ジョセフ・ヒース「イブラム・X・ケンディのバブルの崩壊:しかし、傷跡の修復にはどれほどの時間を要するのだろう?」(2023年10月7日)

ぞっとするほど多くのリベラル派が、自分たちの部族内での良い評判を維持するために、内心では信じていないことを公言したのである

〔訳注:イブラム・X・ケンディは批判的人種理論の代表的論者としてアメリカで非常に有名な人物である。彼の著作は、全米の多くの学校や企業でDEI(Diversity:多様性、Equity:公平性)、Inclusion:包括性)教育・研修教材として使用されている。日本では朝日新聞のインタビューをここで読むことが可能。ケンディは教鞭を取るボストン大学内に設置された反人種研究・政策センターの代表を務めていたが、2023年になって大量に集めた寄付金の出所不明な拠出等が問題となった。この事件はアメリカでは大きなスキャンダルとなっている。〕

イブラム・X・ケンディが所長を務めるボストン大学反人種研究・政策センターでのスキャンダルは、当然のように大量のシャーデンフロイデ〔ざまーみろ〕を引き起こしたが、より興味深いのが、多くの識者・論者がひっそりと思っていた「ケンディの主要な見解は、完全にナンセンスである」ということを、大っぴらに公言するのことが問題でなくなったことだ。願わくば、私の人生で経験した中で最も異常な「選好の偽装提示(preference falsification)」状況に終止符が打たれんことを。

この「選好の偽装提示」について、ティムール・クランは『私的な真理、公で嘘』〔未邦訳〕という気の利いて、挑発的な本を書いている。この本では、人が「王様は裸」だと言えないような状態で、公でどのような意見表明をするのかのダイナミクスを扱っている。自明の事実だが、多くの人は真実を話せば罰せられることを恐れている状況では、嘘をつくだろう。公における人々の意見の動態を興味深く、不安定にしているのは、〔意見の公表によって〕予測される処罰の過酷さが、嘘を付いている他者の人数の関数になりがちなことだ。結果、他人が何を考えているのか、あるいは公に表明しようとする認識の変化によって、人々の意見表明が劇的に変化する可能性を産む。

例えば、XとYの2つの意見があり、Xを表明する人は、Yの見解を持つ全ての人からマイルドな制裁を受けるとしよう。この場合、多くの人が、内心ではXを信じているにもかかわらず、公にはYを主張する状況に繋がるかもしれない。すると、Yを主張する人が増える。Yの肯定が増えると、Xを表明することで予測される罰が増すからだ。これによって、誰も本当にXを信じていないにもかかわらず他者の意見を気にしすぎるあまり、皆がYを肯定するような均衡状態に陥ることがある。 [1] … Continue reading この均衡は、人々の真実を述べることで発生するであろうコストの認識が変化するような出来事――その時点で過去のコンセンサスの大部分がナンセンスだと誰の目に明らかになる出来事が生じれば、変化する可能性がある。

ケンディがこの5年でやってきたことに、こうした事態が生じている。私は、左派の政治理論家や批判理論家、さらに批判的人種理論家を自称する人と多く話をしてきたが、ケンディの見解を擁護しようとした人に一人たりとも会っていない。ほとんどはケンディの著作を読んでいないが、読んだことがある人の反応は、呆れるか、「オーマイガー、列車事故みたいな大惨事案件だ」の間におおよそ位置している。それでいて、公の場で、ケンディを批判したり、彼の暴走を止めようとする進歩主義者が驚くほど少ない状況が続いている。

ボストン大学で現在生じた事態は、この状況をひっくり返した。これは、クランの示したモデルでよく説明できる。ケンディが、大学の人種差別センターの業務でまずい運営を行ったことは、彼の著作の質とはほとんど関係がない。しかし、研究・政策センターへのネガティブな報道は、ケンディを批判してもOKだとする社会的シグナルとなり、多くの人が「この件のついでに、ケンディの考えが酷いことも言及しておこう」との態度となったのだ。

私自身、最初にケンディの著作を読んだ時には、その本質的な主張がいかに間違えていて、非生産的であるかに驚愕した。そして、アメリカの大企業で働く友人から、社内でDEI(ダイバーシティ&エクイティ&インクルージョン)イニシアティブの一貫として、全社員がケンディの『アンチレイシストであるためには』を読むことを義務付けられているのを聞いたので、ケンディ現象には以前から警鐘を鳴らしてきている(ここで彼を批判している)。私が本当に悩ましく思ってきたのが、(この〔人種差別〕問題に擁護可能な見解を構築しようと多くの時間を費やしてきた多くの研究者の中でも)知る限りごく少数の研究者しか、擁護不可能なケンディの見解を何百万もの人が教わっている事実を問題視していないことだ。

ケンディの主張で、最も問題があるものを簡単にまとめてみよう。

1.「統合」によって平等を達成しようとする取り組みはレイシストである。
ケンディが最初の著書『人種差別主義者たちの思考法 黒人差別の正当化とアメリカの400年』で行った最も大胆な主張が、「同化主義」は断固として糾弾せねばならない、というものだ。彼は、この主張を行うのにおいて規範的な根拠をハッキリさせていないが、著作で中心的な構成要素として提唱しているのが、人々がマーティン・ルーサー・キング・ジュニアから連想するような人種統合(もっと一般化したものだと多文化主義)について考えるような潮流は総じて、単に人種的階層を強化するだけなので、糾弾すべきである、というものだ。よって、ケンディ的な立場からの反人種差別的見解で許されるものは、ブラック・アメリカンが主流社会から完全な独立を維持し、なおかつ(おそらく)平等を享受するという民族主義的見解が唯一の選択肢となるのである。

