(人種差別に向き合えない「白人の脆さ」がテーマになっている)以下の論文 [1]訳注;論文の著者は、ロビン・ディアンジェロ(Robin DiAngelo)。 … Continue readingは、既にお読みになったでしょうか?
http://libjournal.uncg.edu/ijcp/article/view/249この論文はダメでしょうか? ダメなのだとしたら、どこがどうダメでしょうか? 経済学にも批判的人種理論にも同じくらい興味を持っていて、どちらも突っ込んで勉強しようと思っている大学新入生の知的好奇心を掻き立てるように説明するとしたら、この論文のどこがどうダメなのかをどんなふうにして語って聞かせるでしょうか? この問いは、 「社会正義を志向する学術研究全般のどこがどう望ましくないのか?」というもっと大きな問いにもつながってきます。貴殿がこの件についてどっちとも取れる曖昧な感じで触れているのは何度も目にしたことがありますが、この件に真正面からぶつかって本音を吐露しているのを見たことがありません。
・・・というメールを頂戴した。学術研究に限定して私見を述べるのではなく、社会正義のために闘う「正義の味方」全般を対象にするとしよう。まず真っ先に指摘しておくと、私は「正義の味方」の味方だ。「正義の味方」の全面的な支持者なのだ。ただし、私が味方するのは、「正義の味方」と呼ぶにふさわしい相手に限られる。二点ほど指摘しておかねばなるまい。
1. 私であれば、「正義の味方」と呼ばれている人たちの多くには、お菓子屋さんの運営を任せないだろう。次なる聖戦の指揮を任せるかというと、なおさら信頼が置けない。
2. 多くの「正義の味方」は、社会正義の実現――というのが何を意味するかは、人それぞれだろう――に向けて懸命になるよりも、誰かしらを叩いたり、誰かしらを要注意人物に指名したり、誰かしらが公の場で発言する機会を奪ったりする――あるいは、誰かしらについて愚痴を言う――のに重きを置いているように思える。申し訳ないけれど、社会正義の実現に向けた真の闘争の多くでは、何かを新たに作り出す必要があるのだ。
というわけで、社会正義を実現するためにあまり役に立たないタイプの「正義の味方」を論破するために自分のエネルギーを浪費しちゃいけない。そんなことしても何の得にもならない。誰かが論破役を務める必要があるのかもしれないが、秀でた才能の持ち主がすることじゃない――少なくとも、やるべきことじゃない――のは疑いない。
どういう世界観の持ち主であろうと、根っからの悲観主義者であろうと、決定論の信者の一人であろうと、保守派の一人であろうと、反動主義的な思想の持ち主であろうと、何らかの「解放」を目指して取り組む意欲を持つべきである。ただし、対立している陣営のどちらかが必ず「解放」派に括(くく)られるって言いたいわけではないし、 大半の争点は「われら vs 奴ら」(解放派 vs 抵抗派)という図式に収まるって言いたいわけでもない。自分がやっていることが正しいのかどうか自信が持てないようなら、こう問うてみたらいい。何かを新たに作り上げてるだろうか? その「何か」というのは、構造かもしれない。制度かもしれない。あるいは、アイデアだったり、提案だったり、手法だったりするかもしれない。
「何かを新たに作り上げてるだろうか?」という問いに、いつでもはっきりとした答えが出せるとは限らないかもしれない。でも、「何かを新たに作り上げてるだろうか?」と自問自答していたら、ずっと優れた別の問いに辿り着ける可能性が大いにあるのだ。
〔原文:“What is wrong with social justice warriors?”(Marginal Revolution, March 22, 2019)〕
References
↑1 | 訳注;論文の著者は、ロビン・ディアンジェロ(Robin DiAngelo)。 ディアンジェロは、同じテーマで本を書いていて、その本は邦訳もされている。以下がそれ。 ●ロビン・ディアンジェロ(著)/ 貴堂 嘉之(監修)・ 上田 勢子(訳)『ホワイト・フラジリティ:私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか? 』(明石書店、2021年) |
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