ジョセフ・ヒース「『平等と公平の違い』というミームイラストを哲学者が嫌う理由」(2025年4月15日)

このなんてことないイラストは、過去半世紀にわたって平等や社会正義を巡る哲学の議論が達成しようとしてきたことの、ほとんど全てが台無しになってしまったことを示している

あなたのお気に入りの哲学者を困らせたいなら、最近だと一番良い方法は、箱の上に乗った子どもたちのイラスト(「平等と公平」ミーム)を見せることだ。これを哲学者の苦しみの種というのは言い過ぎかもしれないが、哲学者の仕事を楽にしてくれないのは確かである。

哲学者のほとんどはこのイラストを見たことがあるが、それ以上に重要なのは、学生はみなこのイラストを見たことがあるということだ。それだけでなく、学生たちはこのイラストを持ち出せば議論を完全に打ち切れると考えている。学生らに言わせると、このイラストは「公平性(equity)」の正確かつ議論の余地ない定義を示しており、「平等(equality)」という道徳的理念を決定的に打ち負かしているのだという。そうすると、哲学者たちが未だに平等というテーマについて論ずべき問題があると考えている事態は、非常に謎めていて見えるだろう。

哲学者にとっては残念なことに、このなんてことないイラストは、過去半世紀にわたって平等や社会正義を巡る哲学の議論が達成しようとしてきたことの、ほとんど全てが台無しになってしまったことを示している(理性とソーシャル・メディアが戦えば理性が常に負ける、という仮説を支持する新たな証拠として加えられるだろう)。実際、このイラストにおける「公平性」の概念の不適切さこそ、1970年代以降哲学の中心となった平等主義を巡る大論争の出発点だったと言っても過言ではない。

そのため学生がこのミームを持ち出すと(学生はみな揃ってそうするのだ)、きちんとした哲学者なら、それのどこが間違っているかを説明せざるを得なくなる。こうして哲学者は、学生から「間違った考えを持っている」と疑われることになる。というのも、誰もが知るように、このミームにおける「公平性(equity)」はDEI(多様性、公平性、包摂)のEであるからだ。それゆえ、もしこの公平性概念に賛同しないなら、お前はDEIに反対するトランプ支持者なんだな、ということになってしまう。

このミームはそもそも、「機会の平等」と「結果の平等」の区別を示すことを意図して描かれたものだ。これは、1960年代後半まで(つまり1971年にジョン・ロールズの『正義論』が刊行されるまで)人々が平等の問題についてどう考えていたかをよく捉えている。その後ほとんど誰もが、機会/結果の区別は有益でもないし一貫してもいない、と認めるようになった。真に重要な問いは、どんな場合(when)に平等化すべきかではなく、何(what)を平等化しようとするか、である(哲学の業界用語で言えば、この「何を」というのは「被平等化項(equalisandum)」、すなわち「平等化される対象」を指している)。「何の平等か?(equality of what?)」を巡る膨大で込み入った論争は、過去数十年の間、主要な論者たちの関心を占めてきた。これは基本的に、正義の理論にとって適切な被平等化項とは何かを巡る論争であった。

この「何の平等か」という問いは、機会/結果の区別を包含するものと広く見なされている。機会や結果の観点で表現できるものならなんでも、被平等化項の違いとしてより明確に表現できるからだ。例えば上のミームは、「箱を平等にすること」と「観客の満足度を平等化すること」の区別を表現していると理解でき、この場合、それはもはや結果の平等〔と機会の平等の違い〕の話ではない。以上のことから、このミームには即座に指摘できる問題点が2つある。第1に、このミームは「公平性」という語を濫用しており、第2に、このミームが表現しようとしている「結果の平等」の考え方は時代遅れである。これらを順に取り上げよう。

1. 公平性(equity)のミスリーディングな定義

このミームの最も明白な問題点は、「公平性」という語の広く受け入れられている定義を用いず、規約的定義(stipulative redefinition)を行っており、その規約的定義がこの語の歴史的な用法と上手く対応していないことだ。既に述べたように、このイラストはそもそも、機会の平等と結果の平等の対照性を示すために描かれたものだった。その後、何度も何度もコピーされる中で、誰かが文言を変更し、やがて「結果の平等」は「公平性」と呼ぶべきだという考えが定着した。その結果、学生の多くがこのイラストを「平等」概念への批判と捉えているという事実に哲学者が困惑するという事態が生じることとなった。このイラストは実際には、平等に関する特定の見解を支持するために描かれたものだからだ。

