2026年1月、イランでの抗議活動とそれに続く血なまぐさい弾圧が展開される中、私はオーディオブックやポッドキャスト『The Rest is History』シリーズを聴きながら、1979年のイラン革命への知見を深めていた。 [1]原注:ジェームズ・クラベルの1986年の〔イラン革命を題材とした〕叙事詩的小説『旋風』を強くお勧めする。 また同時に、デジリー・A・デシエルトとの共著論文『市民社会の力』の校正作業も進めていた。論文は現在、『Journal of Comparative Economics』誌に掲載されている。

論文では「いかなる状況下で、抗議活動が独裁政権を打倒できるのか?」という問いを扱っている。
昨年12月から今年1月にかけて、イランでの急騰するインフレ、通貨リアルの暴落、経済的失政を受けて始まった抗議行動は、現体制を完全変革する要求へと集約していったが、いまだ中・長期的な帰結は定かでない。しかし、抗議活動の当初の勢いは終息してしまい、今のところは信じがたいほどの残忍な弾圧によってイラン国内は沈静化したように見えるのは確かである。
これはよく見られる現象だ。西側の観察者やジャーナリストは、抗議活動が独裁政権を打倒できる能力をいつも過大評価してしまう。ベルリンの壁崩壊や、東欧での「色の革命」 [2] … Continue reading のイメージで育った私たちは、こうした抗議活動には歴史の必然的な力が宿っており、成功する運命にあると思ってしまうようだ。しかし、社会科学の研究が示しているのが、成功した政権変革は大抵の場合で内部クーデターであり、その典型的なものは政権内部の有力者の離反が決定的なものになるという事実である。
私たちはなぜ抗議活動の力を過大評価してしまうのだろう? その一因が、民主主義体制下の抗議活動のロジックを、独裁体制にそのまま当てはめてしまうからだ。個人的には、民主主義体制においてさえ、抗議活動は過大評価されているのではないかと疑っている。イギリスではイラク戦争反対デモが行われたが、戦争を止めることも、2005年のトニー・ブレアの再戦を阻止することもできなかった。平和的な抗議活動は重要な民主主義的権利だ。それ故に、我々は、それを美化し、その力を過大評価しがちである。
映画『スターリンの葬送狂騒曲』はアメコミ『Vフォー・ヴェンデッタ』より優れた社会科学だ。

とはいえ、政治的抗議活動にはなんらかのロジックがあり、独裁体制においてさえ権力者になんらかの負荷を与えることができるという事実はある。そこで、我々が論文で明らかにしたのが、一般市民と政治エリートのあいだにある横断的な結びつきこそが、体制へのコストを増幅する役割を果たしている事実だ。こうして紐解くことで、政治的移行を進める上で、市民社会の果たしうる役割に光を当てることができる。
論文のアイデアの元になっているのは、ブルース・ブエノ・デ・メスキータらが開発した有力な理論「選択者理論」である。この理論では、民主的であろうと独裁的であろうと、あらゆる支配者は、権力維持のため、なんらかの連合からの支持を必要としている。支配者を選べる発言権を持つ少人数の集団は「〔支配者〕選択者層」と名付けられている。そして、「選択者層」の中のより小さいグループ――政権の存続において不可欠な積極的な支援を行っているグループは「支配連合」とされている。
支配者は、(すべての人に利益をもたらす)公共財と、(連合メンバーだけに利益をもたらす)私的利益譲渡や利益供与との分配比率を操作して権力を維持する。民主主義体制では、勝利連合は大規模なため、支配者は公共財の提供に傾注せざるを得ない。独裁国家では、連合は小規模であるため、支配者は対象を絞った利益供与によって忠誠を買うことができる。このフレームワークは、〔支配者の〕政治的生存と統治のあり方を一元的に説明する手法を提供してくれる。
選択者理論では、勝ち組連合だけが扱われている。我々は論文で、理論では扱われていない一般市民の役割と市民社会に焦点を当てたアプローチを行った。従来までの選択者理論モデルでは、支配者がエリートからの忠誠をいかに維持するかに焦点を絞っており、一般市民は権力者を直接的に退陣させられないためほぼ無視されてきた。我々は、抗議行動を起こすことができている点で、こうした一般市民もまた間接的に重要であることを示している。我々の見解は、抗議運動では独裁体制を直接に打倒できない――身も蓋もない言い方するなら、武器を握っているいるのは誰だろう? と――しかし、抗議行動は、統治コストを引き上げ、政治アクターに〔政権から〕離反するきっかけを与えれば、決定的な役割を果たしうるというものだ。
政党、NGO、労働組合、社交クラブ市民といった社会組織は、政治的アクターと一般市民の双方にまたがるグループとなっているなら、重要な存在となりうる。
我々のモデルは、支配者を権力から直接排除できるエリート(「政治的アクター」として分類)と、支配者を直接追放できない一般市民とを区別している。一般市民は抗議することができる。しかし、抗議しても自動的に政権変革につながるわけではない。抗議活動を行っても、支配者は政治的アクターからの忠誠の維持が困難となるだけで、十分な成果を上げられないことがほとんどだ。
こうしたモデル化することで、専制体制においても、市民社会組織はなんらかの役割を果たしていることを明確に示すことができる。研究で示された主な結論が、政治的アクターと一般市民の双方を含む市民社会組織は、どちらか一方だけで構成された組織よりも政治的変革を成しうるうえではるかに効果的である、というものだ。
一般市民からなる組織は抗議活動を行うことができる。しかし、十分な資源を保持している支配者は抗議の嵐を耐え凌ぐことができる。政治的アクターだけの組織は離反するぞという脅しを行うことはできる。しかし、大衆の支持がなければ、利益供与によって容易に買収できる。
しかし、両階層を横断する組織は強力なフィードバック・ループを生み出す。組織内の一般市民が抱える大衆的不満が、政治的アクターのメンバーに圧力をかけ、政治的アクターは体制に対して高い信憑性をもって支持を撤回するぞと脅すことができるようになる。
論文で、主要な例として取り上げているのは、過去の歴史である1688年の名誉革命だ。しかし、ケーススタディとして他にもいくつか取り上げており、この記事ではそれらに焦点を当てよう。
エドゥサ革命(ピープル・パワー革命)
1986年、フィリピンのフェルディナンド・マルコス大統領は、民衆による抗議活動果にに、平和的に追放された。この事例では、民衆の圧力が奏功したのに、他の事例ではそうならなかったのだろう?
理由は多岐にわたるが、我々のモデルは、マルコスがピープル・パワー運動に直面して権力を維持できなかった理由を理解するするための分析的枠組みを提供している。論文では以下のように論じた。
マルコスは1965年から権力を掌握し、1972年には戒厳令を布告したことで、独裁者として統治できるようになった。1980年代初頭までには、フィリピン社会では、エリート・大衆共に多くの層がマルコスの継続する支配に反対する動機を持っていた。政権は広範な腐敗――「略奪の政治」――と人権侵害を特徴としていた。
同時に、マルコス政権は全体主義とは程遠かった。さらなる民主化を求める幅広い声が存在しており、市民社会組織は繁栄を許されていた。経済もまた、アメリカからの投資に大きく依存していた。
外部からの経済的圧力と、国際融資の停止が、マルコスを脆弱にする状況を創り出した。労働組合、学生グループ、職能団体など、さまざまな組織がマルコス政権に対して大衆を動員した。
しかし、最も重要な市民的社会組織は、カトリック教会だった。当初、フィリピンの教会指導部は、マルコスが反共産主義だったため、彼を支持する意向があった。しかし、野党指導者ニノイ・アキノが暗殺されると、立場を変え、シン枢機卿のような教会指導者は、民主政への移行を求めるようになった。