2.人種間に格差があれば、その事実だけで不正である。
ケンディの主張の中で最も悪質な単純化は、「人種間の格差」はどんな原因があろうとも不正である、というものだ。ケンディは『アンチレイシストであるためには』中で、白人アメリカ人と黒人アメリカ人との持ち家率の差を、人種間不正義の典型的として挙げているが、そこでは、人種的不正義とは無関係な要因(例えば、白人の中央値が、黒人の中央値よりかなり高齢である事実等からの統計上の必要な操作)をまったく考慮していない。(この人種間格差と、不当な人種差別の区別については、このローランド・フライヤーの最近のインタビューを7:15過ぎから聞くことを勧める。フライヤーはケンディと違ってあらゆる意味で明快で正しい)。このことで、反人種差別活動家の多くの人が、「格差主義」と呼ばれているものを生み出してきてている。「格差主義」の活動家たちは、インプットを考慮せずに、アウトプットの格差を指摘するだけで、さまざまな社会制度を好ましくない形態の「構造的」あるいは「制度的」人種差別だとして有罪にできると考えている。

3.あらゆる人種間の格差は、差別が原因にある。
ケンディは、ある集団が不利な待遇を受けていて、その待遇を集団の内的な要因(例えば文化や選好の違い)を挙げることで人種間の格差を説明しようとする人は、その集団を批判していることとイコールであり、レイシストに他ならないと主張することで、挑発的なレトリックを突きつけている。これは明らかに、伝統的な多文化主義(集団間の文化的な差異の保持を尊重する思想)と矛盾している。さらにこれは、人種的不平等の問題を真剣に研究しているほぼあらゆる社会科学者をレイシストを批判することになるだろう。そうした社会学者のほとんどは、人種的不平等とは内的な要因と外的な要因の組み合わせによって生じるものである、つまり実証的な問題であり、政治的イデオロギーに訴えても解決できないと考えているからだ。

ケンディの著作に対して、私の研究仲間の多くが目を白黒させるような反応をしたのは、その主張がどんな帰結を導くか、一歩でも二歩でも考えようとした人であれば、端的にまともに受け止められるようなものではないからだ。間違っている考え方には、多かれ少なかれ興味深いものがあり、間違っている見解について考えることは有益なエクササイズにはなる。だが、ケンディの主張は自明に間違っているだけであり、そのため明白な反論を受けている。(例えば、平均的な結果においてあらゆる人種集団間の違いを排除したとしても、自身の人種だけを理由に、自分だけ不平等にならないという保証を個人には全く与えないだろう)。

それなのになぜか、こうした弁解の余地のない(そして着目すべきは、過激派の)見解が、流行となったのである。〔ケンディの主張に基づいた〕何百万冊もの本、セミナー、プレゼン(グラフィックノベル、児童書、言うまでもなくいくつかのテレビ番組)が、人種的正義という大義にどれほどのダメージをもたらしたのかは想像するだにできない。最も厄介な帰結は、扇動的で道徳的に擁護できない主張が広く流通したことの直接的な影響ではない。何百万人ものアメリカのリベラルが実際に信じていない、あるいは擁護する準備ができていないアイデアの販促と伝播に加担したことで、自らの信頼を失ったという事実だ。

トランプ政権下、権威主義的な政治運動が、真の信者による大義への忠誠心の示しとして、公の場で嘘をつく意思を一種のリトマス試験紙として利用したことについて、〔リベラルの間で〕多く議論された。特に発話者に不快感や屈辱を与える嘘は、本質的に負荷のかかるシグナルの一形態となる。これに当てはまる共和党員の言動の例を見つけるのは容易だ。しかし、ケンディの熱狂的支持者らも同じ性質を示していることに(そして保守はそうみなしていることに)気づいたリベラル派はほとんどいなかったのではないかと思う。ぞっとするほど多くのリベラル派が、自分たちの部族内での良い評判を維持するために、内心では信じていないことを公言したのである(例えば、アメリカの民主党支持者のうちのどれほどが、バラク・オバマをレイシストだと本気で思っているのだろうか? しかし、ケンディの見解によるなら、オバマはレイシストであることが必然的な帰結となるのだ)。

ケンディの本が膨大なまでに売れたこととは別にしても、何十万ものアメリカ人が多様性セミナーでケンディの考えに触れることになった。そうしたセミナーの多くは職場で開かれており、不同意を表明すれば処罰されるという現実的な恐れがあったことも多かった。どれほど多くの人が、反論を心のうちに抱き、他の人も同じかもしれないと知りながら、そうしたセッションを黙って聞いていたのか――考えるだけで胸が痛む。完全にナンセンスかもしれない? まあ、周りのお気持ちに同意することになるなら、首を突っ込んでも見返りはない。ましてや職を失う危険に自らを晒す理由は確実にない。そうして、人々は、そこで座り、ケンディを本当に信奉している人の話を聞いて、恐らくは不信感と嫌悪感のごちゃ混ぜのような心情を抱いて、仕事に戻っていく。これがどれほどのシニシズムをもたらしたか、この政治的状況から抜け出すのにどれほどの時間かかるのかということについて、私は非常に深く憂慮している。

[Joseph Heath, The Kendi bubble bursts, In Due Course, 2024/10/7.]

References

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1 原注:このような状況は特に憂慮している。なぜなら、こうした状況が容易に発生するからこそ、大学にいおけるテニュア制度を正当化する大きな理由にあると考えているからだ。テニュアを持っている身として、遺憾ながら、自身が本当に思っていることを述べる特別な義務を追っているのである。
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