ボー・ロススタイン「インタビュー後編:福祉国家と市場、公務員の不偏性、北欧モデル」(2016年5月30日)

私は福祉国家に関する第三の考え方を打ち立てようとしてきました。福祉国家を、集合行為問題への解決策と考えるのです。

本エントリは、スウェーデンの政治学者、ボー・ロススタイン(Bo Rothstein)へのインタビューの後編である(前編はこちらで読める〔邦訳はこちら〕)。後編では、汚職、社会的信頼、労働組合などが話題に挙がった。

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保守とリベラルは長年、政府のサイズを巡って経済論戦を繰り広げてきたが、今回の大統領選〔アメリカでの2016年大統領選を指す〕では、新しいタイプの議論が勢いを得つつある。問題は政府のサイズではなく質である、という議論だ。政府は一般市民のために仕事をしているのだろうか、それとも特殊利益集団のために仕事しているのだろうか? ドナルド・トランプからバーニー・サンダース、ヒラリー・クリントンからテッド・クルーズまで、「経済は不正に仕組まれている」という主張は大きな掛け声となっている。

効率的で質の高い政府が希求され、同時にそれが実現していない状況は、有権者の発する矛盾した(あるいは二分された)メッセージを説明するかもしれない。一方で、多くの人が、市場経済の影響から人々を保護する役割を政府に求めている。他方で、ほとんどの人は「ワシントン」やエスタブリッシュメントを軽蔑している。

こうした新しい議論は、一般市民の中だけで生まれているわけではない。〔2008年〕金融危機以降、経済学者や他の分野の研究者の間で、市場経済における規制の役割に大きな注目が集まった。保守派経済学者もリベラル派経済学者も、望ましい状況を実現する上で、市場にはフォーマル・インフォーマル双方の制度が必要だ、という点には同意している。市場が厚生に及ぼす影響は、そうした制度の効率性に依存している。

スタンフォード大出身の保守派経済学者、ジョン・コクランは最近、経済成長をテーマにした論文でこの流れをまとめている [1]原注:John H. Cochrane, 2015. “The Election’s Most Important Issue.” www.hoover.org/research/elections-most-important-issue 。「規制は多いか少ないかで〔考えるべきで〕はない。効果的か/効果的でないか、賢いか/賢くないか、たくさんの意図せざる帰結を生むか/よく設計されているか、規制業界の「虜」になっているか/効果的に機能しているか、ルールに基づいているか/規制当局の気まぐれによるか、説明責任を果たしているか/恣意的か、厳格な費用便益基準で評価されているか/政治的動向に左右されているか、経済活動を歪めるか/経済活動を支えるか、などで〔考えるべきで〕ある」。

金融市場、そして市場一般がどう運営されるべきかについては膨大な文献がある。しかし、市場においてゲームのルールを定めるフォーマル・インフォーマルな制度に関しては、それほど多くの文献はない。経済学を離れ政治学など他の分野に目を移しても、ほとんどの研究者は投票、政党、選挙、世論に注目しており、政府や規制の効率性・質についての議論少ない。インフォーマルな制度が規制の質やインテグリティに信じられないほど強く影響する。そのため本サイトPromarketでは、今後数カ月、このテーマについて政治学者にインタビューしていこうと考えている。

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資本主義の北欧モデル

ロルニク:このインタビューで「市場」について何度も言及されていますね。読者(特にアメリカの読者)の中には、ロススタインさんは政府に関心があるのだから、資本主義をよく思っていないのだろうと考える人もいるかもしれません。

ロススタイン:市場と資本主義は別物です。どう言えばいいでしょうか、つまり、市場経済では、資本を所有する人は労働を雇えます。労働を雇う、つまり人を雇えば、生産面での意思決定を行えます。

