●Bryan Caplan, “The Eye of the Needle”(Marginal Revolution, July 28, 2004)
「政治学や社会学の分野における『5つの大いなる疑問』というのがあるとしたら、『知識人たちがスターリニズムに惹かれたから』というのがいずれかの疑問への答えになるに違いないと思う」。少し前にコーエンがそう書いている〔拙訳はこちら〕が、知識人がスターリニズムに魅せられたのはなぜなのかを探る上でこれ以上ない手掛かりになるんじゃないかと思われる発言がある。1936年から1938年までの間に駐ソ大使を務めたジョゼフ・デイビーズ(Joseph Davies)の日記の記述がそれだ(彼の日記は後に『Mission to Moscow』として一冊の本にまとめられている)。
デイビーズは、スターリンによる大規模な残虐行為の非を率直に認めている一方で、スターリンが抱いていたキリスト教じみた「高邁な意図」を讃えている。嘘なんかじゃない。彼自身の言葉を引こう。
ドイツにしてもソビエトロシアにしても、全体主義国家であるという点では同じだ。どちらの国も現実主義的であり、強権的で冷酷な手法に訴えて国を治めようとしている点でも同じだ。しかし、違いも一つある。黒色と白色の違いと同じくらいはっきりしている違いだ。簡潔に説明できる違いだ。マルクスやレーニン、あるいはスターリンがキリスト教の教義――カトリックでもプロテスタントでもどちらでも構わない――を深く信奉していたとしたら、その結果としてロシアの地での共産主義の実験がキリスト教の教義に根差すかたちで試みられていたとしたら、ロシアでの実験は「キリストの福音」の中で説かれている「友愛」と「慈善」という二つの理想をこの世に実現するための試みであり、キリスト教流の利他主義の実践を企てた歴史上最も偉大な例の一つであると高らかに謳いあげられたろう。・・・(略)・・・ドイツとソビエトロシアの違いは、ここにある。共産主義国のソビエトであれば、兄弟たる人類に奉仕するという目的を追求するために、キリスト教と共同戦線を張れる可能性がある。しかしながら、ナチスドイツとではそうはいかないだろう。共産主義の理想とするところでは、国家は消滅する可能性がある。人類がみな兄弟となるところまで行き着けば、国家は最早必要でなくなる可能性がある。その一方で、ナチスの理想とするところは、それとは真逆だ。ナチスにとっては、国家 [1] 訳注;ドイツ民族による「民族共同体」の形成。こそが何よりも上位にくる究極の目的なのだ。〔1941年7月7日付の日記〕
「解放の神学」の登場がもっと早まっていたらどうなっていたろうかとほっと胸を撫で下ろすところだ。というのも、キリスト教マルクス主義は、一般庶民に対して強力な訴求力――知識人に対するよりもずっと強力な訴求力――を持っただろうからだ。
References
↑1 | 訳注;ドイツ民族による「民族共同体」の形成。 |
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