マイルズ・キンボール 「J・S・ミルの休日論」(2015年2月28日)

世界を救うためにも、複眼的な視点を養うためにも、ちょくちょく休みをとるべきかもしれない。
画像の出典:https://www.japan-guide.com/blog/sakura10/100505_hirosaki.html

宗教上のしきたりを信徒以外にも押し付けることに対して、ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)が異を唱えているとしても別に驚きはしないだろう。ところで、一部の宗教では、労働をしない休日が定められているが、働いている人に週に1日は休日をとるのを勧める社会のルールにミルがかなりの共感を示しているのを知って驚いた。とは言え、全員が同じ日に休まなくていいというのがミルの考えだ。なぜなら、休日に娯楽に興じるためには、彼女彼なりの職務を全(まっと)うして娯楽に興じる手助けをしてくれる誰かしらが必要だからだという。『自由論』の第4章「個人に対する社会の権威の限界」から引用しよう。

自由に対する個人の正当な権利への不当な干渉のもう一つの重要な例――個人の自由を脅かすおそれがあるというのではなく、もう既にだいぶ前から大いにその効果を発揮している例――が、安息日法である。週に1日休むのが宗教的な義務となっているのはユダヤ教徒だけに限られてはいるが、やむを得ない事情がないようであれば、ユダヤ教徒以外の人たちにとっても週に1日仕事を休むのは極めて有益な習慣であることは疑いない。この習慣が守られるためには勤労者階級全体の合意が欠かせないようであるなら――勤労者の一部が休日に働くと、他の勤労者も働かないといけなくなるかもしれないようなら――、勤労者全員がこの習慣に従うのを保証するために、産業の大部分に日曜日に操業を停止するように法律によって義務付けるのは、許容できるし正当だと言えるかもしれない。しかしながら、この理屈が当てはまるのは、一部が働くと他も働かないといけなくなる職業だけであって、余暇を使って日曜日にそうじゃない職業を掛け持ちするのを妨げてはならないし、法律によって娯楽に制限が加えられてはならない。誰かが休日に娯楽に興じる裏では、その娯楽を提供するために誰かが働かねばならないというのは言うまでもない。娯楽を提供する職業に自分の意思で就いていて辞める自由もあるようなら、多くの人に喜びと気晴らしを与えるために、少数の人が働くというのは価値があることだ。 もしも全員が(休日を返上して)日曜日にも働いたら、7日働いて6日分の給料しかもらえないって話になるじゃないかという言い分はその通りだが、日曜日に大多数の職場が休みになっているようなら、娯楽を提供するために日曜日に働かなくてはならない少数の人の懐には、それに見合うだけの収入が入ってくる。その少数の人もその仕事を続けなければいけない義務はなく、お金よりも休みが欲しいようなら辞めればいいだけだ。その少数の人のために何らかの手が講じられねばならないというなら、日曜日以外を彼らの休日とする習慣を確立すればいい。それゆえ、(職業の如何を問わず、すべての人に日曜日に休むように求めて)日曜日に味わえる娯楽に制限を加える根拠となり得るのは、日曜日に働くのは宗教上よろしくないからという理由だけに限られることになる。そのような理由に基づいて法律が定められるなんていうのは以(もっ)ての外で、何が何でも許してはならない。「神に逆らう者は神に罰せられる」と言われるが、被造物たる同胞には何の害も及ぼしていないのに、全知全能の存在(神)に対して罪が犯されたらしいという理由で、神に成り代わって罰を加える権利が社会やその代表者に存するとでも言うのだろうか? これまでに何度も繰り返されてきたありとあらゆる宗教的な迫害の根幹をなしているのが、同じ宗教を信じる仲間を増やすのが信徒の義務であるという考えであり、その考えを受け入れてしまうと、迫害が正当化されてしまうことになるのだ。日曜日に鉄道に乗ってどこかへ旅するのをしつこくやめさせようとしたり、日曜日に美術館が開くのに頑(かたく)なに反対したりする声に付きまとっている感情は、過去の迫害者たちが見せたほどには残虐なものではないが、背後にある精神は基本的に同じである。自分が信じている宗教で許されていない行為を異教徒がやるのを絶対に許してはならないという不寛容な精神の表れなのだ。神は、異教徒の行いを忌み嫌いなさるだけでなく、異教徒が行いを改めずにいるのを見逃している者も有罪と判断なさると信じ込まれているのだ。

