ジョセフ・ヒース「リバタリアンと社会保守主義の奇妙な結託:性教育反対運動を巡る社会保守主義のパラドクス」(2015年9月15日)

本質的にリベラリズムに対して敵対的な人々の多くが、最終的に自身が反対する立場よりもいっそうリベラルな制度編成を推進するようになる、という事態がいかにしてもたらされたのかを説明したい。

カナダで現在生じている保守運動は、他のいくつかの国と同様、「あり得ない」連合を形成しているとよく言われる。つまり、互いにほとんど共通点を持たないグループが同じ保守運動に参加しているのだ。最もよく挙げられるのは、リバタリアンとキリスト教「社会保守主義」である。両者は様々な具体的な問題(中絶、医師による自殺幇助、マリファナ、同性婚など)について異なる立場をとっているだけでなく、社会における国家の役割について根本的に異なる見解を持っている。一般に、社会保守主義が求めているのは、議論の分かれる倫理的問題に関して特定の立場につき、特定の見解を人々に押し付ける介入的な国家だ。言い換えれば、社会保守主義は政治理論で言うところの「リベラルな中立性」、あるいは制限政府のドクトリン(すなわち、国家は私的領域における個人の行動をコントロールしようとすべきでないという見解)を拒否しているのだ。一方でリバタリアンが求めているのは、国家が現行よりもさらに介入を控えることだ。人々の生活に全く手出しせず、権利を守るのに必要な場合だけ介入を行うというのがリバタリアンの考える理想の政府なのである。それゆえ、リバタリアンが支持する理念は「リベラルな中立性プラス」と呼べるだろう。リバタリアンは単にリベラルなだけでなく、ウルトラ・リベラル(ultraliberal)なのだ。

これは奇妙な呉越同舟を生み出しているように見える。とはいえ、抽象的な政治イデオロギーを捨象して、両グループが支持している具体的な政策に目を向ければ、これはさほど奇妙なことではない。なぜなら、社会保守主義は自らの望む最善(ファーストベスト)の結果が実現不可能だと認識しているので、次善(セカンドベスト)の結果を求めており、それがリバタリアン的な制度編成でありがちだからだ。これはロールズの言う「多元性の事実」のためである。多元主義的な社会(特に、人々が全く異なる宗教を奉じているような社会)において、キリスト教社会保守主義の望む最善の結果(すなわち聖書を奉じる緊密な共同体)は現実的には実現不可能となる。そこで社会保守主義者は代わりに、国家が可能な限り何もしないことを望むようになる。そうなれば、自分たちの支持する「価値観」を保持するために、「リベラル」な文化的影響から可能な限り隔離された共同体に引きこもることが可能だからだ。こうして社会保守主義者は、共通の制度編成から人々が容易に退出(オプトアウト)できる状態を望ましいと考える大部分のリバタリアンに賛同するようになるのだ。

オンタリオ州の公教育における性教育を巡る現行の論争は、このダイナミクスをこれ以上ないほど示している。新しい性教育カリキュラムに激しい抵抗を示しているのは、宗教原理主義者たちの集団だ。だがこの連合は(主に)イスラム教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒、シーク教徒で構成されているため、どの宗教グループも自分たちの望む最善の編成(慎み深さ、純血、貞操の重要性といった、自分たちの宗教における特定の「価値観」を教えるカリキュラム)が実現不可能なことは認識している。そのためこうした宗教グループが求めているのは、性教育カリキュラムを全くなくしてしまうことである。こうしたグループは「親による選択(parental choice)」の旗の下に団結しており、これはもちろんリバタリアンにもしっくりくる考え方だ。

この事態をもう少し詳しく見ていくことで、リバタリアニズムを支持する社会保守主義という立場がいかにして現れたのか(なぜ様々な人々がこの立場をとるようになったのか)を説明したい。とりわけ、本質的にリベラリズムに対して敵対的な人々の多くが、最終的に自身が反対する立場よりもいっそうリベラルな制度編成を推進するようになる、という事態がいかにしてもたらされたのかを説明したい。これはそれ自体興味深いが、政治的な面でも関心を引く問題である。私が「ケニー連合(Kenney coalition)」と呼んできたものの重要性を理解するのに役立つからだ。ケニー連合というのは、様々な宗教的バックグラウンドを持つ人々(大量の新規移民を含む)からなる「社会保守主義」の連合であり、その大部分がトロント郊外で拡大したものだ(「郊外」には約350万人ほどの住人がおり、その人口はアルバータ州よりやや少ないということは記しておくべきだろう)。