ですが市場経済では、労働もまた資本を雇えます。私とあなたで小さなコンサル会社を始めるとしましょう。お金がないのでまずは銀行に行ってローンを借りることになります(私たちには信用があるのでローンを借りることができます)。しかし銀行は私たちの経営に指図してきません。意思決定を行うのは私たちです。多くの企業は、従業員にイクイティ・プラン〔株式報酬〕を提供しています。生産活動は今や非常に複雑になっており、資本主義の標準モデル〔市場経済であるが、資本が労働を雇うことが一般的な社会、すなわち株式会社が生産組織として支配的なモデルとなっている社会を指すものと思われる〕は、〔労働を雇う資本の側が〕何をすべきかの知識を持ち得ないという意味で、うまく機能しなくなっています。ハイテク企業や、複雑な医療企業、コンサル会社を考えてみましょう。株式を所有している人々は、そうした企業を指揮できません。知識を持っていないからです。興味深い資本は、物理的な物体や機械から、人の考え方へと移っています。

バランスのシフトも生じていますが、これはさほど興味深くはないでしょう。どう言うべきでしょうか、知識階級の力は、生産においてますます重要な資産となっています。

ロルニク:とはいえ、スウェーデンの市場経済はアメリカとは全然違いますよね。

ロススタイン:はい。スウェーデンの経済を私は「組織化された資本主義(organized capitalism)」と呼んでいます。といっても、単純に規制が強いということではありません。国際競争力を高める仕方で、強く規制されているのです。スウェーデンやデンマークは小さい国なので、繁栄する(し続ける)には、国際的な競争力がなければならないと理解しています。

また、東アジアの低賃金国と競争する手立てがないことも知っているので、高い能力、イノベーション、創造性で勝負しようとしています。そのために、人的資本生産、研究、職業訓練、早期の職業教育に莫大な額を投入しています。

北欧諸国が行っている最良の投資の1つは、就学前教育です。生後1~4歳までの認知の発達はとても重要であることが明らかになっています。そのため北欧諸国において就学前教育の先生は3年制大学を卒業しています。就学前教育は、子守りではなく教育なのです。

北欧諸国はこういう施策を打っています。規制がないということは全くないですが、規制は常に、国際競争力を高めるものと考えられているのです。

集合行為問題の解決策としての福祉国家

ロルニク:つまり、市場経済と福祉国家を組み合わせているということですか?

ロススタイン:福祉国家については様々な考え方がります。福祉国家とは、貧困層の面倒を見てあげる利他的な国家だと考える人もいます。福祉国家は単にパワーゲームの産物で、左派が右派に打ち勝って再分配を勝ち取ったのだ、と考える人もいます。

私は福祉国家に関する第三の考え方を打ち立てようとしてきました。福祉国家を、集合行為問題への解決策と考えるのです。市場は情報の非対称性のために、多くの領域(例えば年金、医療、失業保険)で、財を全く提供できなかったり、非効率な水準でしか提供できなかったりします。

例えば、インフレに対応した年金を提供する民間の保険会社は存在しません。そんなことは不可能だからです。医療を見ると、市場には過剰請求や過剰治療の傾向が強くあることが分かります。アメリカの医療支出がヨーロッパよりはるかに高い理由の大半はこれで説明できます。

中産階級に、学費無料のそこそこよい学校を提供したり、きちんとした医療を提供したりするとします。そうすれば中産階級は喜んで税金を払うでしょう。こうしたサービスを民間市場ではなく政府が提供することは、実際に中産階級に便益をもたらすからです。

こうして得られた税金によって、恵まれない人々にそれらのサービスを提供することもできます。貧困層を助けるための最良の方法は、貧困層に言及しないことです。貧困層(poor people)だけを対象にした特別なプログラムは、質の低い(poor)ものになります。

中産階級は、きちんと質の高いサービスでなければ受け取ろうとしないでしょう。中産階級が重要なのは、お金を持っているのが中産階級だからです。この契約を実現するには、3つの信頼問題を解決しなければいけません。第一に、ほとんどの人が税金を実際に支払っていると信頼できなければなりません。第二に、保険サービスで濫用や過剰利用が蔓延っているわけではないと信頼できなければなりません。最後に、サービスの提供が、自分のインテグリティの感覚に対応するような誠実な仕方でなされると信頼できなければなりません。

医療や介護の現場で羊のように扱われたくはないでしょう。そのように扱われることはないと信頼できるのは、行政の質が高いと人々が認識している場合だけです。

多くの国において、人々の考えはこんな感じでしょう。「もっとたくさんの公共財、もっと質の高い公共サービスを望んではいます。でも行政を信頼できないんです。税金を盗まれるか、ひどいサービスを提供してくるかのどちらかでしょう」。

私は福祉国家を、中産階級の集合行為問題に対する解決策だと考えています。

強い市場、強い国家

ロルニク:次のような議論なら、右派も左派も同意できるんじゃないでしょうか。「市場経済は大抵の場合、資源を配分し経済を発展させる最良の方法である。だがきちんとした市場経済を維持するには、効率的な規制と社会的セーフティネットが必要だ。そのためには、腐敗しておらず能力の高い行政が必要である」。これについてはどう思いますか?

