ビル・ミッチェル「MMTが論ずるのは『現実が何か』であって、『現実がどうあるべきか』ではない」(2017年4月20日)

Bill Mitchell, MMT is what is, not what might be, Bill Mitchell-billy blog, April 20, 2017

 

これまで定番のように書いてきたことの一つに、「MMTで世界は変わる」症候群とでもいうべき、読者や第二世代MMTブロガーが犯しがちな誤りがある。

あるいは「世の中を良くするために、原則をMMTに変える必要がある」症候群とも言えるだろうか。

MMTがレジームチェンジを求めているという考えは間違いで、そういう考え方ではMMTの核の問題意識から乖離してしまうことになる。

このブログ記事では、そういった症候群やMMTの考えの発展の様々な側面を俎上に上げているが、この作業によって、MMTの核の(初期の)研究者たち(Mosler, Bell/Kelton, Wray, Mitchell, Tcherneva, Fullwiler)が1990年代前半にマクロ経済学のより良い方法を構築に着手したときに抱いていた鮮明なアイデアを、読者たちに提供するのに役立ちたいと思っている。

ポイントは、

「MMTは、学問の世界における経済学の思考法のレジームチェンジではあるが、実際の金融システムの運用法のレジームチェンジというわけではない」

というところである。

『MMTが論ずるのは「現実が何か」ということであって、「現実がどうあるべきか」ではない』という事実を受け入れるためには、MMTの学術的研究によって明らかとなった政策運用上の原則と、MMTの思想的価値観をきちんと区別する必要がある。

私は最近、2001年に有名な進化生物学者エルンスト・マイヤーが書いた”What Evolution Is”という本を読んだ。マイヤーは彼の研究分野の創始者であり、現代における生物多様性の考え方に確実に大きな影響をもたらした。

彼は進化の世俗的な説明の強調に影響を及ぼした。 [1]ここでいう「世俗的な説明」は、「神話的な説明」(神が万物を創造したという神話に基づく説明)に対する対義語である 1999年のインタビューで、彼はこう質問された。

 

EDGE(オンラインマガジン)のインタビュアー: 科学者のコミュニティの多数の人々の持つダーウィニズムの影響にも拘わらず、あまりに多くの人々が神を畏怖し、”8日間の創造”を信じているというこの国の現実を、あなたはどう説明しますか?

マイヤー: その質問に対して”上品”な回答は出来ないということはおわかりでしょう。

インタビュアー: この場では、上品でない回答、配慮のない回答を歓迎しますよ。

マイヤー: 彼らは最近の女学生の集団をテストしただろうか? 彼らは「メキシコがどこにあるか」を質問しただろうか? あなたはほとんどの子供たちが「メキシコがどこにあるのか」を知らないということをご存知だろうか? 私はただ事実を描出するためにそう言っている……こういう発言をするのをお許し願いたいのだが、平均的なアメリカ人は、あらゆることに対して驚くほどに無知です。もし彼らがもっと情報を得たなら、どうして進化論を否定することができるでしょう? もし進化論を受け入れないなら、生物学上の事実のほとんどは意味不明になる。私は国全体がなぜここまで無知なのかは説明できませんが、事実として無知はそこにあるのです。

 

こうした洞察は私がマクロ経済学に対して抱いている考えとほとんど一緒だ。この論点には後にすぐに立ち戻る。

 

進化に関する彼の説明は興味深く、他のアイデアの発展の経路についても応用が利く。それには経済学のアイデアも含む。

ある意味, マイヤーの仕事は彼の分野において既存の権威ある学者たちからの反抗の後に「レジームチェンジ」を成し遂げたと言える。言い換えると、彼の進化に関する議論それ自体が、アイデアが発生して、「受容されない状態」から「広範に受容される状態」へと移行する経路そのものを辿ったと言えるのである。

マイヤーの研究に従えば、進化とは、新奇性のことであり、新種への変化である。そして、変化は蓄積するものだ。

我々の理解は、経時的プロセスにおいて、我々を袋小路に追いやったり、新しいアイデアが現実に対して試されたときに生まれる脱出路を覆い隠してしまったりする。

しかし、これらの認識上の「失敗」は重要だ。なぜなら、そうした間違った認識が関心事についての現実を理解するのに役に立たないとき、より優れた考え方で物事を観察できるようになるのに役立つ他の情報を供給してくれるからである。