この反対運動を理解する上でまず重要なのは、性教育カリキュラムに反対する人々が何を要求しているのか明確にすることだ。反対者たちには既に標準的な「多文化主義的」調整政策(accommodation)が提供されている点を知っておくのがとりわけ重要である。つまり反対者たちは、カリキュラムの大部分(つまり性に関わるパート。「健康、安全、人権」を扱ったパート以外)を自分の子どもが教わらないようにさせる資格を持っている。そのためカリキュラムのほとんどの部分に関して、子どもにその授業を受けさせたくないなら、授業を受けさせる必要はない。だが反対運動の指導者やそれを支持する親の多くはこれを拒否している。自分の子どもだけでなく、他の子どもにもそのカリキュラムを教えてほしくないと思っているからだ。なぜか? そのカリキュラムで学んだ子どもは、自分の子どもにもその内容を話してしまうかもしれないからである。そのため、例えばGrade 1〔日本での小学校1年生にあたる〕の子どもに身体の各部位の名称について教えるという授業を巡って大騒ぎが繰り広げられた。親たちの不満はこうだ。カリキュラムから退出(オプトアウト)できたり、受けさせたくない授業がある日は子どもを家に留めておくことができたりするとしても、他の子どもはみんなそのカリキュラムを学ぶだろうから、自分の子どももそうした言葉を学習してしまうだろう。反対者たちはこうした事態を受け入れがたいと考えているのだ。

この点に言及したのは、リベラルな多文化主義社会の文脈において、反対者たちの提示する要求に応えることは端的に不可能だということを明確にしたかったからだ。自分の宗教的価値観と対立するからという理由で、他人の子供の学習内容をコントロールする権利を要求するのは、自分の価値観を他人に押し付ける権利を要求することに等しい。それは、ユダヤ人が団結して「他の子どもたちがハムサンドイッチを食べて、自分の子どもにその美味しさを伝えてしまうかもしれないから、食堂でサンドイッチを売るな」と要求するようなものだ。確かに、社会の多数派が共有していない食のタブーを保持するのは難しい。しかしだからといって、それは他人にタブーを押し付けていい理由にはならない。同じことが性のタブーにも言えることは明らかだ。

つまり、性教育カリキュラムに反対している親たちは、リベラルな社会の「標準枠組み」からすると受け入れられない要求を行っている。その意味で、反対者たちの要求は反リベラルである(メディアでのコメントが総じて反対運動に非共感的なのはこのためだ)。だが、利用可能なルートが1つだけあり、このルートを通じて反対者たちはウルトラ・リベラリズムの方向へと向かっていった。性教育カリキュラムを巡る対立が生じているのは公教育システムだけであることに注意しよう。キリスト教徒の中で、反対運動に参加しているのがプロテスタントの福音派だけなのはこのためだ。カトリックの保守派の声は異様なほど聞こえてこない。なぜか? それは、カトリックがオンタリオ州で自前の学校システムを持っており、カトリックの「価値観」に適合したカリキュラムを作ることができるからだ。

そのため、宗教的理由から性教育カリキュラムに反対している運動家たちが、首尾一貫した仕方で要求できることが1つある。それは、自前の学校システムだ。言い換えれば、公教育システムを完全に解体し(反対運動家たちは他人の子どもの学習内容に指図する権利を要求している以上、公教育システムにおいて対立する要求を調停することは不可能だ)、あらゆる宗教グループが自前の宗教学校を持つことでそれを置き換える、ということなら要求できる。繰り返しになるが明確化のために言っておくと、反対者たちは今のところこのような要求を行っていない。だが反対者の要求に応えるとしたらこのやり方しかない(さもなくばホームスクーリング〔子どもが学校に行かず家庭で教育を受けること〕だ)。さらに、セパレートスクール〔公的資金で運営される宗教学校〕の要求は完全におかしな提案というわけではない。進歩保守党は過去の複数の選挙でそれを公約に掲げていたからだ(党首のジョン・トーリーは、あらゆる私立学校の授業料を完全に所得控除とし、実質的に誰でも補償を伴う仕方で公教育システムから退出できるようにするという公約を掲げていた)。さらに言えば、カトリックの私立学校は公的資金の提供を受けている。他の宗教グループはそうした学校を持つべきでないという道理があるだろうか?