ロススタイン:同意してもしきれません。私の立場は基本的にそれです。私は、経済学者や市場を支持する人々の意見には同意しています。資源配分の問題をさばく上で市場より優れた方法は見つかっていません。ですが、ミニマルで非常に小規模な国家さえあればいいとか、国家は重要でないといった議論には同意できません。

北欧諸国、そしてドイツやオランダその他の国々がその証拠です。強い市場と強い国家は両立し得るのです。

スウェーデンの政府は小さくありません。税金は非常に高いです。しかし過去20年、福祉国家の基礎的な制度への支持は損なわれていません。むしろ、中産階級はますます福祉国家を支持するようになっています。それは、福祉国家から利益を得られている、つまり「払った分が返ってくる」と感じているからです。

民営化と競争:契約の不完備性

ロルニク:スウェーデンという社会民主主義モデルの主導国が、競争や市場を強く支持しているだけでなく、民営化という手段を用いていることに、多くの人は気づいていません。これはどういうことなのでしょうか?

ロススタイン:民営化というのは扱いにくい概念です。どんな生産活動も3つの要素で考える必要があります。1つ目は資金をどう手に入れるか、2つ目は誰が規制するか、3つ目は誰がサービスを実際に生産するか、です。これら3つの要素はそれぞれ、民間と公共のどちらでもあり得ます。

公共とは何か、民間とは何か、というのも簡単に言えることではありません。事業を民営化するなら、自分たちにとって何が重要なのかを言えなければいけません。私たちはゴミが収集されること、バスが時間通りに来ることを望んでいます。こうしたことは大抵、簡単に評価可能です。

ですが教育や医療だと、話はもっと複雑になります。これらの領域では、明確な内容の契約を結ぶのが非常に難しいのです。明確な契約書を書けないのに営利企業にサービスの提供を任せてしまったら、企業が手を抜くというのは自然なことです。またある場合には、利潤追求なしでも競争の便益を得られることがあります。シカゴ大学はハーバード、イェール、スタンフォードといった大学と競争していますが、どの大学も利潤を追求しているわけではありません。こうした大学からお金を得ている所有者はいないのです。

ロルニク:でもここでも同じ問題が生じますよね。つまり、そうしたサービスの民営化が上手くいくには、効率的な規制を行わないといけません。

ロススタイン:もちろんそうです。契約を書いて実効化するのは非常に複雑な仕事だと言ったのもそのためです。公共セクターには、有能で汚職をしない人材が必要なのです。

どの供給業者を選ぶかの選択肢がない場合(1990年代初頭までのスウェーデンはまさにそうだったわけですが)、私の言う民主主義の「ブラックホール」が生まれます。子どもが学校でいじめられたり、祖母が介護センターでひどい扱いを受けていたりするとしましょう。もちろん、あなたはその業者に不満を言うことができます。でも他の業者に移ることができないなら、これは生活上の大問題となるでしょう。

私たちの社会に公共サービスが存在するのは、それが私たちにとって非常に重要なものだからです。それゆえ、規範的観点からすると、私たちは複数の選択肢を持っている必要があります。これは組織理論からも言えることです。間違った(あるいは正しい)ことをしたときに、それは間違っている(あるいは正しい)というシグナルを得られない組織は、長期的に見れば間違ったことを行いやすくなります。消費者や顧客を失うというのは非常に重要なシグナルです。

ロルニク:政府が供給しているサービスで、競争があった方がいいのはどういったものでしょう?

