エリック・ギリアム「トーマス・エジソン――システム構築と改善の人」(2023年5月23日)

トーマス・エジソンといえば,「本当は自分の手柄でもない発明で有名なヤツね」とあしざまに言われることも多い.だが,エジソンは,それよりもさらにむずかしいことをやってのけた.それは,そういう発明を市場に送り出すのに必要なシステムを構築することだ.


トーマス・エジソンの評判は,ややこしく入り組んでる.まちがいなく,当時あまたいた発明家たちの誰よりも有名な人物ではある――もしかすると,今後もずっといちばん有名な発明家のままかもしれない.だが,会話のなかでなにかの拍子にエジソンの名が出ると,「ああ,インチキのエジソンね」などと誰かが言い出すことも多い.エジソンの名前が出てきたとたんに,「あいつは電球の発明すらやってないじゃないか」と言われることもよくある.それは事実だ.エジソンは電球の発明者ではない.そのかわり,彼は普及の下地をつくる人だった.既存のアイディアを選び取ってきて,それを市場に送り出す人間だったのだ.

なるほど,エジソンの名で知られるいろんな大発明は,どれひとつとして,エジソンがはじめて発明したモノではなかったかもしれない.エジソンは,それとは別種の発明家だったのだ.エジソンは,いくつかの大発明を改善し,電球を大衆に普及させるために必要な小さな発明を何百とやってのけた.さらに,エジソンは――ときに完璧ではなかったにせよ――有能な経営者だった.そうである必要が,彼にはあったのだ.電球の普及のような大規模な操業をやってのけるには,エジソンは有能な経営者でなくてはいけなかった.

技術普及の下地をつくる役目に関して言えば,エジソンは傑出していた.だが,エジソンがたどったプロセスの要所要所は,今日では困難だろう.そのなかには,今日ではうっかり違法行為につながってしまいそうなものもよくある――とくに,当局から承認を受けずに無数の実験をエジソンはやっていたが,いま,これをやるわけにはいかないだろう.また,現代で次のエジソンになりうる人々は,学術界に引き寄せられている.そこで彼らは自分の専門分野のタコツボにもぐりこみ,利潤を上げる動機をもたず,実用への関心もエジソンほど強くない.

この小文では,市場で存続可能な電気照明システムを世界ではじめて送り出すべくエジソンが模索した物語を語ろう.そうすることで,いかなる問題であれ,一筋縄でいかないときに工夫をこらして解決するすべを見つけるために実験を重ねるうえでエジソンがいかに秀でた存在だったかをじっくり見ていこう.さらに,今日の世界では,エジソンのような天賦の才をもつ人々が翼を自由に広げられないように巧まずして邪魔をしてしまっているかもしれない点を検討する.

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電球に取り組んでいた時期の若きエジソンの肖像

もう一人の電球考案者

「エウレーカ(わかったぞ)」――ラボのノートに,エジソンはそう書き付けた.エジソンは,必要としていたモノを,ついに最新の実験から手に入れたのだ.すでに蓄音機の発明家として世界に名を知らしめていた「メンロパークの魔術師」は,それまででもっとも野心的にちがいない実験をすすめている真っ最中だった.その実験とは,経済的な屋内向け電気照明システムの開発だ.当然ながら,使い物になる電球こそ,そのプロセスの成否を分ける最初の一歩だった.

大いに骨を折って実験を重ねたすえに,ついにドミノの1枚目が倒れた.1879年のことだ.一種の炭素繊維である実験品のフィラメントは,ずっと明るく輝き続けた.13時間超におよぶ持続時間は,永遠に続くかに思われたほどだった.これで,みずからの構想を実現できるとエジソンは確信した.長く持続するフィラメントの開発は,それまでこのプロジェクトが抱えていた技術面のリスクがもっとも大きい分野だった.

だが,状況は一変した.

アメリカ科学振興協会 (AAAS) での会議で,科学者たちにエジソンはこう語ったばかりだった――白金こそが答えですよ,これで間違いない.エジソンは,それまで白金をフィラメントの素材に用いていた.「これまで知られていなかった状態の金属,ほぼあらゆる物質が溶けたり分解したりする温度ですら絶対的に安定している金属,ガラスのように均質で,鋼線のように硬く,螺旋形状をしている金属(…)冷たい温度のときと変わらず高温で白熱しているときにも弾力性がある金属」を,エジソンは得意そうに説いてまわっていた.

さらには,自分が必要とする条件に合致するこの白金という高価な物質の供給を求めて,エジソンは,実に 1,400通にもおよぶ書簡を世界のさまざまな国々の政府に送ってさえいた.だが,帰国するや,エジソンは白金のコスト以外にもさまざまな問題にぶつかった.最適な輝度をえるためには,フィラメントはきわめて緊密に巻かれなくてはいけない.その加工は困難だった.短絡を防止するには「パイロ絶縁体」が必要だった.だが,この絶縁体を使うと,電球は壊れやすくなる.さらに,できうるかぎり最良の真空状態にしてもなお,酸化する傾向があった――電球が黒くなってしまうのだ.このため,エジソンが必要としていた価格で大規模に機能させたくても,白金ではうまくいかなかった.

こうした問題があって,エジソンは再び手当たり次第の実験を重ねるしかなくなった.どうにか,まともに機能する他のフィラメント素材を見つけ出すための試行錯誤を,自らのチームと――「ボーイズ」とエジソンが呼んでいた面々と――重ねていき,ついに,炭素繊維で13時間の照明時間を達成した.それでもまだ,この電球は求める水準に達していなかった.だが,あらたに発明の評判を広めるに十分な出来に近いとエジソンは考えた.

それから数ヶ月というもの,この技術の躍進は世界中で新聞と科学論文の両方を賑わせた.

だが,研究と発明の界隈には,新たな発明を伝える見出しを快く思わない人々も多かった.エドマンド・モリスはエジソンの伝記にこう記している――「イギリス電気工学の本流にいる人々は,まともに学校も出ておらず髭を蓄えるていどの品格もないアメリカ人のペテン師の手によってこうしたことが達成されたという考えに抗議した.」 イギリス人の電気化学者ジョセフ・スワンはこう公言した――真空のガラス製バルブで炭素素材のフィラメントなら,15年前に自分が実験している.スワンは,エジソンの特許に異議を申し立てた.だが,スワンは,自らが求めた耐久性を得られなかったし,実験していたというなら,なぜそれから15年の間に自分のランプを保護するために予防的に特許を申請しておかなかったのか,スワンは説明できなかった.

フランスでも,エジソンの発明を伝えるニュースには同様の反応が起きた.照明に関するフランス人の権威 Théodose du Moncel は,エジソンを評してこう言った――エジソンは「実に創意工夫に富んだ才気煥発な発明家」だが,それだけだ.「電気化学の精妙なる理を知り尽くした」人物ではない.彼は,読者への警告を添えて文章を締めくくっている.「かの新世界からもたらされる大仰な発表」には,お気をつけることです.

