リ・ガンクック「岸田文雄の『新しい資本主義』について」(2024年6月6日)

賃金の低迷とアベノミクスからの様々な残響

2021年9月、岸田文雄は「新しい資本主義」という野心的な綱領を掲げて首相に選出された。岸田は、自民党の党首として、経済成長と所得分配の好循環をもたらす新規で、より良い経済システムの実現を約束してみせた。日本政府はこの「新しい資本主義」を推進するための計画をいくつか提示したが、日本国民は依然として現在の実体経済に不満を抱いている。日本の株式市場は急騰し、日経平均は一時的に約34年前のバブル期の水準を超えたが、2023年半ば以降の経済成長は停滞している。岸田政権の支持率は着実に低下しており、2022年当初には50%を超えていたが、2024年2月には25%にまで低下した。

革新的な経済運営を約束したのは、岸田政権が初めてではない。2013年、安倍晋三は、拡張的な金融政策によって日本経済を復活させることを約束した。しかし、アベノミクスや、現在の岸田プランにも関わらず、賃金の伸びは停滞したままだ。革新的な政策や選挙公約の背後に底流として流れているのは、紛れもなく長期にわたる賃金の低迷である。これは、労働者の交渉権力の永続的な低下によって引き起こっている。よって、日本経済の変革を成功させるには、持続的で公平な経済成長を妨げている構造的な権力の不均衡の是正に優先的に取り組むべきだ。

アベノミクスの成果と限界

安倍晋三は、質的・量的金融緩和、機動的な財政政策、規制緩和による構造改革を統合した経済戦略「アベノミクス」で国際的な名声を得た。アベノミクスはリフレ派的なアプローチによって、デフレ・サイクルを終わらせ、日本経済を活性化させることを目的としていた。政策の主な構成要素となっていたのが、〔貨幣〕流動性を速めるための日本銀行(日銀)による長期国債の購入だった。2013年4月、日銀は、マネタリーベースを倍増させ、2年間で2%のインフレ目標を達成する意向を表明した。2016年にはマイナス金利政策とイールドカーブ・コントロール(YCC)を実施し、長期国債金利の直接操作を行った。この拡張的で非伝統的な金融政策によって日銀の国債保有残高は、アベノミクス前の2013年3月の11.6%から、2023年9月には約53.9%にまで急増した。

振り返ってみるとアベノミクスは、成功と失敗の両方を示した。アベノミクスは、効果的に雇用を作り出し、デフレを終わらせたが、賃金と国民所得の伸びにまでは波及しなかった。アベノミクスは最終的には、雇用の増加と、労働市場の逼迫をともなってわずかな景気回復をもたらした。量的緩和により円安が進み、輸出が増え、企業収益が増え、株価指数も上昇した。日銀による強力な金利コントロールによって政府債務残高の対GDP比は安定した。しかし、デフレから脱却したにもかかわらず、2%のインフレ目標は達成できなかった。重要なのは、2013年から2020年にかけて実質賃金の上昇したのが2年間しかなかったことだ。企業投資は回復したが、民間消費の伸びは低迷した。アベノミクスの第二段階では「一億総活躍社会」と名付けられた、さらに踏み込んだ改革措置を日本政府は導入した。2016年からは「働き方改革」として知られる労働改革アジェンダの改定の一環として、労働市場で不遇な立場にある非正規労働者の支援や、長時間労働の削減などに力を入れている。日本政府はまた、子育て支援と高齢者支援のために社会福祉給付を増やす計画を発表した。労働供給を増やし、内需を促進することで、経済成長を刺激し、2060年までに日本の総人口を1億人で安定させることを目的とした出生政策も行っている。

アベノミクスでは賃金上昇の重要性が強調され、内需の刺激によって、より平等的な所得分配の好循環を確立しようとした。にもかかわらず、賃金の伸びは低迷を続けている。OECDのデータを用いた日本政府の報告書によるなら、1991年から2019年にかけて、労働者一人当たりの実質賃金水準は、アメリカでは41%上昇、ドイツとフランスでは34%上昇したのに対し、日本は5%の上昇にとどまっている。日本はマクロ経済における不均衡の代表的な象徴となっている過剰貯蓄問題に苦しんできている。これは、企業利益分からの貯蓄が投資よりはるかに巨額で、他の先進国より深刻であることに起因している。