1986年初頭に続いて起こったのは、民衆による抗議活動が政権変革を誘発した典型例となっている。カトリック司祭と民主化活動家らによる抗議活動が主要道路を封鎖し、都市を麻痺させた。これにより、マルコス政権は、弾圧するコストが劇的に上昇した(共産主義者を秘密裏に殺害するのに比べて、司祭や修道女を公衆の面前で射殺するのは非常にハードルが高い)。
我々のモデルの用語で言うなら、これら抗議活動は政府が直面するコストを引き上げ、(進行中に革命には国際的な注目が集まっていいたため)弾圧のコストとリスクを劇的に引き上げたのである。モデルの観点からは、外国からの融資と、アメリカからの支援が枯渇したことと相まって、支配連合のメンバーに対する買収が極めて困難となったことを意味している。フアン・ポンセ・エンリレ国防相やフィデル・ラモス参謀長らの主要な軍・政府高官がマルコス政権から離反し、野党指導者コラソン・アキノへの支持を表明した。2月26日にはマルコスは統治が不可能となっていることを悟り、大統領を辞任して亡命した。
論文で論じているように、ピープル・パワー革命のケースでは、政権変革を理解する上で、我々のモデルが有用であることが示されている。マルコスへの反対派を組織化するうえでカトリック教会の役割が決定的だったのは、政治アクターと一般市民の双方にまたがる広範な組織だったからである。
むろん、同時期のポーランド〔民主化運動〕で〔カトリック教会に支持された自主独立的な労働組合〕連帯が果たした役割と強い類似性があるのは言うまでもない。これを敷衍すると、他の地域での民衆の抗議行動が独裁政権の転覆に失敗した理由も教えてくれる。
アラブの春
重要な反例がアラブの春である。よく知られているように、最初のきっかけは2010年12月16日にチュニジアのシディ・ブズィードでモハメド・ブアジジが〔権力不正・汚職に抗議して〕焼身自殺したことだ。ベン・アリ大統領に対する抗議活動がチュニジア全土に広がり、次いでエジプトでのホスニ・ムバラク政権に反対する活動に、そしてエジプトから中東全域へと広がった。
アラブの春は、世界的な注目を集めた劇的な一連の出来事だったが、民主主義が中東全域に広がるのではないかという期待は裏切られることになった。
多くの研究者が、この失敗を分析している。マルクス主義的観点からすれば、アラブの春は革命家なき革命だ。しかし、学者の多くは、アラブの春の有効性を制限したのは、反体制グループがさまざまに分裂していたからだと主張している。当時、私の同僚だった〔革命研究の第一人者〕ジャック・ゴールドストーンは「歴史には、広範な連合とならず、1つのグループで留まったため容易に鎮圧された、学生運動、労働者ストライキ、農民蜂起で溢れている」と警告していた。
我々は論文で、このゴールドストーンの評価をふまえ、中東では市民社会組織が長年にわたって弱体化していたことで、真に横断的なグループの不在をもたらしたと論じた。
つまり、フィリピンのケースとは対照的に、アラブの春には社会全体を網羅するような組織は関与していなかったのだ。さらに、中東の支配者の多くは、反対勢力を鎮圧できるだけの大きな資源を有している。アラブの春の前夜、UAE、バーレーン、サウジアラビアなどの国々は膨大な石油収入を得ており、我々のモデルによれば、それらによって政権は、民衆からの圧力への耐性を強めることができたのである。興味深いのは、〔アラブの春で〕独裁政権が崩壊し、その後も復活することがなかった唯一の国チュニジアには、強力な労働運動(チュニジア労働総同盟、UGTT)が存在していたことだ。
[Mark Koyama, The Political Power of Civil Society, How the World Became Rich, Feb 09, 2026.]