エジソンの主張がこのように受け止められた理由について,英国王立研究所のイギリス人教授ジョン・ティンドルが説明している.彼によれば,電力による白熱灯を世に説く発明家たちは以前から連綿といて,エジソンとスワンはその最後尾にきた人物にすぎなかった.こうした発明家たちの系統をさかのぼっていけば,はるか80年前のハンフリー・デイヴィー卿にまでいきつく.それが,ティンドルの見解だった.そして,学術界の本流には彼と同様の人々が大勢いた.エジソンやスワンのような発明家連中は,ありもしないものを探し求めているのだ――彼らはそう考えていた.80年にもおよぶ研究によって,「電気照明のもっとも経済的なありかた,そしてまずまちがいなく今後もそうでありつづけるだろうありかたは,アーク灯だ」と証明済みだった.当時,公共の広場などを照らすのに使われていたアーク灯は,フィラメントによるものとは異なり,2本の電極の間に電流を流すことで光をうみだす.強烈に明るい放電をずっと続けることで周囲を照らすのだ.

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伝統的なアーク灯と,エジソンのフィラメント電球

エジソンは,アメリカに対するヨーロッパの反発心など気にかけていなかった.それは起こるべくして起こるだろうと考えていた.だが,同胞のアメリカ人たちが――その多くは教授たちだった――わが発明を自分よりも知っているかのような言動をするのには,げんなりしていた.当時,スティーブンス科学技術研究所の所長だったヘンリー・モートンは,公開書簡のなかでエジソンの電球をこう評している――「見まがいようもない失敗作」.誰であれ,「この分野に親しんでいる」者であれば,電球をいくつも連ねれば電力効率が多大に失われることになるのはわかる,そうモートンは信じていた.モートンにとって,エジソンが用いているのと同様の炭素化した素材を試して,シーメンス,ウェストン,ブラッシュ,マクシムといった当時の有名な産業機構や研究者たちが失敗していたことから,白熱が長く持続し得ない現象なのは証明ずみだったのだ.

エジソンは,この公開書簡をみずからのラボで読んだと言われている.そのラボは,84個の電球が照らしていた.モートンが可能だと思っていたのを上回る効率で輝き続けていた.その様子を見ていた記者に,エジソンはこう語った.「彼は,先によくよく調査してから,批判すべきだったね.」

エジソンは科学理論を尊重していた.だが,それをはるかに上回って,経験を重んじていた.今日と同じく,エジソンの時代の学術界でも,実地での改良よりも理論や「文献」の方を優先する人々が大勢いた.そのため,エジソンは教授たちのことを大して気にかけていなかった.それどころか,ときにエジソンが〔教授たちを〕長々とこきおろすことすら,世の人の知るところだった.助手たちにあれこれの教科書を開かせて,経験から事実と異なるのを知っている科学的な記述を見つけ出すと,エジソンはすぐさま実験室でその誤りを証明する実験を実演してみせた.「ナニガシ教授だかソレガシ教授だかは,あれこれと本をもとに理屈をこねては,こんなことはできっこないと証明なさる.ところが,自分の手を動かしてやれば,それができてしまうし連中の丸眼鏡をブチ割ることもできるのさ.」

科学界の本流が信じようと信じまいと,みずからの電球こそがのちのち自分の業績の目玉になる仕事の第一歩だとエジソンにはわかっていた.

後発,だが高性能

あとから遅れてやってきながらも,先行していた他の発明家たちをエジソンが打ち負かして巨額の金銭的なご褒美をモノにしてみせたのは,なにもこの1879年の電球が初めてではなかった.第一歩を記すのと同じくらい――いっそ,それにもまさって――実用に耐える性能と商業化の最後の一歩を踏むことを,エジソンは喜びとしていた.

この傾向は,1878年の全米科学アカデミーでの会合でもはっきりと現れている.電話を発明した人物こそベルだったものの,それよりはるかに実用的なものに仕上げたのは自分だと,エジソンは,実地に展示して証明した.その会合では,ワシントンからフィラデルフィアまで,通話を実演して競争した.そこには,ベルとエジソンそれぞれの電話,そして知名度は下がるもののジョージ・フェルプスとエリシャ・グレイの電話も並んでいた.従来の発明家たちのテクノロジーを使用した磁力システムによる競合3機種の電話は,当時の電話利用者がすでに慣れっこになっていたほど信号が弱く,干渉が起きた.エジソンの電話は音声明瞭だった.この通話品質の大半は,新たに使用したマイクによる成果だった.エジソンのマイクは,電話線から送られてくる信号を電源にして磁石を動かすのではなく,備え付けのバッテリーを使って受信側マイクを動作させていた.送られてくる音声信号は,そのバッテリーの出力を上下に調節するのに用いていた.この方式のマイクを,エジソンは既存の電話システムにライセンス供与した.これによって,電話という発明に秘められていた途方もなくすばらしい事業の力がさらに解き放たれることとなった.

人々のあいだでエジソンの名が電話と結びつくようになったのは,こういういきさつによる.エジソンが名をはせたのは,遠距離の通話という問題に最初に取り組んだからではなく,創意工夫をはたらかせて既存の電話テクノロジーを体系的に改善してみせたことによる.そうすることで,エジソンはこの分野をまったく新しい水準にまで引き上げた.みずからの電話用マイクの成功を確実に継続させるべく――そしてみずからの懐に入る利益を確保すべく――エジソンはこの発明の製造権を保持した.特許権こそウェスタン・ユニオンに売却したが,そのあとも,製造権は手放さなかったのだ.

1878年,電話事業をすっかり整えたエジソンは,新たな探求にとりかかった.これが,のちに白金電球の開発につながる――もっとも,それ自体は,もっと後になって竹を使った炭素フィラメントに取って代わられるのだが.この時点で,エジソンはそうした白金フィラメントに過大な自信をもって取り組みつつも,Drexel, Morgan & Co.(のちの JPモルガン)と関係のある金融業者との取引をはじめた.相手の出資者が株式の過半数を保有する条件にエジソンは合意せざるを得なかったが,その見返りに,エジソンは実験資金として 130,000ドル(現代の貨幣価値で 3,800万ドル)を受け取った.実験につぐ実験を重ねてみずからの夢を現実にするべく邁進するには,この資金がエジソンには必要だった.

電球は,ほんの始まりに過ぎなかった.もっと大きな夢のための「概念の証明」でしかなかったのだ.これを端緒として,エジソンはずっと心に抱いていた構想の実現を目指していた.