ロススタイン:サービス供給者で言うと、医療、教育、介護、就学前教育、バス、ゴミ収集です。

ロルニク:左派の人々は今の発言に驚いているかもしれません。社会民主主義国スウェーデンの人なのに、公共サービスに競争があった方がいいと考えているの? と。

ロススタイン:この点については、福祉国家についての著書のある章で論じています。普遍的な福祉国家を支持する人でも、私が述べたことを踏まえれば、競争や民間の供給者を否定すべきではないのです。

私は営利企業に100%反対しているわけではありません。ですが、プロセスが重要な分野で営利企業にサービス供給を任せるなら、契約書をよく工夫しないといけません。例えば、介護サービスで高齢者をきちんと尊重して扱うよう指示した契約書を作成する場面を考えてみてください。

そのような契約書はどうやって書けばいいでしょうか? バス事業を民間の業者に任せる場合なら契約を書くのは簡単です。バス停の位置、バスの数、安全規制について規定すればよいですから。ですが、就学前の子どもをどう世話すべきかについて契約書で指示するのは難しいですよね。

政府の質と公務員の不偏性

ロルニク:基本的な論点に立ち戻りましょう。ロススタインさんは著書や論文で「政府の質(quality of government)」というフレーズを使ってらっしゃいますね。そしてそれを公務員の「不偏性(impartiality)」と定義しています。

ロススタイン:腐敗(corruption)の標準的な定義が気に食わなかったのです。腐敗(corruption)は「質(quality)」の対義語であるべきじゃありませんか? 標準的な定義だと、腐敗は「公権力の濫用」とされます。これでは意味が広すぎです。「濫用」を定義していないので、全く空虚な定義になってしまっています。

つまり標準的な定義だと、濫用とは何か、濫用が発生したときに違反されているのはどんな規範なのか、が明確になっていないのです。これはよくない議論状況をもたらしています。まず、解釈が幾通りもあり得てしまいます。デンマークで腐敗と見なされる行為と、フランス、あるいはナイジェリアで腐敗と見なされる行為は全く異なることになります。これは良い状況じゃありませんよね。

次に、腐敗を巡る議論全体が空虚になってしまいます。民主主義について議論する場合、私たちは民主主義がただ1つの基本的な規範に基づいていることを知っています。政治的平等(political equality)、つまり、誰もが同じ投票権、言論の自由、被選挙権を持つという理念です。完璧に実現されてはいませんが、それでもこれが民主主義の規範なのです。

〔そのため〕政治のインプット面での腐敗について考えるのは簡単です〔不正選挙や言論の自由の制限など、分かりやすく判断できるため〕。ですがアウトプット面(公職者が実際に意思決定を行う領域)に目を向けると、話は非常にややこしくなります。アウトプット面での規範は平等ではあり得ません。学習障害を持つ子どもは、学習障害を持たない子どもよりも注意深く面倒を見る必要がありますし、深刻な病気を患っている人は、健康な人よりも多くの医療を必要としています。

だから、アウトプット面での規範は平等ではあり得ません。そこで私たちは、著名な政治哲学者であるジョン・ロールズの「不偏性(impartiality)」というアイデアからインスピレーションを得ました。不偏性というのは、公職者が政策を実行する際、政治的党派やエスニシティその他、法で規定されていない属性はなんであれ考慮に入れてはならない、ということです。

ロルニク:ロールズに言及されましたが、不偏性というのは、自分の行為を無知のヴェールの下で見る方法ですよね。

ロススタイン:その通りです。では、不偏性はどうして公務員の高い能力に結び付くのでしょうか? 答えは、不偏性から導かれる論理がメリトクラシーだからです。公務員の採用や昇進において考慮されるのは、その人の実際の能力です。

そうすれば、豊富な知識を持つ人や有能な人が公務員になります。多くの経済学者は、効率性や有効性を考慮せずに政府の質について語ることはできないと言います。しかし、私に言わせればそんなことはありません。

私たちは、効率性と有効性を説明したいと思っています。それらを定義に含めれば、説明可能です。この点については非常に良質なデータがあり、公務員の不偏性を計測すると、それが期待された結果を生んでいることが示せます。行政の不偏性が高い国は、パフォーマンスも良いのです。

ロルニク:先進国の政府の質について検討するとき、どんな点に注目しますか?

