●Scott Sumner, “What does it mean to admire someone?”(TheMoneyIllusion, February 15, 2015)
実にひどい日曜日だ。あと18インチ(≒46cm)も雪かきをしなければいけない――それに加えて、風も強くて、極寒で、屋根が凍結しているせいで水漏れがして、と問題が山積している――のだが、休憩がてらにタイラー・コーエンの最近のエントリー〔拙訳はこちら〕に便乗させてもらうとしよう。「存命中の人物の中で、あなたが一番に称賛したいと思うのは誰?」というのがコーエンが投げかけている問いなわけだが、「誰かを讃える」というのはどういう意味なのだろう? 「誰か」というのはどういう意味なのだろう?
「私」の腕だとか、「私」の腎臓だとか、「私」の左足だとかと言われる。「私」なるものが存在していて、それが腕だとか腎臓だとか左足だとかを所有しているかのように語られる。話は、体のパーツ(部位)だけに限られない。手で触れることのできない属性にしてもそうだ。例えば、ポール・クルーグマンの鋭敏な分析力。トム・クルーズのカリスマ性。ラッセル・ウェストブルックの身体能力(運動神経)。私の記憶。私の意識などなど。あれやこれやのすべてを所有する「核となる人格」が存在するかのように語られるが、果たしてそうだろうか? 一人ひとりの人間というのは、色んな属性の寄せ集めでしかないように思えるのだ。どこまでが「スコット・サムナー」で、どこからが「スコット・サムナーならざるもの」なのかもはっきりしない。歯の詰め物は、私の一部なのだろうか? もしも義肢をはめていたとしたら、義肢はどうなのだろうか? 私の一部なのだろうか? そう遠くないうちに脳にマイクロチップが埋め込まれるかもしれない。そのマイクロチップは、私の一部なのだろうか? 着ている服はどうなのだろうか?
コーエンの問いかけに対する読者の反応を眺めていて気になったことがある。称賛の対象になりやすい属性とそうじゃない属性があるようなのだ。芸術やスポーツの分野で秀でている人物は、称賛の対象になりにくいようなのだ。称賛するのに些か(いささか)の抵抗を感じてしまうようなのだ。その一方で、「勇気」があったり「勤勉」だったりする人物は、称賛の対象になりやすいようなのだ。なぜなのだろう? 芸術やスポーツの分野で秀でているのは遺伝によるところがある一方で、「勇気」とか「勤勉さ」とかいうのは自己犠牲を払わないと身に付かない属性だから? 「勇気」にしても「勤勉さ」にしても、遺伝によるところがあるかもしれないというのに。
他にも気になったことがある。謎めいているほど、讃(たた)えたくなる気持ちが強まるようなのだ。逆に言うと、謎めいたところが少ないほど、讃えたくなる気持ちが弱まるようなのだ。普通の人からすると、稀代の善人(例えば、ガンジー)や稀代の悪漢(例えば、ヒトラー)の行動には謎めいたところがあるように感じられるが、心のどこかでそうあって(謎めいていて)ほしいと願っているだけなんじゃないか。「すべてを理解することは、すべてを許すこと」(“to understand all is to forgive all”)という格言がある。ヒトラーが何を感じていたかを悉く(ことごとく)理解できるようになりたいと思う人なんていないだろう。ヒトラーを許したくないからだ。悪人への理解が深まるほど、その悪さが褪(あ)せて見える――あるいは、善人への理解が深まるほど、その良さが褪せて見える――というのは、筋が通らないところがある。それは確かなのだが、多くの人にはそう思えてしまうのだ。
つむじ曲がりな言い分と受け止められるかもしれないが、自由意志の存在なんて信じていないというのに、善人を褒めて悪人を貶(けな)すべしというのが私の考えだ。それもこれも、「人はインセンティブに反応する」からだ。善い行いをする人を褒めて(称賛という名の非金銭的なインセンティブをエサにして)、善い行いをさらに引き出そうというわけだ。トム・クルーズに張り切ってもらう(カリスマ性をさらに磨いてもらう)よりも、アウンサンスーチーに張り切ってもらいたい(ミャンマーに自由をもたらすために励んでもらいたい)というのが多くの人の本音なのだとしたら、アウンサンスーチーのような英雄を讃えようとするのも一理あることになる。芸術やスポーツのような「皮相的」に見える活動を鑑賞して得られる喜びが過小評価されているとも言えるかもしれないけれど。
興味がある人がいるかどうかわからないが、私が讃えたいと思う人物を以下に列挙するとしよう。大きく二つのカテゴリーに分けたいと思う。最初のカテゴリーに名を連ねるのは、命の危険も顧(かえり)みずに古典的自由主義のために戦うことを選んだ英雄だ。
次のカテゴリーに名を連ねるのは、その特別な才能(ないしは属性)に対して称賛を送りたい人物たちだ。我ながら意外なのだが、科学者は一人も選ばれていない。経済学者も一人しか選ばれていないし、その一人にしても経済学の分野での功績が理由で選んだわけじゃない。アインシュタインが今も生きていたとしたら選んだかもしれない。科学者が一人も選ばれていないのは、私が現代科学に大して詳しくないというのもある。このカテゴリーの中で真っ先に讃えたいのは、アーティストたちだ(妻を裏切って浮気をしてたりしないかどうかというような「裏の顔」は考慮に入れていない)。神秘的な雰囲気を纏(まと)った作品なり功績なりを残している人物たちだ。さっきの議論を思い出してもらいたいが、謎めいていると讃えたくなるのだ。作品から神秘のベールが剝(は)がされると、その作品から真の意味が取り去られてしまうかのように感じられてしまうのだ。
ミュージシャン:ボブ・ディラン。音楽よりも文学とか視覚芸術 (ビジュアルアート)とかの方が好きなのだが、存命中のアーティストの中でボブ・ディランが一番のお気に入りだ。彼が25歳までの間に発表した作品の数々は、私には難解に思える。私が音楽にそんなに詳しくないせいかもしれない。コメント欄でディランの作品を包む神秘のベールを剥(は)ぐような真似だけはしないでいただきたいと思う。
作家:カール・オーヴェ・クナウスゴール、村上春樹、オルハン・パムク
アスリート:カリーム・アブドゥル=ジャバー、ラッセル・ウェストブルック、ヤニス・アデトクンボ
知識人:「彼」は、「情報狂」(infovore)だ。何でも読むし、どんな音楽だって聞くし、どこにだって旅行する。我々のような常人が必死になって理解しようと苦心しているこの世界をまるで(太陽神の)アポロンのように悠々と眺め下ろしている。「彼」は、経済学者だ。ブロガーでもある。私の上司でもある。「彼」が誰だかわかるだろうか? [1] 訳注;答えはこの人。
実業家:讃えたいと思えるビジネスリーダーはいない。あえて挙げるなら、イーロン・マスクくらいだろうか。
政治家:誰も思いつかない。
善人:ママ(母親)、元同僚のテッド・ウッドラフ
(追記)ブロガーの中からも選ぼうと思えば選べるが、名前を挙げるのはやめておいた。どこで区切りをつけたらいいかわからないからだ。