伝統的に、「公平性」という語は「平等」という語に比べてそれほど厳密に意味が定められてこなかった。普遍的に受け入れられている定義はないが、厳格な平等よりもやや緩い基準を示す語として用いられることが多い。特に、様々な種類の財を人々にどう分配すべきかという複雑な問題において、全員が全ての財を正確に同じ量受け取るような分配を「平等」と呼ぶのに対し、各人の受け取る財の種類や量の組み合わせは異なるが、それらが(何らかの意味で)同じ価値であると言えるような分配を「公平(equitable)」と呼ぶことがある(例えばここを参照)。

この良い例(そして恐らく、DEI以外の文脈で「公平性(equity)」という語が最もよく使われている領域)は、「ペイ・エクイティ(pay equity)」だ。ペイ・エクイティ政策の目標は、「等しい価値の労働に等しい報酬を」という形で表現されることが多い。この議論が巧みなのはもちろん、全ての仕事が等しい価値を持つわけではなく、等しい価値を持たない仕事には等しい報酬が支払われると期待すべきではない、としているところにある。「公平性」という語は、この緩い基準(平等からの一定の逸脱を正当化可能とする)を指すものとして持ち出されている。そうすることで、報酬が異なっているとしても、それは平等ではないが公平だと言うことができるのである。

私の推測では、DEIの思想が形成された当初、人々はまさに、この緩さを持つために「公平性」という語に惹きつけられていったのではないだろうか。様々な人々がいる(つまり多様性がある)以上、完全な平等を期待すべきではなく、公平性のみを期待すべきだ。ことによると、このミームイラストに修正を加えた人が考えていたのはこういうことだったのかもしれない(箱を子どもたちにどう分配するかは、子どもたちの異なる特徴に対応させるべきだ、と示そうとしたのだろう)。だが残念なことに、このミームは、より緩い基準を導入するのではなく、極度に厳格で議論の余地ある平等の捉え方(つまり結果の平等)へとDEIの支持者を導くという結果になってしまった。理に適った人で、これを一般原理として実際に支持する人はいない。さらにこのミームは、それを議論によってではなく、説得的定義(persuasive definition)のみを通じて実現してしまっている。

2. 「何の平等か?」論争

こうした用語法の問題を脇において、結果の平等という考え方それ自体に焦点を当てるとしよう。次なる大問題は、DEIの支持者たちがこのミームに導かれて、左翼哲学者の擁護する最も左翼的な見解よりもさらに左翼的な平等の捉え方を受け入れるようになってしまったことだ。実際、「何の平等か?」論争に参加した理論家たちの大きな目的の1つは、公の議論でよく持ち出される平等の捉え方(このミームはそれを上手く捉えている)があまりに単純で、明白な反論を招くので、そうした反論を避ける仕方で平等主義を再定式化しよう、というものだった。

「何の平等か?」論争は、現代政治哲学におけるほとんどの議論と同様、ロールズの『正義論』によって引き起こされたものだ。ロールズはこの本で、国家の目的は幸福を最大化することであるべきだと主張する功利主義に反論した。ロールズが功利主義に対して行った様々な反論の中でもとりわけ重要なのが、「幸福の最大化は、幸福がどう分配されるかに注意を払っておらず、それゆえ極端な不平等に反対できない」という議論だ。ロールズは、平等な分配を望ましいものとするような正義の理論を擁護しようとした。