ロススタイン:ヨーロッパに限っても、ギリシャとデンマーク、ハンガリーとイギリス、ノルウェーとポルトガルの間には大きな差があります。驚くほど大きな違いがあるのです。しかしもっと面白いのは、国によって違いがあるだけでなく、同じ国の中でも差があることです。

ヨーロッパの一部の国では、政府の質に関して国内の地域差が非常に大きいことが分かっています。ある地域は汚職が非常に少ないが、別の地域はひどく腐敗している、なんて国が存在するのです。例えばイタリアです。繰り返しますが、フォーマルな制度には大した力がないということを肝に銘じないといけません。イタリア全土で同一のフォーマルな制度が敷かれて150年が経ちます。地域レベルでの政府の質や腐敗について考える際、そうした情報は何も伝えてくれないのです。

制度は完璧でも腐敗は深刻:インフォーマルな制度の重要性

ロルニク:正しい制度を作って「改革」を行うべきだ、という話はよく聞かれる一方、インフォーマルな制度についてはほとんど注意が集まっていなように思いますが、この点についてはいかがでしょうか?

ロススタイン:ウガンダは世界で最も腐敗した国の1つですが、世界銀行によると、制度それ自体はほとんど完璧だと言います。ダグラス・ノースはこの点で基本的に正しい議論をしていました。つまり、フォーマルな制度だけに目を向けてはならないのです。2つのことに注目する必要があります。1つは、インフォーマルな制度はどうなっているか、もう1つは、フォーマルな制度が実際の現場でどう機能してるか、です。

ロルニク:インフォーマルな制度や規範、価値の話に移りましょう。語の定義から始めましょうか。このインタビューでは社会的信頼についてたくさん議論してきました。似たようなところで、社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)や市民的信頼(civic trust)といった言葉を使う人もいます。この点についてご説明いただけますか?

ロススタイン:完璧な測定基準はありません。世界的に見て最初の調査は、1962年のアメリカでの総合的社会調査(general social survey)だと思います [2]訳注:アメリカの総合的社会調査は1972年に開始されたものであるため、恐らく1962年ではなく1972年の誤り。 。そこでは次のような質問がなれました。「一般的に言って、ほとんどの人は信頼できると思いますか?」。この質問は世界価値観調査(World Values Survey)などへと広がっていきました。

この質問は、信頼できるかできないかの二分法を用いています。一方私たちの調査では、0から10の尺度を用いました。人は普通、他人を完璧に信頼したり、全く信頼しなかったりするわけではないと考えたからです。もちろん、尺度があった方が回帰分析はより現実に近づきます。

ではこれが完璧な測定手段なのかというと、そんなことはありません。ですがこの測定値は、多くの有益な結果と一貫して相関関係を示しています。国民の間の社会的信頼が高い国は、ほとんど全ての点でパフォーマンスが優れています。経済面でも民主面でも、また犯罪や腐敗の面でもそうです。

腐敗にどう対処するか

ロルニク:どこかの先進国に政策アドバイザーとして招かれて、国民のQOLを高めるにはどうすればいいかと質問されたら、なんて答えますか? 汚職と戦え? 政府にメリトクラシーを浸透させろ?

ロススタイン:大抵の汚職撲滅運動は「プリンシパル-エージェント」理論を軸にしてきました。これは、プリンシパル(本人)は誠実である一方、エージェント(代理人)は機会主義的で不誠実だという考えです。プリンシパル-エージェント理論によると、腐敗に対処するには、誠実なプリンシパルがエージェントのインセンティブを変化させればよい、ということになります。

汚職で逮捕される恐怖が、〔汚職へと向かう〕強欲に勝るほど強いなら、腐敗を取り除くことができるでしょう。つまり、法を厳しくし、罰を厳しくし、監視を増やす、といったことを実行すればよいのです。

ですがこれは上手くいかないことが分かっています。理由は2つです。第一に、汚職がインセンティブの問題に過ぎないなら、とっくに解決できていたはずです。第二に、体系的に腐敗した国や都市において、正直なプリンシパルはいったいどこから生えてくるのでしょう? いったい誰が正直なプリンシパルになるのでしょう? それを評価する人はいそうにありません。つまり、インセンティブを変化させたり監視したりするはずの人々が、インセンティブを変化させたり監視したりするインセンティブを持っていないのです。そうした人々は買収される可能性があります。実際、最も腐敗しやすいのはそういう人たちです。