「やむを得ない事情がないようであれば、・・・(略)・・・週に1日仕事を休むのは極めて有益な習慣であることは疑いない」という指摘には、大いに同感だ。コンテスト(あるいは、経済学者が言うところの「トーナメント」)かなんかに参戦しているつもりになって、「ライバルたちは、休みなんかとってないんだ」と思い込んで日々の仕事に励んでいる人たちにとっては、週に1日休むというのは、守るのがなかなか難しい習慣だ。 誰が勝つかわからないギリギリの勝負を戦っているつもりになっている人にとっては、眠るのさえも贅沢(ぜいたく)に思えて、おちおち眠ってなんかいられないかもしれない――ダン・ミラー(Dan Miller)に寄稿してもらった睡眠がテーマのエントリーでも触れられているが、競争心が強いタイプの中には睡眠に対して否定的な姿勢をとりがちな人がいるようだ――。

物凄く競争心が強いタイプ――その数は多い――にちょっとくらい休んでもらうためには、休みをとっているのに誰にも引けを取らずにいられる人こそが偉いんだっていう風潮を作るのが一番いい方法かもしれない。しばらく前に語った自分の体験談――“How the Idea that Intelligence is Genetic Distorted My Life—Even Though I Worked Hard Trying to Get Smarter Anyway”――が思い出されるところだ。

大学に入学すると、賢い競争相手がたくさんいた。同じクラスのみんなに負けないように、一生懸命勉強しなくちゃいけないなと心の中では思っていたが、クラスのみんなに「大して努力もしてないのに、よくできる奴」って印象を持たれたいという欲望をやはり抑えられずにいた。日曜日に勉強していないのに、大学の授業についていっている私の姿を見て、同じクラスの同級生が畏敬の念を表したことがある。あの時のことを思い出すと、今でも嬉しくて身震いがしてくる。

ウィリアム・バックリー(William F. Buckley)には感服しっぱなしなのだが、その理由の一つも似たような話だ。バックリーは、世界を変えるために自分にできることを片っ端からやってのける一方で、お気に入りの気晴らし――セーリングとか――にも一切手を抜かなかったのだ。同じ流れで、モルモン教の創始者であるジョセフ・スミス(Joseph Smith)について次のようなエピソードが伝えられている。

よく知られていることだが、ジョセフ・スミスは、マスレスリング、レスリング、野球、水泳、狩りが好きだった。ジョセフと何度も一緒に野球をやったことがあるウィリアム・オルレッド(William Allred)は、預言者(ジョセフ)が誰かから「お前は遊びにかまけている」と批判された時のことを覚えている。ジョセフは、その批判への答えとして、預言者と狩人の物語を持ち出してきたという。その物語で語られているのは、遊びと仕事の関係についての彼流の哲学だ。その物語によると、一人の預言者が一本の木の下で「何かの一人遊びをしながら」座り込んでいると、一人の狩人が近づいてきてその預言者を叱ったという。すると、預言者は、狩人に次のように尋ねたという。弓矢の弦(つる/げん)を常に引いていますか? 弦を常にピンと張っていますか?

「いや、そんなことはしていない」と狩人。

「どうしてでしょうか?」と預言者。

「弦を常にピンと張っていたら、弾力性が失われて弛(たる)んでしまうからね」と狩人。

「私の心にしても同じなんです。心を常にピンと張り詰めた状態にしておきたくないんですよ」と預言者。

やむを得ない事情がないようなら――やむを得ない事情に巻き込まれるのは、そんなに珍しくないのだけれど――、仕事中毒に陥らないようにしようじゃないか。誰か一人が仕事中毒に陥ったら、他のみんなも仕事中毒になって頑張らないといけないように感じてしまうのだから。 この世には、問題が山積している。世界を救うためにやるべきことはたくさんある。ちょっと気晴らしをしたからって(&ちょっと眠ったからって)、世界を救える可能性がだいぶ遠のくとは限らない。むしろ、ちょっと気晴らしをしたら(&ちょっと眠ったら)「生産性」が高まって、世界を救える可能性も高まるかもしれないのだ。

「生産性」に及ぼす効果だけに目を向けるのは、ちょくちょく休むことに伴う恩恵をあまりにも過小評価することになるだろう。ろくに休まずに一生懸命頑張っていたら、世界を間違った方向に導いていた・・・なんていう恐ろしいリスクが常にあるのだ。そういうリスクを和らげるためには、複眼的な視点を養う必要がある。仕事と休み(遊び)のバランスをうまくとるようにしたら、複眼的な視点を養えるチャンスが生まれるのだ。


〔原文:“John Stuart Mill on Having a Day of Rest and Recreation”(Confessions of a Supply-Side Liberal, February 28, 2015)〕

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