そうするための1つの方法は、功利計算を修正し、より平等な幸福の分配を支持するよう功利主義に変更を施すことだ。だがロールズはその道をとらず、正義の理論は「幸福」を焦点に据えるべきだという考え自体に異論を唱えた。ロールズの考えでは、正義とは協力の便益と負担の分配に関わるものであり、幸福は協力の直接の産物ではない〔そのため正義の理論が直接に扱う対象ではない〕。問題は、人々が様々な善の構想に沿って自身の人生計画を立て、そうした人生計画の成功度合いによって、幸福の実現度が大部分決まることだ。そのため「社会」が人々の幸福〔それ自体〕を気にかけるべきだというのは間違っているように思える。幸福は、個人の決定に委ねられている部分が大きすぎるからだ。正義の理論は、人々の持つ人生計画のアウトプットではなく、そのインプット、すなわち、人生計画を実行するために必要となる種々の自由や財に焦点を当てるべきだ、とロールズは論じている。

そのためロールズは、正義の理論における「期待の基盤」は、「基本財」と彼が呼ぶもののリスト(最も重要なものとして、所得や富が含まれる)であるべきだと主張した。ロールズはこれを1段落か2段落で述べているだけだが、このアイデアはその後ロナルド・ドウォーキンによって取り上げられ、詳細に展開された。ドウォーキンは、平等主義的な正義の理論は幸福に焦点を当てるべきではない、と主張した。なぜなら、人々は自身の幸福度に影響するような選択をあまりにたくさん行っているからだ。ドウォーキンが挙げる中でも特に説得的なのは、高級ワインを好むような嗜好を自ら育んだために、普通のヴィンテージ・ワインでは満足できなくなってしまった人の例だ。この人の幸福度を、舌の肥えていない酒飲みと同じくらいの水準に引き上げるため、社会はワインに大きな予算を割かなければならない、というのはバカげているように思われる。

ドウォーキンはこの議論に基づいて、「資源の平等」と「厚生の平等」(すなわち幸福の平等)とを区別し、平等主義者は資源の平等に焦点を当てるべきだと論じた。ドウォーキンによれば、その主たる理由はこうだ。資源に焦点を当てる平等主義は、社会的産物の公正な取り分を人々に与えるが、それによってどの程度の幸福度を実現するかに関しては、個人に責任を取らせることになる。そのため、2人の個人の結果に差が生まれたとしても、それが個人の選択の違いのみによって生じたものなら、平等に反しているとは言えない。不平等が問題となるのは、それが個人にコントロールできない「状況」の帰結として生じた場合だけだ。

この提案により、平等主義の分野で最も人気の理論が生み出されることとなった。これは「運の平等主義」という名前で知られている(よりフォーマルには「責任感応的平等主義」と呼ばれる)。基本的なアイデアはこうだ。社会は個人の不運を埋め合わせるべきである。個人が、自身のコントロールの外にある「状況」の結果として、他人より少ない取り分しか得られなくなってしまったなら、それは問題のあるタイプの不平等であり、是正すべきだ。G・A・コーエンはこの見解の最も強力な支持者の1人となった。コーエンがこの見解を支持した理由の1つは、それが右翼からのよくある反論を免れると考えていたからだ(コーエンの有名な文章を挙げておこう。「ドウォーキンは実質的に、反平等主義的な右派の武器庫の中の最も強力な観念(すなわち、選択と責任)を、平等主義の内部に組み込むという芸当をやってのけた」)。

この見解は多くの哲学者によって熱心に論じられた。こうした哲学者たちによれば、「選択」と「状況」の区別こそが平等主義の基礎的な正当化根拠であり、平等を気にかける最も基礎的な理由は、不運の影響を中和したいという欲求である。この見解によると、背の高い子どもから箱を取り上げて背の低い子どもに与えるべきだと判断する理由は、身長が個人の選択ではどうにもならない特性だからだ。背が低いことは、その子どもの責任ではない。この考え方は、全員が正確に同じ結果を得るべきだというもの〔結果の平等〕ではなく、個人には選択できないような差異によって結果に差が生まれるのを許すべきでない、というものだ。

この見解〔運の平等主義〕に同意しなくとも、それが〔結果の平等とは〕全く異なる平等の捉え方であることは理解できるはずだ。この観点からすると、「平等と公平」ミームの問題は、大昔に信用を失った平等論〔結果の平等〕をほじくり返していることだ。この〔結果の平等なる〕考え方は、個人間の結果の差が、個人の選択の差異によって生じている例を指摘するだけで、容易に退けられてしまう。運の平等主義が大きな熱狂を引き起こしたのは、私たちは今や平等について考える上での大きな誤りを克服し、もっと擁護しやすい平等の捉え方を手にすることができたという認識があったからだ。だがたった1つのミームで、平等を巡る議論は50年前の水準に戻ってしまったのである。

