ノア・スミス「歴史学者の知見に物申す:歴史理論は検証されるべきである」(2022年8月27日)

社会科学は不完全で不正確な取り組みであるために、歴史的な因果関係の問題に対して、物理学や化学のように実証的な検証により決定的な答えを示すことはないだろう。しかしそれでも我々は実証実験を行うべきなのだ。

On the wisdom of the historians
Posted by Noah Smith on Saturday, August 27, 2022

私がブログを始めた当初は、マクロ経済学への不満について記事を書くことがほとんどだった。数年間マクロ経済学の教育に耐えた後で、私はこの分野で非現実的な理論が一般的な考え方になり、厳正な実証テストを拒否しながらもノーベル賞までもらっていることに憤りを覚えたのだ。マクロ経済学における「理論第一」の文化は、私が学部生のときに専攻していた物理学で学んだ姿勢とは全く正反対なものであった。私のブログが注目を浴びた理由の1つには、マクロ経済学の高名なモデルがリーマン・ショック以降の金融危機とグレート・リセッションにほとんど対処できなかったことに対する人々の怒りがあるように思う。数年前であれば抽象的な思考実験としてまかり通っていたかもしれないモデルが、突然として、冷淡かつ無慈悲な現実に直面し、ろくに対処できずに終わったのである。

そして今度はTwitterやメディア、政治評論の世界に足を踏み入れると、歴史学者と遭遇するようになった。私は一度も歴史学を学ぶことはなかったが、プロの歴史学者がその学術的見識を公的な政治評論に応用するさまを見て、マクロ経済学で遭遇したのと同様の問題がいくつか存在することに気づいたのだ。

今週になって多くの人が歴史学の研究者を話題にしている。アメリカ歴史学会の会長であるジェームズ・スウィートが冗長で要領を得ない記事を投稿した。その中で彼は、我々歴史学者は現代政治に干渉しすぎていると非難し、特に1619プロジェクト [1]ニコール・ハンナ・ジョーンズによるアメリカ史を奴隷制の観点から抜本的に再検討することを目的としたニューヨーク・タイムズの特集 を恣意的に持ち出したことで、炎上騒ぎとなった。歴史学者の一部は案の定これに激昂し、スウィートに対し公式に謝罪するよう要求した。

私はこの論争を巡る「ウォークvs反ウォーク」の政治には特に興味がない。しかし、世間が今歴史学界で起きているこの騒ぎを大変に気にかけている理由の大部分は、近年歴史学の教授が、現代の政治的・社会的な問題を理解するのに必要不可欠なご意見番の一角を占めるようになってきたからであろう。ジェイ・カスピアン・カンは、本日のニューヨーク・タイムズのコラムでこのことをうまく説明している。

ここ10年ほどで、歴史学はネット上での政治論議のリンガ・フランカ〔共通言語〕になった。これは比較的最近の現象だ。[…]この転換は、ここ10年の政治論議の中心地がTwitterであること(歴史文書と写真は、偉大なスクリーンショットになる)、そしてなにより、この国自体の変遷と関係している。ドナルド・トランプが大統領になったことで、「ブレイキング・バッド」やテイラー・スウィフトを同列の政治議論 [2]2010年頃まで文化批評はネット上での政治議論における共通言語であったが、トランプ就任以後その地位は「歴史学」に取って代わられた として語るのが難しくなった。


Twitterはまた、公共の議論において、ソーシャル・メディアの出現以前には一握りの人にしかつけなかったポジションに歴史学者がつくことを可能にした。[…]結果、歴史学は公共の議論において異常なまでに重視されているように思われる。

The Creep of History

グレート・リセッションの後、経済学者と経済学の理論が信頼されすぎているのではないかとの議論を、私たちは多く交わしたが、私の知る限り、歴史学において同様の議論は為されていない。しかし、そうした議論は〔歴史学において〕あって然るべきである。経済学者が、私たちの社会をいかに繁栄させ資源を分配すべきかについて、あたかも聖職者のように崇められていたのと同様に、歴史学者もまた、私たちの政治の行く末と、国家意識をどう受け止めればよいのかについて、あたかも聖職者のように頼られている。

