけるドン・ボルドーの鋭いコメントを引用して締めくくることにしよう。

リバタリアン(私〔ボルドー〕もその1人だ)は例えば、国家が人々を統治し監視する能力を阻害するようなものなら何でもすぐに歓迎する。しかし、統治下の人々や地域について情報がなく無力だった前近代国家において、なぜ人々は自由を謳歌していなかったのだろう? なぜ、臣民を監視しコントロールする能力を持つ近代国家が登場するまで、資本主義は花開かなかったのだろう? 最も熱狂的なリバタリアンですら、この問題については自身の考えに固執してはならない。近代国家の発生は実際、18世紀ヨーロッパで始まった資本主義的な富の爆発を準備する上で積極的な役割を果たしたのかもしれない。国民国家における言語、度量衡、不動産の所有権の情報、道路の目的地に関する知識が、産業革命の開花を準備するのに必要でなかった可能性はある。つまり、そうした標準化は純粋に私的な、民間主体の行動を通じても実現したかもしれない(カナダやアメリカで、民間の鉄道会社が「標準時」ゾーンを作り出したように)。しかし、国家の範囲と力の増大が、起業家資本主義の開花の可能性を減じるに違いないというのは、どう考えても正しくないように思われる。

[Mark Koyama, Thoughts on Seeing Like a State, How the World Became Rich, 2024/7/22.]
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