3. 現実の複雑さ

このイラストで取り上げられている分配的正義の問題は明らかに単純なものだが、同時にこのイラストは、〔そのような単純な状況に限られない〕様々な社会問題に対して含意を持たせようとしている。単純さそれ自体は問題ではない。良いモデルというのはどんなものであれ、現実を単純化して提示し、その重要な特徴を強調して、分析しやすいようにすることを目的としている。それゆえ問題は、「平等と公平」ミームが、DEIの文脈で出てくる類の分配的正義の問題を考える上で、有益なモデルを提示しているかどうかだ。私の思うに、平等主義の哲学者のほとんどは、これを悪いモデルと言うのではないだろうか。

最も明白な論点から取り上げよう。このイラストは、アファーマティブ・アクションの捉え方としては大変まずい。実際あまりにまずいので、案の定「レイシズム的」だという糾弾を受けている。このイラストにおける箱を、いわゆる「公平性が求められる集団(equity-deserving communities)」のメンバーが様々な競争において得られる下駄(extra bump)の比喩と解釈するなら、「背が低いこと」は何を意味しているのだろう? このイラストを拡散している殊勝な人々は間違いなく、それがなんらかの構造的な不利を表していると考えている。だが、大雑把な人たちがそれを「頭が悪いこと」の比喩だと考えるのをどう止められるだろうか。粗野な平等主義はときとして、その恩恵を受ける人々への侮辱となる。

このイラストにはもっと微妙な問題もある。20世紀の大論争のおかげで、哲学者も今ではこれらのことをハッキリと認識している。第1の問題は、このイラストで示されている分配の問題がゼロサムであることだ。箱は3つしかなく、背の低い子どもに箱を1つあげるためには、背の高い男性から箱を1つ取り上げないといけない。こうした状況は現実世界でも生じることがあるとはいえ、問題の多くはこのような構造をとっていない。現実の問題の多くは、(ロールズの言う)協力の便益と負担の分配という構造をとっている(協力は定義上、インタラクションをプラスサムにする)。これは強調しておくべき論点だ。多くの人はプラスサムのインタラクションをゼロサムだと誤解して、不必要に極端な道徳的立場をとってしまうからである。

第2に、箱はどこから来るのかという問題がある。このイラストで示されているのは、いわゆる「天からの恵み(manna from heaven)」的な考え方だ。箱はただそこにあって、不偏的な配分者がそれを分配するのを待っている。だが、これがテールゲート・パーティ [1]訳注:各人が食べ物や飲み物を持ち寄る形式のパーティ。 で、全員が自分の箱を持ち寄るものとされていたらどうだろう? この場合、背の高い男性が背の低い子どもに箱を譲るのは素敵なことだろうが、男性から箱を強制的に取り上げて子どもに与えれば、たくさんの異議を招くことになるだろう。これは経済的問題について考える際には非常に重要な論点だ。社会的な制度構造は、人々に富への請求権を与えることで社会的な富を生み出している部分があり、この事実が実現可能な再分配のあり方に制約を課すからである。

第3に、分配問題が1次元的だ。財は1つだけ(箱)なので、問題は箱をいかに分配すべきかでしかない。厚生主義者なら、社会もまた(幸福という)1つの次元の平等のみに関心を持つべきだ、と考えるだろう。だがロールズ-ドウォーキンの強力な批判を受けて、平等主義者たちは、様々な種類の財の組み合わせに関心を持つべきだと考えるようになった。これはそれ自体、問題を生み出す。とりわけ、多元的な社会では、人々が様々な財に与える評価は多様である。そうなると、何をもって平等の実現と言えるのかという問題に答えるのが(不可能とは言わずとも)非常に難しくなってくる(これを示す例としてよく挙げられるのは、遺産を金銭化しない形でいかに分配すべきかという問題だ)。