プリンシパル-エージェント理論は、汚職研究の大部分を牽引してきた理論です。私は、法や規制〔によりエージェントのインセンティブを変化させること〕が重要ではないと言っているのではありません。それは副次的なものであるはずだと主張しているのです。最も重要なのは、社会契約に対する人々の認識を変えることです。

この議論は、人は基本的に、合理的に私益を追求する効用最大化主体ではない、というより広い考えに基づいています。そういう人はいますが、現実には少数派です。ほとんどの人の道徳的な考え方は、互恵性に基づいています。他のほとんどの人も同じ立場にいれば同じことをするだろうという一定の確信がある場合に、正しいことをしようとするのです。

わざわざゴミを分別しようとしても、他の人が全然ゴミを分別していないならあまり意味はありません。善行にはこういうフリーライダー問題がつきものです。

このことが意味するのは、そのような均衡を変化させたいなら、シグナルを非常に強くしなければならないということです。「自分の行動を変えなければ」と思わせるだけでなく、「他の人も同じ状況にいるなら行動を変えるべきだ」と思わせるほどに強くないといけません。

これは実証研究でも明らかになっています。非常に広範な課税システムについて考えてみましょう。誰も税金を払わないなら、腐敗を気にする人はいません。メリトクラシーは上手く機能しないでしょう。ほとんどの国において、公職者になれるのは、「正しい」政党や「正しい」家系に属している人か、あるいは男性だけです。

この状況を変化させて「これからは厳格なメリトクラシーで行くのだ」と主張するなら、それは革命的なことです。

民族的多様性と社会的信頼

ロルニク:メリトクラティックで質が高く腐敗のない政府についての議論する際、よくある反応は「そんなのはほとんどの国にとっては無意味な話で、スウェーデンのような同質的な国に限られた議論だろう」というものだと思います。

ロススタイン:スウェーデンは非常に多文化的な国になりつつありますよ。恐らく現在、人口の約20%は、少なくとも親のどちらかが外国人です。

ロルニク:ええ、ですがスウェーデンには非常に同質的な社会として歩んできた歴史があり、とても強力な文化を作り上げてきました。そして現在スウェーデンに来る移民は、基本的にその文化を受け入れています。しかし多くの社会は最初から非常に多様です。大昔から移民国家だったアメリカがその例でしょう。

ロススタイン:これは難しい問題です。確かに民族的多様性というのは社会にとって大きな課題なのですが、これに関してはドイツの若い政治学者による素晴らしいメタ・アナリシスが最近発表されました [3]訳注:恐らく、Tom van der Meer and Jochem Tolsma “Ethnic Diversity and Its Effects on Social Cohesion”を指すものと思われる。 。彼は、「民族的多様性は社会的結束(social cohesion)にとってマイナスに働くのか?」という問いを立てて、180の研究(そして480の結果)を調べました。

民族的多様性と社会的結束に関係があることを示すデータもありましたが、その比は60:40でしかありませんでした。

ロルニク:民族的同質性では説明できないとしたら、社会的信頼〔ここでは社会的結束とほぼ同義〕の差を説明するのはどんな要因なのでしょう?

ロススタイン:これについてはちょうど共著論文を仕上げたところですが、その結果は驚くべきものでした。私たちは約200の地域に関して、社会的信頼と政府の質の水準に関するデータを集めました。また、失業率、所得格差、市民社会〔の水準〕、そして、各地域の居住者のうち国外出身の人の数といったデータも集めました。これらのデータを使って回帰分析をしたところ、結果は次のようなものでした。民族的多様性の高い地域では確かに社会的信頼の水準は低かったのですが、政府の質という要因で統制すると、その効果は完全に消えてしまったのです。

つまり、政府の質が高い地域では、民族的多様性は社会的信頼にマイナスの影響を及ぼしていません。私たちはこれを次のように理論化しています。あなたはある地域(あるいは都市)に住んでいるとしましょう。そこにはあなたに似ていない人々がたくさんやってきます。違う言葉を話していて、見た目も異なり、信仰も違う人々です。加えて、あなたは政府の質は高くないことを知っています。税、医療、社会サービスなど、どの役所もなかなか動いてくれません。

