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サイモン・レン=ルイス「新古典派対抗革命のあとにマクロ経済学の古いアイディアを学び直す」(2021年8月3日)

[Simon Wren-Lewis, “Relearning old ideas in macroeconomics after the New Classical Counter Revolution,” Mainly Macro, August 3, 2021]

Chris Dillow が書いた記事への補足として,今回の記事を書いている.Dillow はマクロ経済学について,2つの論点を述べている.これを理解するには,主流経済学と異端経済学の区別をおさえておく必要がある.両者の線引きを定義するのは難しい(これを試みて論文や書籍の章が書かれている).だが,いくらかの所見は述べられる.大学の学部に所属する経済学者の大半は主流で,異端系の経済学者たちはそれとはちがった各種学校の多くに属している.もう一点はなにかと言うと,異端系の経済学者たちがやっていることを,主流の経済学者たちがほぼ完全に無視している,ということだ.なお,「異端系の経済学者たちはみんな左派で,主流経済学者たちはそうではない」という見方は,事実と異なる.

Chris が述べている第一の論点はこういうものだ――異端経済学の多くは,何年も前に流行っていたマクロだ.第二の論点は主流に関するもので,彼によれば 1980年代に「大忘却」があったのではないかという.つまり,今日いかにも新しそうに言われている新しいアイディアは,しばらく忘れられていた古いアイディアが装いを新たにしただけのものなのではないか,と Chris は言っている.どちらの論点にも,いくらか妥当なところがあると思う.ここでは,どうしてこうなって,そして2つの論点がどう関連しているのかを解説したい.

大忘却の理由は,マクロ経済学で方法論の革命が起きたことにある.それが,《新古典派対抗革命》だ (the New Classical Counter Revolution; NCCR).当時,多くの人々はこの革命のひとつの側面に関心を集中させていた――当時の主流ケインジアン・マクロ経済学への攻撃という側面だ.この攻撃はかなりあっさりと失敗したが,その一方で,方法論の革命は長く残った.これは,マクロ経済学のミクロ的基礎と呼ばれることが多い.《新古典派対抗革命》については,ここで以前書いたことがある.

《新古典派対抗革命》以前のマクロは,ミクロ経済学とは別物の分野だった.マクロの主要理論であるケインジアン経済学は〔総需要や総供給などの〕総計の各種方程式で書けるものだったし,総計データを用いて推計できるものだった.だが,こうした理論は,ミクロ経済学の理論と関連づけるのが困難な場合があった.そうした理由も一部にあって,マクロにはさまざまな学派が集まっていて,しかも,ある「学派」を別の「学派」と関連づけるのは困難だった.《新古典派対抗革命》については,ここで書いておいた.

《新古典派対抗革命》では,こう主張された――「いかなるマクロモデルもミクロ経済学理論から導出されるべきであるし,それだけでなく,そのミクロの理論は一貫したかたちで用いられねばならない.」 マクロ経済学とミクロ経済学を統合することによって,とりわけ若手の経済学者たちに《新古典派対抗革命》は訴求した.《新古典派対抗革命》以前のケインジアン経済学のさまざまな知見をミクロにもとづくかたちで形式化できることにも,研究者たちはすぐに気づいた.こうして,主流経済学におけるミクロ的基礎の覇権が完成した.主流のマクロ経済学者たちの誰も彼もがそろって同じ言葉(ミクロ経済学)で語るようになると,当時存在していたさまざまな学派は,共通の理論枠組み内での各種パラメータ数値に関する信条に関連づけられるようになった(そうしたさまざまな信条は,イデオロギー面での好み・選好を反映していたのかもしれない).

主流マクロでこうして〔学派ごとの〕分断が減ったのは,統一に向けた重要な要因だ.《新古典派対抗革命》以前なら,自分とちがう学派の誰かがやっているマクロ経済学セミナーに出かけていっても,いったい何の話をしているのかほぼわからないこともあった.《新古典派対抗革命》以降は,ちがう学派のセミナーに参加しても,その人たちがなんについて語っているのか正確にわかるし,その人たちの研究についてコメントだってできる.そのうえで,「この研究は現実世界とあまり関連がないな」と考えてすませられる.

《新古典派対抗革命》のマイナス面として,Dillow が言う「大忘却」につながったことが挙げられる.人によっては,《新古典派対抗革命》がマクロ経済学元年だったと見る向きもあって,この人たちにとって,それ以前の話は(ミクロ的基礎の覇権の外にあったものは)なにもかも,ほぼ興味の埒外になっていたりする.私にとって苦い事例は,ここで述べた.均衡為替レートに関する John Williamson の FEER モデルを応用する研究を,私はかつて大いにやっていた.そうした研究では,ミクロ的基礎の各種技法を用いている.このアプローチは,Obsfeld & Rogoff により再発見され,彼らもミクロ的基礎をもつモデルを用いた(「新しい開放経済」アプローチといって,これは不完全競争のミクロ的基礎を国際貿易に応用した).これはよかったのだが,私が知るかぎり,Obstfeld & Rogoff は John Williamson に端を発するそれまでの研究文献にまったく言及しなかった.これは,大忘却の完璧な事例だ.