実はこの最後の論点によって、哲学者の間では平等主義の「分配」パラダイム全体に対するかなり悲観主義が生じた。社会が生み出す財の数はあまりに多い(例えば、所得や富だけでなく、健康や余暇もある)。分配問題を単純化するために、これらの財全てをまとめて単一の被平等化項にしようとすれば、極度に抽象的で計測が困難なものになってしまう(コーエンなら「利益へのアクセス(access to advantage)」、アマルティア・センなら、「達成可能な機能の集合」によって定義される「ケイパビリティ」、などなど)。これに対する代替案は、様々な財をまとめずにそのまま平等化することだが、この場合も多様性や多元性を扱う際にたくさんの問題が生じる。

平等主義者に突きつけられるこのジレンマを先鋭化させることは難しくない。今のところ、これに対する哲学的応答として一番人気なのは、分配的正義を実現するという企て全体を放棄し、個人間の「関係的平等(relational equality)」の実現に焦点を当てるというものだ。この考え方は、「平等と公平」ミームに対していっそうラディカルな批判を提起する。私たちは箱の分配それ自体、あるいは野球を観戦できるかどうかにすら関心を持つべきではなく、個人間に存在する関係の質に焦点を当てるべきだ、と言うのだから。これは新たな平等の捉え方を提示しているというより、テーマそのものを変更しようとする試みに見える(これまでのところ、関係的平等論は平等主義に伝統的につきまとっている問題のどれに関しても全く進歩をもたらしてこなかった。だが、今後どうなるかは分からない。いつか、誰かが、関係的平等がどう特定され、計測され、実現されるのかに関して有益なことを述べようと真剣になるかもしれない)。

4. きっぱりとした沈黙

過去十年間、北米の大学に吹き荒れていたDEIへの熱狂(カナダではまだ衰えていないように見える)の最も顕著な特徴の1つは、哲学者がこうした問題に関してきっぱりと沈黙を保っていることだ。実に驚くべきことだが、主要な問題のどれをとっても、DEIと哲学との関わり合いは非常に少ない。平等主義、多文化主義、フェミニズム、人種的正義といった問題が、私の研究者人生を通じて、政治哲学において論争されてきた最も重要な問題群であることを踏まえると、私の同僚(哲学者)たちがDEIを後押ししようとしてこなかったのは驚くべきことだ(最近見慣れない行動をとっている認識論者は除いて)。

哲学者がDEIに取り組もうとしてこなかっただけでなく、DEIの支持者も、こうした問題に関して過去1世紀の間に哲学者たちが行ってきた仕事をほぼ全て無視してきた。例えば、研究助成申請におけるDEIの表明としてSSHRCガイドラインを取り上げるとと、印象的なのは、そのリーディング・リストに哲学の文献が全く挙げられていないことだ。DEIの支持者たちは明らかに、多様性、公平性、包摂というテーマに関して、自分たちが勧めたいと思うような質の高い査読つきの哲学論文を1つとして見つけられていない。

その理由の一端は、哲学研究者のほとんどが、DEIの潮流と結びついた主要な考え方を実際には受け入れていないからではないかと私は思っている。「平等と公平」ミームは良い例だ。ああいう風に「公平性」が解釈されるなら、きちんとした政治哲学者なら誰でもDEIを支持することはできなくなる。それでも、誰もが知るように、DEIの議論は、正義や平等を推進する最良の方法について自分が持つ本当の見解を語る場だとは一般に考えられていない。こうして不幸にも、多くの哲学者が「沈黙こそ勇気」と考えるようになった。

とはいえそれも、学生がこのミームを持ってくるまでの話だ。そうなってしまえば、いくら臆病な人間でも何か言わざるを得なくなる。

追記:教育に関心がある読者や、関連する文献が読みたいという読者には、次の素晴らしい論文をオススメする(この論文を教えてくれたJim Boettcherに感謝)。Meira Levinson, Tatiana Geron and Harry Brighouse, “Conceptions of Educational Equity”

[Joseph Heath, Why philosophers hate that ‘equity’ meme, In Due Course, 2025/4/15.]

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1 訳注:各人が食べ物や飲み物を持ち寄る形式のパーティ。
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