これは歴史学者に対する全面的な批判ではない(Twitterには以上の文章をそのように解釈して反応する輩が確実にいるのだが)。私は、歴史学は政治に口を出さず象牙の塔に戻るべきだと言っているのではない。ましてや歴史学者の近年の研究成果が現代の政治に悪影響を及ぼしていると言っているのでもない。私が言っているのはただ、マクロ経済学の数理モデルに対して向けるべき実証に基づく懐疑の目を、歴史学の理論に対しても同様に向けるべきだということだけだ。

歴史のアナロジーは理論である

歴史学の理論に実証的な裏付けを求めると、苛立つことの1つは、一部(あるいは多数?)の歴史学者が、自分は理論なんか一切作っていないと主張するであろうことだ。例えば、私がTwitterでこの問題を提起したところ、歴史学者のブレット・デヴェロー(古代の地中海が専門で、現在ノース・カロライナ大学客員教授)は、歴史学者は予測モデルを作っていないと主張した。


ブレット・デヴェロー:「しかし、この記事は独裁者についての予測モデルではないし、独裁者がいかにして権力を手に入れるかについての理論ですらありません。これはもっと単純な議論で、単に物事がこうなったから、また同じことになるかもしれない、と書いているだけです。Ancient Insurrections—and Ours

https://twitter.com/BretDevereaux/status/1562117574262812672

しかし、例としてデヴェローが引用している記事を見てみよう。

古代ギリシャ人は、アメリカが1月6日〔連邦議会議事堂襲撃事件の発生した日〕に目撃した光景、つまり扇動的なスピーチ、行進する群衆、主都への反政府的攻撃、といったものを難なく理解できただろう。

ギリシャの自治の実験は数世紀にわたり、古代ギリシャの様々な国家で何百回と繰り返された。これは堅固な「データセット」となり、洞察力あるギリシャ人たちに、自治はどのように機能し、いかにして失敗するかについての恒常的な課題を示した。

この歴史から得られるもう1つの教訓は、更に示唆に富むものである。独裁者を目指すものは、その野望が実現するまで挑戦し続けるのだ。

これは数学的な方程式の形では述べられていないが、政治がどのように動くかについての予測モデルであることは否定しようもない。デヴェローは、古代ギリシャが現代の政治の適切なアナロジーになっていると主張するところから議論を始めている。そして彼は、古代ギリシャの都市国家の経験を、「実験」を行い「データセット」を生み出す「実験室」と見なしている。その後彼は、人間社会についてのはっきりとした法則を主張する。「独裁者を目指すものは、その野望が実現するまで挑戦し続ける」のだと。

さて、解釈を工夫すれば、デヴェローが純粋に定義的な主張をしていると見なすことは可能だと思う。最終的に権力を掌握しようとすることを諦めた者は、結局真の「独裁者を目指す者」ではなかったのだ、とデヴェローは言っているのかもしれない。これが彼の言いたいことの全てなら、例えばリチャード・ニクソン(「大統領のしたことなら、それは違法じゃないんだ」と言ったことで有名な男)は最終的に大統領の職を辞したのだから、結局独裁者になろうとしていなかったはずだと結論づけることができる。

しかし、こうした純粋に定義的な、「真のスコットランド人」論法 [3]スコットランド人についての主張を行い、反例が提示された場合、「真のスコットランド人はそうなんだ」とする論法 は、全く退屈で、記事にする価値はないだろう。それゆえ、デヴェローは、誰が「独裁者を目指す者」であるかについての何らかの兆候を事前に知ることができ、その「独裁者を目指す者」は権力を掌握しようとするのを諦めはしないだろうと予測できる、と論じている可能性の方がはるかに高い。これは普通、予測的理論と呼ばれているものだ。

デヴェローは、こうした理論は条件付きで、偶然的で、確率的なものであるから、実際には予測的理論ではないと主張している。


ブレット・デヴェロー:「これは、「政府は、変数X、Y、Zのために崩壊する」と言うことと、「過去に、政府はそうした理由のために崩壊しがちだった」と述べることの違いです。前者は一般的法則を提示していますが、後者は単に教訓的な例を集めているだけです。」

https://twitter.com/BretDevereaux/status/1562115640248385540


「経済学者や政治学者が、歴史学者の生み出すデータを使って予測モデルを作ろうとするのは結構です。データを慎重に取り扱ってくれるのであれば(悲しいかな、そうでないことが多いのですが)。しかし、予測モデルは私の仕事ではありません。私は、事実を述べているだけで、原因は述べていません。」