エジソンにとって,発明は,みんなが欲しがってお金を払ってもいいと思う製品か,あるいはその製品を可能にするものであるべきだった.紆余曲折がありこそすれ,最初から,非常に具体的なカタチでわかりやすい製造と実装と市場のそれぞれにかかる制約を念頭において,研究がすすめられた.どれも,ゆるい制約ではなかった.自分個人で発明の資金を出したり製造したり販売したりすることもよくあった.この市場に導かれたプロセスは,大半が学術界で働いている今日の研究者たちが向き合っているものとはずいぶん異なる.

エジソンの構想

電球の特許申請が1880年1月に承認されるやいなや,エジソンはすぐさま次の特許を申請した.今度は,「配電システム」だ.この2つを立て続けに申請したのは,偶然ではない.エジソンにとって,これはたんなる電球プロジェクトではなかった.これは,もしかすると前代未聞の規模におよぶ技術事業ベンチャーだったのだ.エジソンは,世界中のあらゆる住宅を電気で照らすことをのぞんでいた.その手始めは,マンハッタン南部だ.

夢に描いていた構想を大衆向け市場の現実にするためには,百をこえる技術的な問題を解決する必要があった.エジソンがとりくんでいたのは,プロジェクト開始当初にはまだ存在もしていなかった発電機を電源に必要とする新しい電球だった.電力などありはしない住宅につるされた電球は,地下を走る電線によって発電所につながり,そこから電力を得る.だが,その電線も発電所も,まだ存在すらしていないエジソンの頭のなかの存在でしかなかった.

それでも,それから2年が過ぎようとする頃には,エジソンはこれをカタチにしている.さらに,それに劣らず重要なこととして,そのベンチャー事業全体が,プロジェクト開始から6年が経った時点で利益を生み出すようになっていた.

エジソンには,異世界から来たかのような先見の明があった.はじめに,このテクノロジーを市場にもたらすために解決する必要がある技術的問題を予測し,次に,いつまで経っても解決しようがないたぐいの技術的問題の残らないシステムを提案した.その古典的な例が,下に引用するエジソンの発言だ.これは,1878年にエジソンが記者に語った言葉で,当時,プロジェクトはまだエジソン一人の頭のなかの夢でしかなく,彼の大ネタの電球もダイナモも,まだこの世にうまれていなかった:

こうしたダイナモ電力機械を15台か20台か用意して(…)ニューヨーク市の南部全域を明るくできるのです.(…)その電線は絶縁しておかねばなりません.そして,そいつを地中に埋めてやるのです.ちょうど,ガス管と同じ要領ですよ.(…)どの住宅にも,計測器を設置して,それを通って電線がその住宅に張り巡らされるわけです.ちょっとした金属の仕掛けを利用して,これをバーナー1台ごとにつけてやります.これでもう,家政婦はガスは栓を閉めてやって,元の会社にその計器を送り返してしまってかまいません.コンロに点火したいときには,そばにある小さなバネに触ればすみます.マッチを擦らなくていいのです.
明かりをみなさんに届ける電線は,動力や熱も届けられます.動力としては,エレベーターやミシンを動かすのに使えますし,あるいはモーターが必要な他の機械を動かすのにも使えます.熱としては,調理にも使えます.熱を利用するには,それを受け取るよう適切に作られたオーブンやコンロさえあればすみます.費用も,わずかなものですませられます.
– Thomas Edison, The Papers of Thomas A. Edison: The Wizard of Menlo Park, 1878.

上記の抜粋で語られている電気機器のどれひとつとして,この時点では発明されていなかった.エネルギー浪費をはるかに少なく抑えて稼働するダイナモの発明も,実用に耐える電球フィラメントの発明も,電球ひとつずつが独立に機能するのを可能にする並列結線の発明も,電灯スイッチの発明も,電力計の発明も,この壮大な構想の一環をなすものであり,しかも,どれひとつとってもこれから発明されるべきアイディアでしかなかった.

それでいて,エジソンが語った配電の特許に含まれていた詳細の一部は,信じがたいほど具体的だった.特許の記述に目をとおすと,その一部は,あたらかも現場のチームのために書かれた取扱説明書のように感じられる.中央のダイナモ発電所から消費者の住宅にまで導線を敷設する作業を進める手順を現場作業員のために書いたかのような文章だ.さらに,手順を読み上げて二重チェックしたりなんらかの問題を解決したりするために配電センターの現場作業員の手元にあるべき素材や道具を具体的に指示した箇所すら,エジソンは特許のなかに書いている.

下に掲載した特許の図版3をじっくり見てほしい.自らの計画を首尾よくやり遂げるために,各種の図のなかで,いろんな街区の通りにラベルをつけるところまでエジソンは徹底している.図版に見える交差道路のひとつはブロードウェイとコートランドストリートで,おそらくマンハッタン南部の金融街にあるブロードウェイ・アベニューとコートランド・ストリートを示している.これは,エジソンが実際にパール・ストリートに建設する最初のダイナモ発電所からほんの数ブロック離れた場所だ.

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エジソンの配電システム特許

エジソンを「夢想家」と呼んでみても,エジソンがあれほど安定して成功を続けることになった要因は掴みきれない.エジソンは,より大きなシステムを思い描きつつ,発明すべきものを選んだ.電話用マイクを発明するまえに,彼は既存の電話やその配電システムに用いられるテクノロジーを理解していた.そのうえで,その既存システムに簡単に追加できるものを発明したのだ.みずからの発電所で用いるためにたんに改良版のダイナモ発電機をエジソンは発明したわけではない.マンハッタンを端緒に,よりコスト効率のよい電気照明会社へと発展させていく助けになるのがわかっているダイナモ発電機を発明したのだ.

今日の研究がおかれた生態系では,こうした視野の広い思考はしにくい.抜群に頭脳明晰な人々の多くは,学術界で働いており,そこでは専門分化が非常に進んでいる.関心も,もっぱら内部での階層的な地位に傾きがちだ――テニュア〔常勤としての永久在職権〕をとること,自分の分野や下位分野で先端研究者になること,とりわけ名声の高い学術誌に論文を載せることに,彼らの関心は狭まりやすい.新たに大きな制度や組織をつくりあげようと試みたり,あるいは,大きく数珠つながりになった未解決の技術問題の数々に技術的な解決案をもたらそうと試みたりする研究者は,めったにいない.

SpaceX のような非常に鮮烈な事例もあるものの,そうした巨大で遠くを見据えたスタートアップですら,エジソンに本当に比肩するものではない.なにしろ,SpaceX 創設の数十年も前に,人類は宇宙に何度も行ったことがある.物理的エンジニアリングという官僚主体の分野を再び活性化し拡大する力に SpaceX がなったことは否定できない.だが,単独でアポロ計画なみのことをやり遂げていなくては,エジソン電灯会社に匹敵するものたりえないだろう.

エジソンは,実現可能な夢を思い描いていた.さらに,そうした夢は,いずれも小さな夢ではなかった.だが,自らの夢を実現するために必要な技術問題や事業の問題を解決して見せたことこそ,エジソンの真に刮目すべき部分だ.