どんな研究分野でも,〔それまでの研究の蓄積をリセットする〕「○○元年」は悪しき発想だ.ここでの私の見解は,これまで何度となく述べた持論を反映している:つまり,ミクロ的基礎はよいのだが,ミクロ的基礎の覇権はよろしくない.ここでいう「覇権」とは,他のマクロ経済研究を時代遅れでトップ学術誌に掲載する値打ちナシと考えることを言う.経済学者たちのなかには,もっと強固な反応をして,主流の外にいる異端派経済学を選んだ人たちもいる.そうした人たちにしてみれば,マクロ経済学のなかでミクロ経済学がこれほど中心的な役割を占めているのが分不相応に感じられていたり,あるいは,マクロをミクロで基礎づけることに意義はないと感じられていたりするのだ.おそらく,《新古典派対抗革命》以後,そうした経済学者たちが主流に乗ってゆくのは不可能ではないとしてもいっそう難しくなったと言っても,差し支えないだろう.

これに似た論点を,Dillow が述べている.異端派経済学で言われていることの多くは,Dillow が《新古典派対抗革命》以前に学んでいたことだ,というのがそれだ.この所見は,異端派経済学者たちを中傷するものではなく,むしろ,彼らがやっていることの一部は《新古典派対抗革命》以前のマクロの継続だという註記だ.

その好例は,MMT〔現代貨幣理論〕に見つかる.MMT で鍵になっているアイディアはこういうものだ――「どんなときにも(金利が下限にあるときにかぎらず),マクロ経済の安定化には金融政策ではなく財政政策を用いるべきだ.」 ここには,1960年代から1970年代中盤にかけてイギリスでマクロ政策がどう運営されたかが映し出されている.この論は主流内部でも主張可能だ(もっとも主流の経済学者たちの大半は賛同しないだろうけども).だが,MMT の経済学者たちはそうしたいとのぞまないだろうと思う.

とはいえ,《新古典派対抗革命》によって異端派経済学が生み出されたわけではない.1970年代序盤にケンブリッジで研究していた頃の記憶では,異端派経済学は「新古典派経済学」を拒絶した研究だった.ごく単純に言うと,新古典派経済学とは,完全市場において,効用をできるだけ大きくする消費者たちと,利益をできるだけ大きくする生産者たちとが,どのように相互作用するのか〔という研究〕だ(「完全市場」の「完全」とは,同じ製品の生産者と消費者が大勢いるために誰ひとりとして市場価格を決める力をもたないという意味だ).Chris が述べているように,この理論からは,人々がそれぞれの「限界生産物」を支払われることが含意される.

今日,主流派経済学者たちに「新古典派経済学が妥当だと仮定して議論を進めますか」と尋ねたなら,きっと大半の人は笑って返すだろう.私が繰り返し言っているように,今日の経済学の多くは,完全からほど遠い市場の研究にたずさわっている.(完全市場が(およびこれに関連した最適性の各種条件が)参照点として有用か誤解の元かについて議論を交わせば,キリがない.) また,経済学は市場とその各種の不完全の研究から大きく進んで,たとえばゲーム理論や行動経済学なども含まれるようになっている.そうした現状があってもなお,右派の経済学者たちは都合がいいときに新古典派経済学のアイディアを用い続けている.

今日のミクロ経済学には,もうひとつ特徴がある.それは,実証分析が優勢になっていることだ.一般均衡の性質に関する高度に数理的な証明がミクロ経済学の最高峰だった時代は,遠く過ぎ去った.

だが,いまや我々はマクロの《新古典派対抗革命》にもどる必要がある.《新古典派対抗革命》の提唱者たちがマクロ経済学の再編に使ったミクロ経済学は,本質的に,ミクロ経済学者たちが同時期に推進していた新古典派経済学だった.ニューケインジアン経済学者たちは,一種の不完全競争を DSGE モデルにもちこんで,価格・賃金の硬直性の定式化を可能にした.だが,基本的な DSGE モデルがかなり新古典派的なミクロ的基礎にもとづいている点に変わりはない.(この点をとりわけ明快に論じたを Athreya が書いている.)

こうして見ると,異端派と主流派それぞれのマクロ経済学者たちの間に障壁があるさらなる理由がわかる.マクロ経済学が採用した新古典派経済学は,《新古典派対抗革命》以前,いまから数十年前に異端派経済学者たちが異論を唱えたものだった.

私個人の見方では,《新古典派対抗革命》以前のマクロはラカトシュが言う意味で進歩的だったと思う.その一方で,その覇権には正当な根拠がなかった.《新古典派対抗革命》以前のマクロで研究を進めて,私は世界について大いに学んだし,のちにミクロ的基礎から学んだこととその頃の知見は,折り重なるというよりも補完し合うものとなった.(どちらでも,私は論文をたっぷり出した.) いまの主流マクロ経済学は,ミクロにならって,いっそう実証的になる必要がある.その方法のひとつとして,《新古典派対抗革命》以前のモデル化のスタイルをよみがえらせる手もある.これには,個別の関係や下位システムの計量経済学研究も含まれるし,Chris が言及している構造経済学モデルの使用も含まれる(ブランシャールが言う「政策モデル」).こうしたモデルは,個別の関係や下位システムの理論研究と計量経済学研究の折衷だ.

この論文で述べているように,IMF や FRB のような政策機関がこの種の分析をいまなお大量にしている一方でトップ学術誌の主流マクロがほぼまったくやっていないのは懸念されるべきではある.この現状を見て「政策機関が時代遅れなのが反映されている」と言ったり「そうした分析は同定問題やルーカス批判ゆえの欠陥がある」と言ったりしてすませられる時代は過ぎ去った.主流の学術的マクロがこうした方向の研究に乗り出すつもりがなければ,一部の異端派経済学者たちがそれに取って代わりうるかもしれない.


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