アベノミクスが長期にわたる賃金上昇の停滞に歯止めをかけることができなかったことは明らかだ。実際、2019年の実質賃金は2013年よりもさらに低下している一方で、企業収益は大幅に増加している。安倍政権による税制改革は、労働者ではなく資本へのさらなる優遇策だった。日本政府は2013年から2016年にかけて法人税の実効税率を37%から約30%に引き下げ、2013年から2019年にかけて消費税率を5%から10%に引き上げた。

景気回復が遅々として進まなかったのも不思議ではない。日本のGDP成長率は2013年から2018年までプラスだった一方で、GDPの最大構成要素である個人消費がプラス成長を記録したのは2013年、2017年、2018年の3年だけだった。2018年になって日本は景気後退に突入し、コロナ危機前の2019年にはマイナス成長となった。コロナ危機への対応として、日本政府は大規模な財政出動を実施したが、他の先進国と比較すると、依然として経済回復は遅れている。

岸田文雄の「新しい資本主義」構想

このアベノミクスの弱点が、岸田文雄の精力的なキャンペーンの背景となっている。岸田による「新しい資本主義」構想は、特に弱い立場にある労働者の賃金上昇の必要性を強調している。岸田は自民党の総裁選で、医療、保育、介護、下請けで働く労働者の賃上げの必要性を強調した。安倍晋三の綱領を引き継ぐ候補者が不在だったこともあり、岸田はこうした公約に訴えて政権を樹立した。岸田は、キャピタルゲイン課税の引き上げも提唱している。日本では、所得税の最高税率が55%であるのに対して、キャピタルゲインへの税率は一律でわずか20%だ。以下の図1で示すように、この2つの税率の差によって、日本では所得が1億円を超えると、実質的な税負担が減ることになる。これは「一億円の壁」と呼ばれている。

図1 日本の所得税負担と資本利益率
出典:Hisanaga (2022), p. 11Screenshot

しかし、キャピタルゲイン課税の引き上げ案は、抵抗と株式市場の下落によって撤回に追い込まれた。2021年9月30日に、岸田がキャピタルゲイン課税の改革を発表した直後から、日経平均株価は11日連続で下落し、岸田は10月11日に中止を発表した。その後2023年になって、日本政府は、所得30億円以上の超富裕層限定で、キャピタルゲイン課税の税率を22.5%にまで引き上げる制限措置を導入した。

岸田はキャピタルゲイン課税の引き上げにはしくじったが、新しい資本主義は目下も継続中だ。首相となってからの最初の演説で、「分配なくして成長なし」を強調した。首相就任直後には、首相官邸に「新しい資本主義実現会議」を設置した。岸田を議長とするこの会議は、政府関係者、企業代表、労働者、専門家で構成される定例会議を開始した。2021年11月の第二回会議では、政府は「緊急提言(案)~未来を切り開く『新しい資本主義』とその起動に向けて~」と題する文章で改革アジェンダを発表した。日本政府は、「成長と分配の好循環」の実現に向けての持続可能なステークホルダー資本主義の構築を強調している。この計画には、グリーンエネルギーへの転換を含む成長戦略が含まれている。分配戦略としては、弱い立場の労働者の賃金上昇、賃金格差の縮小、人的資本への投資促進、企業の賃上げ支援等が含まれている。また、2021年12月には、企業は外的ショックとコスト上昇を下請けに円滑に転嫁できるように、大企業と下請け中小企業との間での構成な取引を監督する政府案が示されている。