その地域にやってくる人々は税金を支払わず、福祉システムを過剰利用し、犯罪に走り、警察もそれをさばききれません。そうなればあなたは人を信頼できなくなるでしょう。ハンガリー、イギリス、スペインを考えてみください。しかしコペンハーゲンの場合はどうでしょうか。そこでもあなたは「うん、私とは全然似てない人がたくさんやってくるよ。彼ら彼女らのことはあんまり好きとは言えないかもね。来てもらわない方が嬉しいかな」と言うでしょう。でも、コペンハーゲンには非常に質の高い政府があります。するとあなたはこんなことを言うんじゃないでしょうか。「彼ら彼女らは確かに私とは違うけど、同じルールに従わないといけない点では違わないね」。こうなれば、信頼の問題はすっかり解消されるでしょう。

ロルニク:民族的多様性の高い国や地域でも、理論的に言えば、社会的信頼や質の高い政府を手に入れることができるとお考えですか?

ロススタイン:民族的多様性が質の高い政府を崩壊させるとは思いません。私が言っているのは、民族的多様性によって社会的結束が損なわれるのは、政府の質が低い場合だろう、ということです。政府の質を高められるなら、民族的多様性は問題ではなくなるでしょう。

デンマークにやってくる移民を例にとりましょう。デンマークに関しては非常に良質なデータがあります。それによると、この国の信頼の水準は非常に高いです。実際、信頼のレベルはここ20年上がり続けています。信頼の水準が非常に低い国からデンマークにやってきた移民には何が起こるでしょうか?

答えはこうです。デンマークで数年暮らすと、そのような移民たちの信頼の水準も上がります。デンマーク人ほど高いレベルではなくとも、出身国よりはるかにデンマークに近い水準になります。デンマークの政府は自分たちを公正公平に扱っている、と移民たちが認識していなければ、こうしたことは起こらないでしょう。

ロルニク:つまり答えはイエスということですね?

ロススタイン:はい。バングラデシュ、トルコ、パキスタンから来た移民は、出身国の公務員が基本的に腐敗しており、誠実でなく、差別的だと認識しています。

そしてデンマークにやってくると、正反対の経験をするのです。デンマークの公務員は賄賂を受け取りません。完璧というわけではないですが、体系的な差別に手を染めてはいません。そして非常に有能です。その社会の道徳的基準が高いか低いかを判断する際に人が重視するのは、公務員の行動です。

ロルニク:フリードマンやハイエクの信奉者たちは、ロススタインさんの研究を無駄な仕事だと考えているかもしれません。政府を小さくすればいいだけなのに、なんでメリトクラシーの実現を追求したりするんだ? と。そのような人たちにはどのように応答しますか?

ロススタイン:巨大で質の高い政府を有する国のデータに目を向けるところから始めたらどうですか? というのがシンプルな返答ですね。北欧あるいは北ヨーロッパのモデルが完璧だと言っているのではありませんが、人口や創造性、経済的繁栄など各種の指標を体系的に分析すれば、北欧諸国は基本的に最上位に位置しています。

北欧の小国に限った話ではない

ロルニク:でも繰り返しますけど、スウェーデン、デンマーク、フィンランドは小国ですよね。

ロルニク:アメリカのソーシャル・セキュリティ(Social Security)について考えてみましょう。これはデンマークと基本的に同じような仕組みで動いています。つまり、普遍的な制度で、正統性も高く、中産階級が参加しています。共和党政権もそれをいじることはできませんでした。イギリスのNHS(National Health Service:国民保健サービス)も同じです。

私の見解を述べると、連帯というのは自然にできあがるものではありません。どう設計するかで決まります。ロールズの「公正なシステムはそれ自体が自らへの支持を生み出す」という表現を持ってくるのが最適でしょう。私が言っているのは、デンマークやスウェーデンのシステムは上手く機能しているということです。もっと新自由主義的な国でもきちんと機能するでしょう。