https://twitter.com/BretDevereaux/status/1562116224737312769


「歴史学者がするのはせいぜい、「過去に同様の状況で、事態はこのようになった」と指摘し、その固有の偶然性から起こるかもしれない結果の一覧を提示することくらいかもしれません。しかし、これは予測モデルではありません。依然として、新たな偶然的要素が入ってくる可能性に開かれています。」

https://twitter.com/BretDevereaux/status/1562117079184117761

しかし、自分たちがやっていることは、他の社会科学の理論家たちがしている仕事ではないと主張すれば、社会学や経済学、政治学のような分野を根本的に誤解することになる。そうした分野における理論も、可能な結果の一覧を提示しており、偶然的な要素を許容している。基本的に、社会科学者が、あらゆる想像可能な状況に完璧に適用できる、応用物理学の標準モデルの社会科学バージョンを開発してきたと考える人はいない。

ようするに、デヴェローは自身が「史実」だけを述べており、「展望」は述べてないと主張しているが、ドナルド・トランプの行動を予測するために古代ギリシャを歴史のアナロジーとして用いて、可能性が高い未来についての主張を明らかに行っている。

デヴェローばかりを責めたくはないが、事実、彼が何度もこれをしてきたのを指摘しておくべきだろう。ロシアによるウクライナでの戦争犯罪についての記事で、デヴェローは過去の様々な軍隊との明らかな歴史的アナロジーを行い、ロシアの残虐行為は侵略に対する反対を強める可能性が高いとの予測を行っている。アメリカのアフガニスタン撤退についての記事では、ローマ軍とのアナロジーを用いて、アメリカ軍もそのローマの戦術に倣って再編成を行えばより効率的になるだろうと予測している。

こうした事例はデヴェローだけではない。様々な政治戦略の実現可能性を予測するために歴史のアナロジーを用いる歴史学者の例は他にいくつも見つけられる

私は、そうしたアナロジーが見当違いになっているとか、そうした予測や勧告は間違っているとかクレームを付けたいわけではない。歴史学者が、現状について予測し(あるいは)勧告を行うために歴史をアナロジーとして用いれば、それは社会科学の理論に他ならないと見なしていだけなのだ。

そして、理論は実証的なテストにかけられるべきである。デヴェローの「独裁者を目指す者」理論に立ち戻るなら、私たちはリチャード・ニクソンの辞任と政界引退についてどう考えればいいだろうか? 歴史上の権力を諦めた独裁者のリストについては? あるいは、独裁者を目指す者で、独裁者になる野望を持っていたが、それを諦めて他の仕事に就いた者についてはどうだろう? 「独裁者を目指すものは、その野望が実現するまで挑戦し続ける」と結論付ける前に、誰が権力を手に入れようとし続け、誰が諦めるのかを事前に予測することを可能にする一連の特徴を特定できるのか探るために、歴史の記録を厳正かつ体系的に調べねばならない。

これは辛く、見返りの少ない作業だろう。しかし、それこそが社会科学者の仕事なのだ。

経済と歴史の「カメレオン」

デヴェローの「わたしは未来を予測するのではない。過去を記録しているだけだ。」という主張には、元コリンズ・カレッジの教授であるローラ・バーネットなど多くの人が賛同した。


ローラ・バーネット:「@ノア・スミス、率直にお聞きしますが、それはウケ狙いの皮肉ですか?それとも本当にただの苦情?ノモセティックとイディオグラフィックの違いを理解してみてはいかがでしょう? コミュニティ・カレッジの生徒ですら理解しているのですから。」

https://twitter.com/LDBurnett/status/1562433525122379776

何やら大げさな語彙が用いられているが心配ご無用。「ノモセティック」とは何らかの現象の法則を発見しようする行為を意味し、「イディオグラフィック」とは特定の史実から教訓めいたものを抽出することなく単に記録する行為を意味する。実際、私も、過去に起こったことを単にそのまま記録しただけの歴史書をかなり何冊も読んできている。しかし上述したように、過去を検証することで現在の状況にも適用できる教訓が得られると歴史学者がメディアで主張する事例も多くあるのだ。