2022年6月、日本政府は「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」を発表した。この発表文書では、新しい資本主義を、自由放任から福祉国家以降の、そして新自由主義以降の自然な進化の先にある次のステージであると提唱している。新しい資本主義とは、格差と気候変動に対処することで、市場と国家が共同で人々の幸福の実現するように務めるシステムである、とのことだ。成長の果実を公平に分配することこそが自得可能な成長への投資であり、日本は賃金上昇、公正な貿易、よりより教育に努めるべきであると提唱されている。特に政府は、人的資本、科学技術、スタートアップ、グリーンテクノロジーとデジタルテクノロジーへの転換に戦略的に投資するとアナウンスしている。具体策として、人的資本と流通への投資として、賃上げした企業への政府補助金や、下請け企業による適切な納入価格の設定等、賃金上昇や労働者訓練のためのいくつかの計画が含まれている。2022年11月には、資産所得の倍増や、スタートアップ企業の振興等の計画も発表された。日本政府は2023年5月には労働者の技能向上と、職務給の導入のために、「三位一体の労働市場改革」の計画を発表した。日本政府、特に「新しい資本主義実現会議」が、計画を継続的に更新し、フォローアップしていることは注目に値するだろう。

「新しい資本主義」は概ね、世界金融危機後に国際機関によって提唱された包括的な成長戦略にほぼ沿ったものであり、アベノミクス第二期の基本理論を踏襲したものでもある。これは、バイデン政権の特徴でもある、産業政策の復活や、現代のサプライサイド経済学とも合致するものだ。

最近の日本の経済成長と賃金上昇

岸田政権の新しい資本主義は大きな課題に直面している。コロナパンデミック以降、日本政府は財政刺激策によって家計のインフレ対策を支える政策措置の強化を図ってきた。しかし、日本の景気回復は、特にアメリカと比較すると、相対的に緩慢としたものだ。パンデミックに対して日本が行った財政刺激策は、2021年9月までの規模ではGDP比で16.7%となっており、アメリカの25.5%より小規模である。日本では特に個人消費の伸びは弱く、2023年第2四半期以降はマイナスであり、最近は家計所得や賃金も停滞している。2023年の実質GDP成長率は通年では1.9%と上昇したが、2023年第3四半期はマイナス成長〔年率換算マイナス2.9%〕、第4四半期ゼロ成長〔年率換算+0.4%〕となった。2024年第1四半期のGDP成長率は-2.0%となり、経済はさらに停滞した。

図2 日本の実質GDPと構成要素別の経済経済成長率(%)
出典:内閣府

日本にはついにインフレが到来し、インフレ率は2022年後半にはピークに達したが、これを日銀は歓迎しなかった。日本のインフレは、日銀や日本政府が期待したような賃金上昇に裏付けられた内需的な刺激ではなく、円安による外的ショックに起因していたのだ。日銀はマイナス金利政策とYCCを継続したが、長期国債金利が徐々に上昇する微調整を行った。2022年にFRBが急速に金利を引き上げたため、日米の金利差は拡大した。このため、日本円は、2022年の1月の110円から、10月には150円となり、2024年5月現在で約156円にまで大幅に下落している。図3が示すように、ロシアによるウクライナ侵攻後のエネルギー・食料価格の上昇と相まって、円安は消費者物価指数を上昇させ、2022年末には4%以上まで上昇している。しかし、図3にあるように、2024年3月時点では2.7%にまで鈍化した。

図3 日本の消費者物価指数(%)
出典:総務省

問題は、名目賃金の伸びがインフレを大きく下回っていることだ。実質賃金の伸びは、図4に示すように、2024年1月には下落幅が縮小しているものの、2022年4月以降24ヶ月連続でマイナスとなっている。これは「新しい資本主義」によって期待されているものとは正反対である。

出典:厚生労働省

岸田政権は積極的かつ熱心に賃上げを要請しており、最近では大企業も前向きに対応している。ユニクロで知られるファーストリテイリングは2023年に賃金の40%引き上げを実施し、他社も追随した。日本の企業連合組織である経団連でさえも、賃上げは企業の責任だと主張した。日本では労働組合は、毎年春に「春闘」と呼ばれる企業との賃金交渉を行うが、2023年の平均賃上げ率は3.6%となり、過去を大幅に上回った(図5)。