繰り返すが、このような制度編成はリバタリアンにとって非常にしっくりくるものだということが見て取れる。これは、社会保守主義がリバタリアンの立場へと引き寄せられていく事態を見事に示している。だが問題は、進歩保守党がこれまでの選挙で学んだように、一般市民はこの種のウルトラ・リベラリズムにほとんど関心を持っていないことだ。オンタリオ州の住民に、カトリックの学校システムを廃止するか、あらゆる宗教的マイノリティが自前の学校システムを持てるようにするかを選ばせれば、多数派はカトリックの学校システムの廃止を支持するだろう。そうでなければ、いったいどうやって移民統合を実現できるだろう? 親が自分の学ばせたい内容を子どもに学ばせられるようにすべきだとか、子どもが社会の「主流」に接する機会を親が大幅に制限できるようにすべきだといった考えには、多くの人がぎょっとする。例えば、子どもがリベラルな価値観に触れる機会を制限する1つの方法は、英語を学ばせないことだ。あるいは、親が子どもに科学を全く学ばせないようにするとしたらどうだろう? ここに、この事態がどのようにして社会保守主義の「パラドクス」となるかが見て取れる。「共有価値」〔の喪失〕や「主流が主流でなくなる」ことを懸念する人々が支持している〔リバタリアン的〕制度編成は、まさにそうした懸念を生み出し助長するものなのだ。

ケニー連合の行く末を考える際、このことを頭に入れておくのが重要だ。ケニー連合について懸念している人々を見ると、ヨーロッパ各国の極右政党が連携関係を構築することを懸念する人々を思い出す。個人的には、これは特に心配すべきこととは思えない。各国の極右政党が共有しているのは外国人(つまり互い)への憎しみであり、そのため相互に協力できる範囲がかなり限定されてしまっているからだ。同様に、様々な保守的宗教グループが共有しているのは、現行のリベラルな制度編成が、社会のあり方に関する自分たちのビジョンと両立しない、という一点だけだ。各グループが社会のあり方に関して持っているビジョンは、それぞれ全く異なっている。こうしたビジョンの違い、そしてそれぞれのグループの要求の強さ(社会「環境」をコントロールして他人の自由を制限することを要求しているのだ)を考えれば、あらゆるグループの要求に応えられるのはウルトラ・リベラルな制度編成だけだ。そしてウルトラ・リベラルな制度編成は、各宗教グループの観点から見て、多くの点でリベラルな制度編成よりもいっそう悪いものである(実際に求めているのが性的自由や性表現を制限することなら、「選択」というのはそれほど素晴らしいスローガンとは言えない)。

私見を述べれば、この袋小路から抜け出す唯一の道は、各グループが自分たちの要求や期待を調整する必要性を認識して、それをリベラルかつ多元的な社会での生活が課す基本的な構造的制約と両立可能なものに修正することだ。(もしこれが実現すれば、予期せぬ副産物として、人々は(全く驚くべきことに!)まさにそれこそがリベラルな社会の規範が生まれた理由であることを発見するだろう。リベラルな規範は、1つの共有された制度の下で共生するしかないということが認識されたときに私たちが取り決めたルールであり、あらゆる側面で妥協を要求する。)

では、公園を陣取って自分の子どもたちのために「オルタナティブな学校」を作っている反対運動家たちに対し、私たちは何を言うべきだろう? 私としては、すべきことは何もない、ただ時間が経つの待って、冬が運動を一掃するに任せよう、と言いたくなる。反対者たちが実際にすべきなのは、ホームスクーリングなのだ。以前のエントリ〔邦訳はここでよめる〕で私は、反対運動の指導者の1人であるファリナ・シッディーキーに言及した。シッディーキーは、自分の子どもを公教育システムから退出させてホームスクーリングを行うという脅しをかけている。しかしシッディーキーのインタビューをいくつか聞いたことでハッキリしたが、彼女がすべきなのは恐らくホームスクーリングである。シッディーキーの行っている要求は、単純に公教育システムで応えられるようなものではないからだ。そのため、シッディーキーが子どもを家で教育せずに反対運動を行っている理由は私にはよく分からない。彼女がそのことに気づくのは時間の問題だと思われる。

[Joseph Heath, Sex education and the paradoxes of social conservatism, In Due Course, 2015/9/15.]
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