エジソンの事業プロセスの鍵を握る要因だった実験による試行錯誤

事業プロセスのあらゆる部分で,必ず実験による試行錯誤が先行するように,エジソンは取り計らった.エジソンは,中核をなす製品を生み出すときにも,いざ実装する段階をより経済的にするときにも,その中間のあらゆる段階でも,実験による試行錯誤を重ねた.

かといって,エジソンは,際限なくえんえんと製品に手を加え続ける完璧主義者だったわけではない.事業としてうまく回すためには,ちょうどいい頃合いで切り上げなくてはならないことを彼は心得ていた.マンハッタン南部に電灯を行き渡らせる事業は,巨大で可動部品が多く運営に費用がかさむものになることが見えていた.しかるべきテクノロジーの準備が整ってもいないままに事業を回すことも,ときにあった――出資者たちには秘密で.

エジソンは,才能あるスイス人機械工 John Kruesi を雇っていたが,Kruesi は客観的すぎるとみたエジソンは,手を尽くして彼を投資家たちから遠ざけておいた.事実は事実として,それとは別に彼のいう「先送りした事実」もあるのだということを Kruesi にわからせるのはどうにもムリだと,エジソンは感じていたのだ.

その先送りした事実がエジソンのプロジェクト進捗におよぼした影響がこのうえなく明らかになったのは,1879年のことだ.当時,エジソンは,電球を強化するために電球の設計を一時中断して新種の発電機にとりかかっていた.その年の秋には電球工場が生産を開始しますよと,すでにエジソンは約束していた.ところが,肝心の電球のテクノロジーは製造できる段階に達していなかった.そこで,1879年の夏をまるごと費やして,自らが誰より信頼していたラボの相棒たるウィリアム・バチェラーとともにラボにこもると,エジソンはフィラメント実験を何度も何度も繰り返した.まずはフライングで白金フィラメントの開発に手をつけ,次いで炭素フィラメントを試し,そしてついに竹を使ったフィラメントで成功を収めた.エドマンド・モリスによるエジソンの伝記には,エジソンが粉骨砕身して実験を重ねるアプローチがどんなものだったかを読者に伝えてくれる一節がある.以下に引用しよう:

週に週を継いで,2人の男たちはおよそ手に入るかぎりのあらゆる繊維素材を切り出しては研磨して炭素化し,次々にフィラメントをつくり出しては試した――ヒッコリー・モチノキ・カエデ・シタンの裂片,ササフラスの髄,ショウガの根,ザクロの皮,ユーカリとシナモンの皮の香り高い細片,トウワタ,ヤシの葉,トウヒ,タールを塗った綿,ローリエの木,スギ,フラックス,ココナッツの外皮,メープルシロップで煮たジュート,オリーブオイルに浸したマニラ麻.このように性質がさまざまに異なる標本を次々に試していき,6000以上を「不適」と判断した.いずれも,〔フィラメントとして試してみたところ〕割れたり裂けたりしてしまったからだ.「全能なる神の作業場であれば,そのどこかに,我々の用途に適した幾何学的に強靱な野菜があるはずだ」
夏の盛りの暑い日々,麦わら帽とヤシの木に日差しが照りつけるなか,あるとき,ふと竹を使う発想がエジソンの頭に浮かんだ.この管のような形状の植物ほどまっすぐ強靱に育つものは,自然界に二つとないではないか.その中空の稈から表皮を薄く切り取るのもたやすく,また,曲げるのも容易で,シリカを含む表皮がその圧縮を持ちこたえる.さらに,竹には他にも美点がある.それは,電流にきわめて抵抗を示すという点だ.これは,エジソンの目的にとって理想的だった.〔たまたまラボにあった〕扇子の骨に使われていた竹から表面を削り取っていくつか輪っか状にして炭化してフィラメントに使用してみたところ,温度が低い状態で188オームの電気抵抗を記録し,そのうちひとつは真空中で蝋燭44本に匹敵する明るさで輝いた.このとき使った素材は,安価なカルカッタ産の竹で,クランプ部分が青くなり,1時間ほどで消えてしまった.
– Edmund Morris’s biography, Edison.

1時間ほどでは用をなさない.だが,これで道が開けたとエジソンは考えた――白金や炭素にまさるフィラメント素材をもたらすものがここにあるかもしれない.ラボでこの問題にとりかかりつつ,エジソンは世界中に人手を送り出して,最良の竹を探させた――この探索の費用は,現代の価値で数百万ドルに相当する.一方,エジソンの元にいたガラス職人のボームも,電球の形状を改良して,いまや電球と聞いて人々が思い浮かべるあの洋梨のような形状にたどりついていた.この形状の方が,竹フィラメントを曲げた輪っかを収めるのに適していたのだ.

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洋梨のような形状の新型電球(左)は,従来の球体型にくらべて,竹フィラメントをより多く内部に収めることができた

このプロセスの最初から最後まで,エジソンのラボでの経験から,絶えず失敗に次ぐ失敗を重ねていけばなにか有用なものに近づいていくのだとあらためてエジソンは手応えをえた.当時,エジソンの元にアプトンという数学者がいた.プリンストン大学を出て学位を持っていたことから,彼はエジソンに「文化くん」(‘Culture’) と呼ばれていた.まだラボに来たばかりでエジソンにやり方になじんでいなかった「文化くん」ことアプトンは,当時を思い返して,こう語っている――4ヶ月も電球実験に明らかな失敗を続けていたのだから,これはモノにならないだろうと自分は考えていた.だが,メンローではそうともかぎらなかったのだ.

ラボで収めた数々の成功は,いかなる種類の「天賦の才」よりも忍耐としぶとい継続のおかげだと,エジソンは考えていた――「天賦の才」「天才」という言葉を,彼は嫌っていた.なにか具体的な問題をなんとか理解しようとラボであれこれと試みていると,そのうち,プロジェクト全体の他の分野での解決案につながることがたびたびあった.あるとき,極めて高温で白熱しているフィラメントを観察していたところ,金属が溶ける直前にヒビ割れるのをエジソンは目にした.その頃,電球が黒くなってしまう問題もエジソンは抱えていたが,原因は電球を完全に真空にできていないせいだと考えていた.だが,そうではなく,可融金属から特定の気体が出てきているのだとわかった.これは,ロシア出身の物理学者アレクサンダー・ロディギンが提案した理論どおりの結果だった.

