デイビッド・アンドルファット「カレツキの『完全雇用の政治的側面』について」(2020年2月6日)

Kalecki on the Political Aspects of Full Employment, Macro Mania, dated February 6, 2020

Sam Levey は、カレツキの1943年の論文「完全雇用の政治的側面(the political aspects of full employment)」を私に思い出させてくれた。これはとても興味深く、示唆に富む論文である。〔ここに〕批評を提供するほど十分に、私はその論文を楽しく読んだ。

Michal Kalecki 1899 – 1970

論文は、カレツキが呼ぶところの「完全雇用ドクトリン」を所与のものとして扱うところから始まる。基本的な考えとしては、民間部門は放っておくとケインズ的な総需要の失敗に陥るというものだ(ゲーム理論による解釈はこちらを参照)。このような自然発生的な「協働の失敗」に対する救済策は、民間需要が低迷し始めたときに実施する、または実施する用意ができている、政府の支出プログラムになる。

カレツキは1943年にはそのように主張して論文を始め、ドクトリンは経済学者の間で広く受け入れられた。ドクトリンは自明の理であるとカレツキが考えていたことは、明白のようだ。

だが、もしそうであるのなら、これには問題がある。もしそのドクトリンが自明の理ならば、なぜ反対する経済学者がまだいるのだろうか?そして、もしこの考えがそんなにわかりきったことならば、なぜこんなに多くの「大企業家たち」が受け入れるのを渋るのだろうか?カレツキが認めるように(原文324頁目)、この反応は簡単には説明できない。なんだかんだ言ってもやはり、不況はビジネスにとって悪いことであり、集合としてのビジネスは経済を完全雇用に回復させる如何なる介入をも歓迎すべきである。

カレツキの見解では、問題は政治的なものである。〔知見が〕十分ではないとしても、ドクトリンを否定する「経済の専門家」は彼ら自身の理論を信じているが、「頑冥不霊は通常、政治的な動機が内在していることを表している」とカレツキは述べている。カレツキはこの内在する政治的動機が何なのかはっきり述べていないが、これら「経済の専門家」は銀行業と産業に密接にかかわっていると言及している。しかし、もしそうであるならば、質問は、産業界にとって良いと分かっている介入を産業界のリーダーたちが阻止する動機はいったい何なのだろうかということになる。

カレツキは、以下の三つの理由をあげている [1]訳注:詳細はこちらの和訳も参照

1. 全雇用政策がないときは、〔民間企業の〕「信用状態(”state of confidence”)」が景気循環を生み出す。自由放任主義のもとでは、政府の政策を強力且つ間接的にコントロールするために、産業界のリーダーたちはこの事実を「説得力をもって」利用することができる。

2. 明らかに有益な公共部門の投資を支援することは、〔政府投資に〕歯止めが利かなくなる。政府は、民間企業と競争して、他の分野にも進出したいと考えるかもしれない。

3. 恒久的な完全雇用経済では、雇用者のためにある規律装置としての失業の脅威が消滅するこちらも参照)。また、上長の社会的地位が損なわれ、労働者階級の自己肯定感と階級意識が高まり、政治的不安定さを引き起こす。

これは何を意味するだろうか。さあ、私にはよくわからない。〔カレツキが挙げている〕第一の理由は、「ビジネスリーダーたち」は政治的権力を得るために不況の底を時折確かめようとすると主張している。この政治力がビジネスリーダーたちに何をもたらすかは、カレツキは実際には述べていない。それが何をもたらすにせよ、従来に近い方法でもっと安価に手に入れられないものかと私は疑問に思う。

第2の理由は、私には尤もらしく思えない。なぜ民間企業は自分たちの利益に直結するインフラ事業を支援しようとしないのか?例えば1956年の連邦道路法に対して、産業界の重大な反対があっただろうか?もしあったとしたら、プロジェクトが成功しすぎることを恐れて、政府が他の分野でもっと冒険的になることを助長する結果になるからだろうか?

第3の理由も、弱く思える。完全雇用のもとでは利益が高くなるが、「利益よりも『工場の規律』と『政治的安定』のほうがビジネスリーダーたちに評価される」とカレツキが述べてることは事実だ。まず、失業が規律装置になるという概念は、一定の低くとどまった失業率でなければ効かない(Shapiro and Stiglitz, AER 1984 “Equilibrium Unemployment as a Worker Discipline Device.” 批判に対する著者たちの回答はこちらを参照)。10年におよぶ大恐慌が「労働者の規律 」のために支払う代価というのは、恐ろしく高いと思う。そして、政治的安定の促進については、大恐慌や大不況のような出来事は政治的不安定を促進すると理解されていると私は思う(カレツキも論文の中でそう言及している)。

まとめると、カレツキは素晴らしい問いをしている。トータルでは、不況がないほうが我々は物質的には暮らしが良くなる。少なくとも原則として、重大な経済不況をどう防ぐかは我々は知っている(ここでは、標準的な「ちょっとした」景気循環のことを言っているのではない)。だがもしそうなら、なぜオバマ政権の景気刺激策といった介入は、諸方面であれほどの苦い反対を受けたのだろうか?そのことについて言えば、TARP(金融部門を安定化するための「ベイルアウト」プログラム)も、特にメインストリート [2]訳注:金融界ウォールストリートの対比語としての、実体経済。金融以外の一般市民が支えるビジネス。 から、声高な反対に遭った。これは本当にすべて「モラルハザード」を懸念したからだろうか?

もしかしたら、それらの介入が、どれほど論文上で素晴らしく聞こえても、実際には不相応な人に所得を再分配するだけの方法なのではないかと疑われているのかもしれない。先日、NPRで政治評論家が経済的・政治的な交渉では「交渉役として席についていないなら、あなたはその場のカモ」と言っているのを耳にした。この場合に必要なのは交渉テーブルでのより良いプレゼンの仕方というのは、言うは易しだと私は思う。どうするのがいいだろうか?いろんな意見を私は聞きたい。

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1 訳注:詳細はこちらの和訳も参照
2 訳注:金融界ウォールストリートの対比語としての、実体経済。金融以外の一般市民が支えるビジネス。
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