2024年の賃金上昇率はさらに高くなると予測されている。連合(日本労働組合総連合会)によると、春闘による平均賃上げ率(一次集計)は前年比5.3%上昇と、1991年以来で最高となった。この直後、日銀は2007年以来となる利上げを実施し、マイナス金利政策とイールドカーブ・コントロール政策を解除した。これは、賃金の上昇と総需要の拡大に伴って、日本経済がようやく健全なインフレ率を達成できると日銀は判断したからだ。賃金・物価のスパイラス上昇を非常に懸念していたアメリカとは対照的に、日銀はアベノミクス実施以降、この正のスパイラルを積極的に達成しようとしてきている。

図5 春闘賃上げ率(%)
出典:日本労働組合総連合会

求められているのはマクロ経済学ではなく、賃金上昇の政治経済だ

〔労使の〕協調的交渉や、〔アベノミクス以降の〕金融政策の変更による賃金の急上昇は、約30年ぶりの日本経済のリフレーション(膨張)の兆候であり、朗報であることは間違いない。しかし、日本経済が長期停滞に終止符を打てるかどうかは、まだ分からない。労働組合を抱える大企業では賃上げが見られるが、多くの中小企業ではその余地が少なく、賃金上昇を停滞させている大きな要因となっている。さらに、賃上げに不可欠な労働組合の役割は非常に限定的だ。このため、2023年の名目賃金の上昇率は1.2%にとどまっており、企業と労働組合間での賃金交渉の結果を大きく下回るものとなった。これは、最近の日本の株式市場の急騰とは対照的だ。日経平均株価は2024年には4万円を超え、1989年12月のバブル期のピークを上回った。これは、企業収益の増加や、日本政府のコーポレートガバナンス改革による株式市場の支援、外国人投資の流入などを主な要因としている。しかし、日本で株式投資をしている人の割合は、2022年の時点で全人口の12%に過ぎず、貯蓄の無い人の割合は約27%だ。

日本社会全体で、賃金上昇が急務であると認識されつつある。厚生労働省の最近の報告書は、賃金が1%上昇すれば消費と経済成長が促進され、生産を0.22%増加させ、16万人の雇用が創出されると主張している。しかし、〔アベノミクスによる〕10年の政策実験の結果、こうした賃金上昇は、実態経済内の権力バランスの再調整に関係していることが自明となり続けている。日本の労働組合加入率は、非正規労働者の割合の増加にともなって、数十年にわたって低下を続けている。組合加入率は、1980年の30.8%から、2000年には21.5%に、2022年には16.5%に低下した。パートタイム労働者の組合加入率は2022年では8.5%にとどまっている。全労働者に占める非正規労働者の割合は、1990年の約20%から、2022年には約37%まで上昇を続けている。

日本では労働組合は、産業別ではなく、企業別に組織されている。こうした労働組合は大抵の場合で、細分化・分散化された行動をとり、交渉力は限定的だ。近年、日本の労働組合は、雇用者との協力関係を重視することに努めてきている。実際、2022年には65件しかストライキは実施されていない。日本でのストライキは、1974年の9,581件をピークに、1990年には1,698件、2005年には129件と激減し、2008年以降は100件以下にまで低下している。

2023年8月には西武百貨店でストライキが行われたが、百貨店労働組合によるストライキは61年ぶりで、日本社会を驚かせた。日本で賃金上昇が起こるには、社会的コンセンサスだけでなく、労働者の団結闘争が不可欠であることは明らかだ。今後、持続的な景気回復のためには、労働者の交渉力を高め、非正規労働者と中小企業労働者の組合加入化を促進することが最優先課題である。権力勾配を根本的に変えなければ、岸田文雄の新しい資本主義から新しいものはなにも生まれないだろう。

[Kang-Kook Lee, “Kishida’s New Capitalism” Phenomenal World, June 6, 2024]〔This article was originally posted on Phenomenal World, a publication of political economy and social analysis. All rights, including copyright, belong to Phenomenal World.
本記事は、政治経済と社会分析の専門誌『Phenomenal World』誌に掲載されたものであり、翻訳許可を受けてここに公開している。著作権等の権利すべてPhenomenal Worldに帰属している。〕

Total
0
Shares

コメントを残す

Related Posts