ロルニク:アメリカでは、司法制度の最上層が非常に政治化しています。アメリカ最高裁は「シチズンズ・ユナイテッド」裁判で、政治においてお金が影響力を持つことを正統化しました。

ロススタイン:その最高裁判決はひどいものです。私はそもそも強力な司法審査をあまり支持していません。私が見ている限りで、司法審査は大抵の場合、選挙で選出されていない人々が政治を行うだけの場になってしまっています。

これは正統性に関する大問題を生み出します。民主主義は、最終的には正統性に依存しています。選挙で負けたなら、負けたと認めるべきです。選挙で選ばれていない裁判官が意思決定を行うなら、国民はなぜそれを受け入れるべきなのでしょう?

労働組合

ロルニク:政府の質に関して、公共セクターにおける労働組合はどんな役割を果たすのでしょうか? 多くの国で、公共セクターの労働組合は大きな問題を生み出しており、組合員だけを保護する特殊利益集団と見なされています。

ロススタイン:「労働組合(union)」という語はアメリカと北欧諸国では全く異なる意味を持っています。両者を比較するのは非常に難しいですが、これは比較政治学に常につきまとう問題です。言葉は同じでも、実際に比べてみるとリンゴとナシくらい違うのです。スウェーデンでは、労働組合の集会に人が来たなんて話は聞いたことがありません。誰もそんなことはしません。

ロルニク:スウェーデンとデンマークでは、労働者の60%から80%が労働組合に加入しているため、労働組合は責任ある行動をとらざるを得ず、効率性と生産性を考慮しなければならないという事情があります。他の国にはこうした事情がないということでしょうか?

ロススタイン:小規模な労働組合は非常に無責任な行動がとれます。無責任な行動をとってもそのコストの負担者は分散しているからです。ですが70%の労働者が加入している労働組合はそのようには動けません。コストを他人に転嫁できないからです。これは非常に論理的な話です。クラウス・シュナーベル(Claus Schnabel)とヨアヒム・ワグナー(Joachim Wagner)はよく引用される論文で、こんなU字曲線を提示しています [4]原注:Claus Schnabel and Joachim Wagner. 2008. “Union Membership and Age: The Inverted U-Shape Hypothesis under Test.” University of Lüneburg, Working Paper Series in Economics, No. 107 。労働組合が非常に弱い場合、経済にとって好影響を及ぼす。非常に強い場合も好影響をもたらす。最悪なのはその中間で、ストライキをたくさん行い使用者に要求を突きつけられる程度には強いが、責任ある行動はとらない場合だ、というのです。

例えばスウェーデンでは、恐らく75%から80%の労働者が労働組合に加入しています。そのため、労働組合は他人にフリーライドできません。低生産性や非効率性が職場で蓄積していった場合、そのコストを転嫁できるような集団が存在しないのです。ごく少人数しか加入していない労働組合なら、レントを残らず手に入れられます。コストを負うのは他人だからです。〔そのコストの負担は分散している以上〕誰がそんなコストを気にするでしょう?

小規模な労働組合は、ちょっとしたカルテルと考えればいいでしょう。しかし大規模な労働組合にそんな駆け引きはできません。強すぎる要求を出せば組合員も被害を被ると分かっているので、責任ある行動をとらざるを得ないのです。

〔本エントリは、当インタビューを掲載しているウェブサイトPromarketの編集部の許可に基づいて翻訳・公開している。見出しは適宜追加、位置変更、ないし語句を修正している。〕

[Guy Rolnik, ProMarket Interviews Bo Rothstein, Part II: On Strong Markets and Quality Government, Promarket, 2016/5/30.]

References

References
1 原注:John H. Cochrane, 2015. “The Election’s Most Important Issue.” www.hoover.org/research/elections-most-important-issue
2 訳注:アメリカの総合的社会調査は1972年に開始されたものであるため、恐らく1962年ではなく1972年の誤り。
3 訳注:恐らく、Tom van der Meer and Jochem Tolsma “Ethnic Diversity and Its Effects on Social Cohesion”を指すものと思われる。
4 原注:Claus Schnabel and Joachim Wagner. 2008. “Union Membership and Age: The Inverted U-Shape Hypothesis under Test.” University of Lüneburg, Working Paper Series in Economics, No. 107
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