これがわかったからといって,電球が黒くなってしまう問題が解決されたわけではなかったが,自分の電球が熱や光のエネルギーの散逸を増やしうるという結論にたどりついた.真空を維持できないからには,そのかわりにフィラメントの抵抗を最大限に大きくすることに集中できた.抵抗を大きくすれば,銅線よりもフィラメントから放出される光と熱を増やせる.電線で生じる熱とエネルギー浪費の要因は,その直径にある.光を出したいところでは,直径を小さくすれば(つまり抵抗を大きくすれば)役に立つ.つまり,光が出る.そこの直径を小さくすれば(抵抗を大きくすれば),水(電気)は主な水道管(電線)を比較的に流れやすくなる.そちらでは,抵抗は無駄でしかない.エジソンは,この問題を解決できるなら目が見えなくなってもかまわないと言わんばかりに,白熱するフィラメントを顕微鏡で凝視した.

さんざんに考え抜いて調べつくしたとき――最適なフィラメント素材(最終的に選んだのは竹),焼成温度,コーティング,処理の順序,電球の形状,フィラメントの直径,これらすべてのちょうどいい組み合わせを見出したとき――エジソンのラボで,数百時間も輝き続けられる電球がうまれた.そうやって最終的にうまれた竹フィラメント電球のプロセスにかかわるさまざまな処理はすべて標準化され,製造プロセスの始めから終わりまでを十分に低コストで回せるようになった.それまでエジソンが試した数々の電球は手作業で調整していたためにコストがかさんでいたが,それらとちがって,いまや標準化でコストは十分に下がり,この電球は〔商業的な製品として〕実用に耐えるようになった.

こうした電球の開発作業は,メンローパークでは異例な事態どころか,その真逆だった.「先送りした事実」を扱うには客観的すぎるとエジソンに思われていた機械工の Kruesi には,非常に細部への注意が求められる仕事が割り振られた.これは彼の技能にうってつけの仕事だった.ただでさえ数百名ていどしか住む人のいないニュージャージーのメンローパークに,エンジニアたちと6人の穴掘り労働者からなるチームといっしょに力を合わせて,ミニチュアの町並みをつくりあげた.ラボの余っていた土地にうまれたその町並みは,マンハッタン南部にエジソンが計画していた照明地域の 1/3 模型だ.Kruesi たちのチームは,電力供給システムを試験にかけてはさらに再試験をかさねた.そのたびに,メンローパークの赤茶けた土を掘り返し,実験用の送電システムを埋め,さらに掘り起こして埋め直したりする作業を彼らは続けた.そうやって数え切れない回数のテストを重ねて,染みこんでくる水やニューヨーク市のそこらじゅうにいたネズミどもから,繊細な素材を安全に守りつつ電流を効率よく送れる素材を見つけ出した.

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エジソンが計画した第一号の照明地区の概観.この地区は,ウォール街,ナッソー街,スプルース街,フェリー街,イーストリバーに囲まれた一角だった.その面積はおよそ1マイル× 1/3マイル.この地区は,戦略的に選ばれた.なぜなら,アメリカでも有数の銀行・新聞社・富裕層の多い地域だったからだ.
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メンローパークの建物群.1879年冬.

このプロセス全体は,いかにもエジソンらしい試行錯誤プロセスでできあがっていた.最初に地中に埋められた送電線と配電箱は,2週間もたつと雨で完全に駄目になってしまった――余分に木材を使ってコールタールを塗布して保護していたにもかかわらず,水気にやられてしまったのだ.失敗した試作品を穴掘り部隊が掘り起こして損傷を検討する一方で,Kruesi と Wilson Howell という名の若手研究者は,信じられないほど数多くの化学的な組み合わせを研究し,疲れも知らないかのように検査を繰り返した――ラボの資料室と化学室をめいっぱい活用して試行錯誤を重ねた2人は,ついに,雨からもネズミからも送電線を保護する素材を発見した.それは,精製されたトリニダードアスファルトを酸化した亜麻仁油で煮沸し,これにパラフィンと少量の蜜蝋を加えたものだ.

いざマンハッタンで送電システムが実装されたときに技術問題が発生しなかった功績は,メンロー・チームの疲れ知らずな実験作業に与えられていいだろう――もっとも,その作業の多くは,今日ではおそらく違法だが.

米国電気工事規程などの規定に書かれている条項の多くは,書かれた当時のテクノロジー水準にもとづく部分が大きかった.そうした条項で求められていた要件は,おうおうにして,3年ごとの更新のたびに,大まかになるどころか,いっそう具体的に細かくなっていった.だが,ちょっとした技術革新が起こると,そうした規制の意義は大幅に薄まることがたびたびあった.一例として,電気工事規定の 200.4(B) を見てみよう.この項目では,並列回路を設置する際にすべきこととすべきでないことを具体的にいくつか述べている,だが,その手順の指示では,設置時点ですでに物事がどうなっているのかを具体的に述べることがよくあった.こうした規制は,そのときの現行のテクノロジーでは意義があるものの,これから技術革新を起こそうとしている人々にとっては,妨害だ.たとえば,エジソンの照明プロジェクトが進むなかで,エジソンと Kruesi は,樹形図モデルから「フィーダー線とメイン線」原則へと送電網の構造を全面的に変更する新しいアイディアを思いついた.フィーダー線とメイン線がつくるネットワークは,4つの同心円のようなかたちをつくる.これにより,プロジェクトでもっとも多用されていた素材である銅の使用量の実に 7/8 が節約できた.前述の 200.4(B) のような細々とした規制が当時存在していたなら,エジソンの技術革新は「規定に従っていない」ことになっていただろう.それはべつに,この新たな技術革新の安全性が劣っていたからではなく,もともとの規定にあった文言が過剰に当時の現状を規範としすぎていたためだ.

米国電気工事規定を扱っている委員会に対して,3年ごとの改定でこれを取り入れるようにどこかの起業家がロビー活動をかける手間が仮に割に合うものだったとしても,それが当てはまらないようなあれこれの小さな発明が登場してもおかしくない.たとえば,規定 310.4(A) に掲げられている表では,一定の温度と湿度において,絶縁体に用いられる素材に求められる厚みが規定されている.これは理にかなっているし,有用でもある.だが,もちろん,そうした素材に改良が加えられて,以前ほどの厚みがなくても絶縁体としての役目をこれまで以上に果たせるうえに厚みを減らした分のコスト削減もできるようになったとしても,そういった改良が起こるたびにいちいち規定を改める必要がある.多くの場合に,こうした規定の作り方では,えられる便益にくらべて手間が見合っていない.

〔細々とした規定を用意しておくこととそれで得られる便益とが釣り合うような〕こうした均衡があるとしたら,多くの分野で起こるさまざまな改良・改善をほぼもれなく予見できていなくてはいけないかもしれない.〔そんな状況では〕誰かがエジソンに匹敵するほど壮大で実用的な夢を思い描きえたとして,それにどんな意義があるだろう? あれほど多くのさまざまな未解決問題に取り組んでそれぞれに解決策を用意したうえで市場になにかをもたらそうと試みたところで,それらはおそらく各種の規定を遵守してはいないために,ほぼあらゆる状況でにっちもさっちもいかないだろう.そうした技術に関わるリスクを克服したとしても,規制による摩擦を考えると,損益分岐点をこえる見込みは絶望的なまでに小さいだろう.