歴史から教訓を見出す行為は、基本的にはノモセティックな活動である。これは、考え得る全ての状況に適用可能な標準モデルを作るのではなく、ある歴史からの教訓を、その教訓を生んだ特定の事例以外の出来事にも適用しようとする実に明確な試みである。

ここで経済学者のポール・フレデラーによる、金融や経済学におけるいわゆる”カメレオン”モデルについて苦言を呈した最近の論文が思い出される。フレデラーの言う「カメレオン」とは、提唱者が現実世界には適用不可能な単なる思考実験に過ぎないと主張している理論を、提唱者自身も含めてその後に現実世界に適用しようする行為を指す。フレデラーは、なんらかのモデルを現実に適用する前には、それが有用で適用可能なモデルであることを根拠付ける、何らか実証的な検証が必要であると主張している。

これと同様に、もし歴史学者が過去にのみ適用可能な歴史的「記述」を作成した後に、一転して現在に対する「教訓」を導き出す記事を主流メディアで書くのであれば、歴史学者はまさに「カメレオンモデル」を作成していることになる。

私はなにも、過去から教訓を導き出すべきではないと主張しているわけではない。むしろ過去から教訓を得る場合には、その教訓が適切なものであるか、はたまた不適切なものであるかを検証するため、なんらかの実証的な手続きを踏まえるべきだ、と主張しているのだ。そうでなければ、歴史学者は、その個人的な判断、あるいは個人の便宜的判断からどの歴史的事例を現代に当てはめるかを自由に取捨選択できてしまう。

そして、そういった実証的な検証手順が無ければ、歴史学者がメディアで行う予測や政策提言は、学問的な見識ではなく、評論家的なものとして捉えるべきであろう。

相関関係 vs 因果関係

実際に私は、歴史学者がアナロジーによるアプローチを超えて、政治学者や経済学者、社会学者が作るような、それでいてより実証に乏しい因果関係を示す理論を作り出してしまう例をいくつか見てきた。

その悪名高く、重篤な例が、コーネル大学のエド・バプティストハーバード大学のスベン・ベッカートといった歴史学者たちが提唱している、いわゆる「新資本主義史(New History of Capitalism」である。バプティストたちは、アメリカの奴隷制度が後々の〔アメリカの〕産業革命の決定的な火付け役であると主張している。

「新資本主義史(New History of Capitalism、以下NHC)」の史料は方法論的な欠陥を抱えており、経済史研究家のアラン・オルムステッドとポール・ロードは、2016年の調査論文で批判している。しかしより根深い問題なのは、バプティストやベッカーらの主張する因果関係が真実であるかどうかにある。確かにアメリカは奴隷制を利用して大量の綿花を生産しており、その綿花は産業革命初期には繊維産業でよく使われた。しかしだからといって、奴隷制度なくして産業革命は起こらなかった、またはその到来が遅れていた、あるいはより困難なものであっただろうと言えるだろうか? これこそ多くの経済史研究家が寄せてきた疑問である

エド・バプティストや他のNHC派の歴史学者たちは、この問いの検討すらも激しく拒絶している。「歴史は起こるべくして起きた」のだから、「何ゆえ他の可能性を問う必要があるのか?」と彼らは主張しているのだ。

彼らに応じるなら、「相関関係は因果関係を含意しない」 [4]科学分野や統計学でよく用いられるフレーズ に尽きる。もし私が毎朝ケーキを一切れ食べて20キロ痩せたとしたら、ケーキを食べることが良いダイエット法になるのだろうか? ありえない。実際、奴隷制度がその国や地域に悪しき制度を植え付け経済発展を遅らせた、という説はかなり有力視されている。また、奴隷制が廃止された後に産業革命が加速したことも事実である。つまり、この問題はまだ決着こそついてはいないが、アメリカの奴隷制度は近代資本主義の誕生に重要や役割を果たしたというより、むしろ近代資本主義の発展の足枷となった可能性が高いのである。(追記:この問題にはまだ決着はついていないことを留意していただきたい。海外の奴隷経済と関わりが深いイギリスの地域は、1800年代前半とやや早くに工業化を果たし、イギリスの総GDPを3.5%増加させたという論文が発表されたばかりである。そのため、経済史の研究家たちは未だこの問題を解き明かすには至っていない。)