エジソンがなしとげたさまざまな科学的な業績のなかでも屈指のものを見ていくと,〔主要な問題に付随する〕さまざまな下位問題をうまく迂回する方法を発明しようとしていたときになされている場合がある.その方法は,およそ現代の規制監督者には思いもつかないだろう方法だ.古典的な例を一つ挙げると,エジソンのダイナモの仕事がそうだった――これについては,のちほど詳しく語ろう.ともあれ,全体として,こうした仕事の進め方はエジソンの手がけた業務のいたるところでなされている.エジソンにしてみれば,これについて言うべきことは大量にあった.

上流から下流まですべてがエジソン・カンパニー

物事を適切にやるためには自分でやってみなくてはいけない,これがエジソンの考えだった.自分でやろうとすれば,おのずと,自分を舵取りにすえて会社を垂直統合することになる.

エジソン電灯会社に出資した人々は,「マンハッタン南部の電気照明で,この会社の大きな投資は最後だろう」と見ていた――計画が成功を収めれば,きっと,特許の使用許可を誰も彼もが求めることだろう.JPモルガンをはじめ,出資者たちの見込みでは,過大なリスクは,追加の送電システムの実装で先行する試みにしかないはずだった.同様に,マンハッタンでの実装のために,既存の製造業者たちからできるかぎり多くの部品を調達すべきだとも,出資者たちは考えていた.

エジソンは,そうした考えを嫌っていた.彼の目には,ちがうものが見えていたのだ.自分と仲間たちが実装と製造のさまざまな段階をみずから責任をもって手がけなければ,この企て全体の失敗確率はずっと大きくなってしまうと,彼は見ていた.これまで誰ひとりつくったことのないモノをつくろうというのに,他人任せにしてどうする? スイッチボードも,調整器も,計器も,屋内配線も,フィーダー線とメイン線の接続箱も,ソケットも,自分以外の誰もつくったことがないというのに.

エジソンにとって,問題は金などではなかった.つねに,問題は大衆向け市場に自分のテクノロジーを送り込むこと,しかもそれをうまくやってみせることだったのだ.

エジソンは個人的に出資してもっと小さな会社をいくつか立ち上げた.そうした会社を自ら運営して製造と実装のさまざまな段階の大半を扱った.エジソン・マシーン・ワークスは発電所で使うための大型のダイナモを製造した.これもエジソンの発明品だった.エジソン・ランプ・ワークスは,白熱灯を大量に生産した.エレクトリック・チューブ・カンパニーは,地下に埋設する導体を製造した.バーグマン・アンド・カンパニーは,新たに発明されたスイッチ・照明器具をはじめ,照明システムに必要だった小さな部品を多数製造した――同社の主要な設立者だったエジソンは,あまりに多くの会社に自分の名前を冠してしまっては,「エジソンの関心はあれやこれやに分散してしまっている」と思われるかもしれないと思っていた.個々の工場や金持ちの個々人(他ならぬJ.P.モルガンなど)を対象としたより小規模な電気照明の設置は,エジソン・カンパニーが行った.こうして設立した多くの会社それぞれに,自らが信頼するラボのパートナーやメンローパーク出身者たちを据えて,数え切れないほど持ち上がる技術的な問題それぞれを彼らが自らのラボで解決できるように取り計らった.

この同じ工場で,フィラメント大量製造用に,炭素化・熱処理を大量に行う新たなオーブンをエジソンとバチェラーはつくりあげた.これには,才能ある実験用人員たちによる絶え間ない作業が必要だった.というのも,一見して十分そうに思えるモデルが開発されたあとですら,新しいラインから送り出された第一陣の電球は,約26時間しか輝かなかったからだ.ラボで作った電球が132時間も輝いていたのと,大きな差があった.メンローパークでの電球開発は,終局からはるか遠い地点にあった.電球製造を大規模に行うためにやるべき課題は,開発とはまた別種の怪物だったのだ.

電流を計測するのに電流そのものを必要としないほど単純な電解メーターといった中核的な発明は,きっとメンローパーク出身者たちの業務からもたらされると信頼して頼ることができた.エジソンのメンローパーク・ラボで採用された科学的アプローチは,現実世界での問題解決にとりわけ適していた.

エジソンのダイナモ

物事を考えるとき,エジソンはなにかこれという科学分野のレンズをとおして考えてはいなかった.プロジェクトを進める中でなにか問題に遭遇すれば,機械加工の技能に加えて電気・冶金・化学の知識を(実践的な知識か学術的な知識かを問わず)嬉々として組み合わせて解決に挑んだ.なぜなら,彼にはそれができたからだ.「これはいい案だ」と思うものがあるとき,プロジェクト資金の節約になったり,なんらかのかたちでその結果に顧客が喜んだりしそうであれば,少しばかり追加で発明をしないでいる理由などないだろう?〔とエジソンなら言うだろう〕

1879年に,電球の初期バージョンができあがり,Drexel Morgan の出資が確保できると,そもそも資金を呼び込んだネタだったはずの電球開発を続けずに,電磁気ダイナモへとエジソンは関心を振り向けた.取り組みを切り替えたことを Drexel, Morgan, & Co. は知らなかったが,エジソンは,これをやっておく必要を覚えていたのだ.

投資の話がまとまってから数ヶ月後,出資者たちはようやくエジソンのメンローパーク・ラボ訪問を許された.自分たちの出資でラボがごちゃごちゃと拡大する弾みがついたにもかかわらず,電球部門ではろくに進捗がないと知って,出資者たちは動揺した.

なにやら音叉のような形状の物体に自分が時間を注ぎ込んでいるのが客人たちにもあらわになって,エジソンは説明しようと試みた.これは「磁力-電気マシーン」なんですよ,これなら既存の発電機にくらべて効率性が格段に上がるのです.本筋の業務から派生した副次的なプロジェクトとしてまったくの新型発電機をつくれるという彼の考えを伝えてみても,出資者たちはおろか,ともに働く仲間たちの一部すら,不審の目を向けた.エジソンにとって,新型発電機が資金と時間の有効活用なのはわかりきったことに思えていた.エジソンにしてみれば,できるだけ大勢の人々の住宅にみずからの照明システムを届けたかった.そして,これを実現するには,より安価に電流を作り出せることが重要だと彼にはわかっていたのだ.

エジソンのチームは,できるだけ内部の抵抗を少なくした発電機の開発に向けて実験を重ねた――当時,発電機を製造していた人々のあいだでは,発電機内部の抵抗を,その発電機が電力を供給している回路の抵抗の総計にできるかぎり近づけたときに,最大限の出力がえられると信じられていた.エジソンの発想には,彼のとてつもない直観が表れていると考えている人々もいる:エジソンのアプローチはうまくいき,彼が抱いていた自信が正しかったことが照明された.だが,「直観」というと,間違った印象を与えてしまうかもしれない.エジソンは,大人になってから冶金・化学・電気の関するとてつもない量の知識を蓄えていた.そうした知識は,日に18時間も重ね続けた実験によって成り立っていた.

この「直観」の一部は,それまで実験を重ねてきたなかでできあがった彼の考えから来ていた.その考えとは,ダイナモをつくっている他の人々の説明で考えられている以上に,磁力がしたがっている法則は電気のそれに似ているというものだった.かつてラボでエジソンの助手を務めていた人物の回想に,エジソンが数学者のフランシス・アプトンと交わした会話が記されている.自分のもとで働き始めたアプトンに,エジソンはこう言ったという:

磁力がしたがう法則は,電流を支配してる法則とそっくりなんだよ.電線に流す電流を多くしすぎると,電線は発熱する.で,ああいう連中は,磁界に電線を巻きすぎてるんだ.鉄の小さな断面積に比べて,電流を流しすぎてる.そのせいで,力線が正しい経路から逸れてしまう.
– Frances Jehl, Menlo Park Reminiscences.

ようするに,エジソンはこう考えていたのだ――競合者たちの設計がダメな理由は,鉄を電流で「飽和させて」しまっているからだ.飽和させてしまうと,それ以上の電流は通れなくなり,あとはひたすら熱として浪費されるだけだ.エジソンがそれ以前に行っていた電報の実験では,電磁石につながる電線を太くしても,磁石がより強力になったりしないことがわかっていた.

それまでに重ねていた実験や経験則の多くを跳躍台として活用して,エジソンはこの仕事を進めた.ラボの助手が残した回想録を見ると,そうした実験や経験則は,伝統的な意味での科学よりもずっと実践的なものだったようだ――機械工学のエンジニアやガレージで仕事にはげむ発明家たちが物事を考えるときのように,実地に即したものだったらしい.エジソンが物事を説明するときには,しょっちゅう,次のような言葉が挟まれたという――「子供の頃に,蹄鉄みたいなU字の磁石で遊んだことはないか? あのU字の両端に棒磁石を渡したりしなかったか?」 そんなことを言って,エジソンは説明を続ける――自分たちがいま取りかかってる課題はまさしく自分がいま言った実際の例とそっくりなんだ,だから,これをこうすればそいつをうまく利用できる.

エジソンが語った科学的な現象の記述を現代の科学者たちが読むと,おうおうにして,「いや,これは必ずしも正確ではない」と指摘しがちだ.だが,エジソンは現象の記述よりもその結果の方を気にかけていた.自分の経験則がうまくいっていて,自分が必要とする結果をもたらしているなら,そうなっている理由が必ずしも正確に自分の考えどおりでなくてもかまわなかったのだ.エジソンが電気関係の仕事をすっかり片付けて,それまでを振り返ってみたときには,なるほど自分は実のところ電気をよくわかっていなかったかもしれないと自ら認めてすらいる:

「いいかテイト,電気についてなにか知りたいことがあったら検流室に行ってケネリィに聞くといい.電気のことなら,あいつの方が俺よりはるかによく知ってる.というか,以前の俺は電気について実はなんにもわかっちゃいなかったんだと考えるようになってな.これから俺は,これまでにやったどんなことよりもデカくてえらく畑違いなことをやるつもりだ.きっと,かつては俺の名前が電気と結びついてたことなんて,そのうち世間はすっかり忘れるだろうよ.
– Thomas Edison, Edmund Morris’s biography ‘Edison’

エジソンは,論文や教科書に書いてあるからといってなんでも理論をむやみに信じたりしなかった.どうやら,みずからラボの実験台で本当にうまくいくと証明してみるまでは,他人の理論を信じなかったらしい.エジソンはありとあらゆる科学誌を読んでいたが,実際に物がどうなるかという事実を発見しようというときには,とにもかくにも実験台に向かうのがエジソンの常だった.

ダイナモのひな形が仕上がると,その動作はおそまつで従来型の最良のものとの差は歴然としていたために,エジソンはこき下ろされた.温室効果ガスの発見者と言われることの多い物理学者ジョン・ティンドールは, Journal of Gas Lighting にこう書いている.「その配列の馬鹿馬鹿しいまでの非効率は,適切に言い表しがたい.だが,きわめて確かなことがひとつある.これを大真面目に提案した人物は,電気についてもエネルギーの科学についても科学的知識を欠いているということだ.」

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エジソンの新型ダイナモ
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ウォレス=ファーマーの直流発電機――旧式ダイナモ(1875年)

だが,エジソンは気にもかけなかった.エジソンは,実地での成果を得ていた.組み上がったダイナモは,多くの人には足のひょろ長い怪物のように見えたが,できあがって最初の試験運転を数回重ねていくあいだ,ダイナモは「あまりに出力がありすぎて,ボビン[電機子]のコイルがバラバラになってしまい,動作を止めなくてはならないほどだった.」 プリンストンの研究者2名が連れてこられて,ダイナモの評価に当たると,その内部効率は 90% だった――つまり,入力されたエネルギーの 10% しか浪費されなかったということだ.これは,競合機からの大きな飛躍であり,そのずっと先を行くものだった.

エジソンは,製造のあらゆる工程でさまざまな発明を続け,市場での実用に耐える電球を発明すべく必要なことはなんでもやる強烈な意思を持ち合わせていた.いま述べてきたのは,エジソンのこうした特質を示すほんの一例にすぎない.みずからが構想しているシステムをいっそう効率よくする新型発電機をつくりだせるという自信がエジソンにはあった.だから,つくった.

現代のエジソンを,我々はどう活かせるだろうか?

Drexel と Morgan による最初の出資からわずか2年が経過したばかりの1882年の暮れまでに,マンハッタン南部のパール街の発電所は稼働していた――アメリカ初の,商業用途の発電所だ.その後,この発電所は,とくに大きな問題は起こさずに10年間稼働をつづける――ただ一度だけ,エジソンがその施設を使って実験をしようとしてあやうく停止させそうになったのを例外として.出資を得てからほんの6年で,エジソンが見通していたとおり,エジソンの企業全体が利益を生み出せるようになっていた.

エジソンは製造業者であり,設備設置の最高責任者であり,エンジニアであり,起業家であり,研究者であり,広報担当だった.それらを一身で同時に兼任していた.