とはいえ、バプティストらの研究成果が無意味であるというわけではない。実際に1619プロジェクトのマシュー・デスモンドの章では、NHCの研究を大いに参考にしており、奴隷制度が米国の経済制度に悪き刻印を残したことに焦点が当てられている。実際これは、奴隷制と〔経済〕諸制度に関する実証研究と完全に一致しており、現代に生きる我々は是非とも関心を持つべきなのである。

しかし同時に、工業化の発生に関するNHCの歴史学者が示す因果論は厳密な実証検証の対象とされるべきであり、単なる時間的な相関関係から推測されて良いものではない。因果関係の検証をしなければ、破滅的な因果関係の誤謬を招きかねない。もし誤って、広範な経済的繁栄は、人間から強制的に引き出される労働力に決定的に依存していると結論づけて仕舞えば、社会は貧困と奴隷〔制〕を天秤にかけるべきという考えに陥ってしまうかもしれない。このような誤認は、大きな、本当に大きな問題を引き起こしてしまうのだ。

歴史学者は、往々にして純粋に時間的な相関関係のみに基づいた因果関係の断定は避けるべきである。例えばコロンビア大の歴史学者カール・ジャコビーは最近になって、〔学校における人種〕統合と高等教育の資金不足が同時に起きたことを指摘し、前者が後者の原因であると強く示唆している。


カール・ジャコビー:「〔カリフォルニア大学の学費の1868年からの変遷についての記事について〕歴史学者として、学生が白人中心だった頃にはバークレーのような世界的な名門公立大学は授業料が無料だったことを思い出していただきたい。今日の学生が抱える借金は、〔人種〕統合直後の教育に対する資金不足の産物である。」

https://twitter.com/karl_jacoby/status/1562509065741561861

ジャコビーはただタイミングが悪かったと言いたかっただけなのかもしれないが、ここで彼の代弁は控える。とはいえこのツイート内容だけから判断すると、州政府が大学生の教育費に関心を示さなくなったのは、子供たちに有色人種が含まれるようになってからだ、と言っているように思える。

そして、これは実際に検証可能な命題である。例えば、ブラウン対教育委員会の裁判の前後に分けて、より〔人種的に〕隔離された州とそうでない州の間での大学資金調達の差を調べられるだろう(このようなアプローチは「差分の差分法」として知られている)。あるいは、異なる時期に異なる州の大学で〔人種〕統合が行われた要因を特定し、それが州の大学資金の決定にどのように影響したかを調べることもできるだろう。しかしいずれの方法であれ、こうした因果関係の仮説を信じるかどうかを結論づける前に、それを検証することが大事なのである。こうしたことは政治学者の仕事であり、歴史学者は政治学者の領域に踏み込むのであれば、郷に従うべきであろう。

社会科学は不完全で不正確な取り組みであるために、歴史的な因果関係の問題に対して、物理学や化学のように実証的な検証により決定的な答えを示すことはないだろう。しかしそれでも我々は実証実験を行うべきなのだ。私たちの社会と国家の命運を決定する力学について何を信じるべきかを決める時、賢者(たとえアイビーリーグで教えるような優秀な賢者であろうとも)の個人的な判断と知恵に頼るだけでは不十分なのだ。理論と現実を否応なしに比較する「実証主義」は、どれだけ周到に考えても敵わない謙虚さを生み出すのだ。

追記:ブレット・デヴェロー氏が私の望む以上に意地の悪く、個人的で、およそ私の批評をあまり理解できていないと思われる反論を投稿しており、これについては今後改めて確認させていただく。

アンドリュー・ゲルマンもまたいつものように鋭い考察を述べている。

〔訳注:本記事はkuchinashi74aka_mikuriyaによる共訳である〕
〔校正協力:WARE_bluefield

References

References
1 ニコール・ハンナ・ジョーンズによるアメリカ史を奴隷制の観点から抜本的に再検討することを目的としたニューヨーク・タイムズの特集
2 2010年頃まで文化批評はネット上での政治議論における共通言語であったが、トランプ就任以後その地位は「歴史学」に取って代わられた
3 スコットランド人についての主張を行い、反例が提示された場合、「真のスコットランド人はそうなんだ」とする論法
4 科学分野や統計学でよく用いられるフレーズ
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