エジソンが技術的な仕事を手がける際の手腕がいかにすぐれていたかを,評価すべきだ.かつて,ジョン・フォン・ノイマンについてこう言われたことがあった――「たいていの数学者たちは,自分の手に負えるなにがしかを証明する.フォン・ノイマンは,自分がのぞむものを証明する.」 エジソンについても,同じように言えそうだ.こういうものを実現しようと心に決めると,あとはもう,彼がいろんな実験で解決や回避の道筋をみつけだせない問題はめったにない.これまでに知られているかぎり,フォン・ノイマンもエジソンも,それぞれの分野で,それまでなにもしていなかったところへ急に天才のひらめきが生まれたためしがない.フォン・ノイマンは,本来の自分の分野である数学で,相対性理論や不完全性定理にならぶような彼の名を冠したものをもっていない.同様に,エジソンも,電球やダイナモのような大発明を最初につくった人物ではなかった.だが,それでもなお,およそ解決すべき問題を不気味なまでに解決してグイグイ進んでゆくおそるべき力の持ち主だった.

エジソンと彼のラボのどこがどう偉大だったのかよくよく考えてみるにつけ,はたして今のアメリカやイギリスのような先進国に,エジソンのような能力をもった人物が成功するのを可能にする科学的な制度があるのか,定かでなくなる.

科学研究にさまざまな規制がかかっているために,エジソンがやった仕事の多くは,今日では困難だったり違法だったりしそうだ.だが,そうした現在の制度をあらためて,このうえなく構想力があるさまざまなエンジニア・科学者・基本技術開発者(テクニカル・ファウンダー)が,もっと懐が深く効果的な規制環境で実験できるようにするのは,可能かもしれない.そのための助けになりそうな案が2つある.

第一に,リスク許容度や規制環境がさまざまに異なる国外の各地を利用して,しかるべきアイディアや技能をもつ才能あるエンジニアたちを送り出すやり方がある.合衆国やドイツのような国は,世界でも最良のエンジニアたちを大量に育成しているが,そのエンジニアたちが送り出される国内産業では,規制によって,エジソンがやったような新規性や規模にいくらかでも近いものを夢想することもしばしば阻まれている.海外に送り出すエンジニアたちを増やすのは,1900年代序盤の MIT の歴史の一ページと似たところがある.MIT は,ボストンでエンジニアたちを育成し,そのエンジニアたちの多くはボストンその他の都市にとどまった.だが,MIT といえば,とりわけ冒険心に富んだエンジニアたちの多くを卒業時に西部に放出することでも知られていた.西部に向かったエンジニアたちは,急拡大しつつもアメリカ国内でもまだまだ人口のまばらな地域で,さまざまな産業の営みを新たに始め,鉄道を敷設する仕事に取り組んだ.大半が大自然のままでなにもない広大な国土にさまざまなモノを建設しあちらこちらをつなげるという挑戦は,なんとも魅力的な工学的課題だった.実際にやってみることで覚えるというアメリカらしいやりかたの歴史書ともいうべき著書 From Know-How to Nowhere のなかで,エルティング・モリソンは,初期の鉄道エンジニアたちに聞き取り調査をしつつ,彼らの考えを記述している.そこには,こういうタイプのエンジニアたちの精神がうまく言い表されている:

とある午後に岬のさきっぽに立っていると,眼下には急峻な崖と次々押し寄せる波と曲がりくねった谷が見え,それらが劇的な構図による一幅の絵画をつくっていた.およそ,こんなところに機関車を走らせようなどとは思いもしないだろう場所だった.感嘆と興味の感情にはさまれつつ.彼は帽子を放り投げつつ虚空に叫んだ.「エンジニアリングをやるのに絶好の場所だな!」 それから,偉大なアメリカ人エンジニアたちにとって,「〔ここで機関車を走らせる場合の〕メンテナンスの作業が嫌なものだということ」を説明したうえで,彼はこう続けた.「おなじみの環境で鉄道建設の手順をたんに繰り返すだけの仕事は,手練れの職人がやる仕事だが,しかし,ロシアや南米のような風変わりで難しい土地でそういう建設手順をうまく応用するのは実に満足の大きなものだ.」

どこか特定の先進国のしかるべき場面ではしかじかの特定の問題が解決済みだからといって,その解決法が他の土地や場面でもそっくりそのまま使えるわけではない.いろんな国それぞれで,制約はちがっている(天候・地形・労働コスト・素材の入手しやすさ・政府の維持管理能力と財政などなど).そうしたさまざまな制約は,新たなエンジニアリングの解決法を必要とする.そして,しかじかの部門・分野がその国ではまだまだ発展途上の段階にあるとき,エジソンがやらざるをえずしてやったようになにかをまるごと一揃い発明・開発する試みに対して,おうおうにして政府や関連当局ははるかに友好的にこれを歓迎する姿勢をとる.このため,アメリカのような国では解決済みだと考えられている特定の問題にこれまでにない新規なエンジニアリングの解決法を必要としている国・場所は,ある部門・分野での技術革新にはずみをつけるすばらしい「サンドボックス」〔失敗をおそれずにあれこれと試してみる場〕になりうる.

私が提案する2つ目のアイディアもこれと同様で,「アメリカのような国は,実験のための経済地域を設置する手があるかもしれない」というものだ――経済特区と似たようなものをつくって,そこで技術研究や技術実験のためにさまざまに異なる規制体制を設ける.よく知られているように,インドや中国のような国は経済特区を設けている――多くの外国資本の会社も多く含めて,そうした経済特区内の企業は,国内の通常の規制とは異なる規制条項の枠内で,才能ある人材を集めたり特定産業を育むことができる.これと同じツールを利用して,野心的な工学的計画の技術的な探索をもっとしばりの少ない状態で進められる.これならば,才能ある人々がのびのびと頭脳を活かせるように海外に送り出す必要はない.エジソンとそのチームには,メンローパークの芝生をマンハッタン南部の電気照明地域の 1/3スケール模型に変えてしまう自由があった.もしかすると,一般市民の安全を確保するのに十分な距離をとった地域を用意して,エンジニアたちや科学者たちの合意をえて,このようなもっと野心的な仕事の契約を結べるようにするのが,私たちにとっての答えとなるかもしれない.

エジソンが描いていたような大規模で実現可能な夢を見たいとのぞむなら,エジソンと同じような真の実験環境を野心あるエンジニア・科学者たちにもたらす方法を見つけ出すのは,必要不可欠だ.きっと,私たちの時代にも,少数ながらもエジソンと似たような人々はどこかにいるはずだ.だが,彼らの能力を発揮できる規制環境がなくては,おそらく,現代のエジソンは現れないだろう.

もしかすると,いまの私たちにのぞみうる最大限は,当該分野でそれまでになされた発明・革新をこえる2~3の技術革新を追求する新たな技術系企業1つ程度なのかもしれない.100の革新ができてもいいところで,2~3がいまの私たちの限度だろう.


エリック・ギリアムは,20世紀のさまざまな研究組織がどう運営されていたかを研究して,Good Science Project で今日の研究環境を改善することに取り組んでいる.Twitter (X)のアカウントはこちら

[原文: Eric Gilliam , “Thomas Edison, tinkerer“, Works in Progress, May 23, 2023. Translation by optical_frog]

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