経済学においては、私は主流派理論の大部分を「偽物の知識」を呼ぶようにしている。この点についてより詳しい議論を知りたい方は、The failure of economics-reality and language- という私の記事を読んでほしい。

主流派理論は、金融システムの運用方法を理解するのに役に立たない。主流派の説明やキャラクタリゼーションはただ明確に誤りである。そして体系的に一つの”神話”はリンクしていき、他の部分を「論理的だが無価値な一連の体系」へと補強・強化していくことになる。

しかし、正しく評価すればどうやっても「ただ明確に誤っている」と評するしかない主流派が、なぜ今日のような立場を得ているのだろうか?という疑問を持ったならば、その疑問への探求は洞察に満ちている。なぜならイデオロギー、そしてその思想が果たしている既存のパワーエリートを強化する役割についての世界に入っていくからである。

「自由市場」というコンセプトの採用が、エリートにとって実物資源と所得が得られるポジションの維持に役立っているのは明らかだ。

この話に関連して、The Nationに最近(March 6. 2017)載った興味深い記事…Our political economy is designed to create poverty and inequality がある。

故に、いかに主流派経済学が戯言めいているとしても、その”役割”を理解することは重要で、それによって、なぜ”より優れた”考えが 「思想競争」において優位性を獲得することに奮闘しなくてはならないことになっているのかが理解できるようになる。

そのような「思想競争」の例はたくさんある。

私は以前、アメリカ人生物学者のJoseph Altmanの奮闘について記述したことがある。

この点についてより深い議論を知りたいなら、私のブログのWhatever – its either employment or unemployment buffer stocks という記事をお読みいただきたい。

彼は神経生物学の専門家で、1960年代に成人のニューロン新生を発見した。彼は成人の脳が新しいニューロンを創造することを示したが、その考えはその当時強く拒絶された。

かの研究領域のパワーエリートたちは、新しいアイデアからの挑戦を受けた。

他の科学者(Elizabeth Gould, 1999年)がこれを”再発見”したことで、ようやく流行することになったのだ。ニューロン新生はいまや神経科学の最重要領域の一つとなっている。

なぜAltmanの発見は約30年もの間無視されてしまったのか?

2008年にExperimental Brain Researchに掲載されたThree before their time: neuroscientists whose ideas were ignored by their contemporaries という記事で、Charles Grossはこう書いている。

「…”ニューロン新生はない”というドグマは広範に保持され、当時最も有力で指導的な立場であった霊長類発達解剖学たちによって精力的に防衛された。」

既存主流派の支配権が脅威にさらされるとき、パラダイムは変化を拒否するのである。

以前、私はJacques Cinq-Marsについて調べたことがある。彼はフランス系カナダ人の考古学者で、”ユーコン川岸と岩陰遺跡における氷河期時代の狩猟者の痕跡”の調査のためのフィールドワークを行った人物だ。

彼は、1977年から1987年に北西カナダのBluefish Cavesで行った調査と、その後の分析により、2万4千年前からその地域に人類が生活していたことを立証した。

その発見は、当時の主流見解に挑戦するものであった。Clovis-First theoryと呼ばれる見解では人類が”アメリカ”に到達したのは1万3千年前ということになっていた。

Heather Pringleの最近(2017年3月7日)の記事 From Vilified to Vindicated: the Story of Jacques Cinq-Mars は、この論争についての分かりやすい紹介をしてくれている。

2013年の3月、Natureの社説 Yong Americansは、Cinq-Marsが彼の発見を公表し、”あらゆる科学の中で最も辛辣で、そして非生産的な論争の一つ”の導火線に火をつけたとき、何が起きたかについて描写している。Cinq-Marsは:

「論争相手たちからの酷い批判に耐えなくてはならなかった。彼らは彼の言うことや彼の証拠を公平に聞こうとはしなかった。Clovis以前の史跡の報告に対抗してClovis-first modelを支援した科学者たちは、学識不足の見本のようだった。」

Cinq-Marsが研究による発見を公表したときに、彼が学術界から受けた批判と圧力を、Heather Pringleが次のように描写している。

「Cinq-Marsの受けた仕打ちはスペイン異端審問になぞらえられるひどいものだった。カンファレンスでは、聴衆たちはCinq-Marsのプレゼンにほとんど耳を貸さず、提示した証拠はぞんざいな扱いを受けた。他の研究者は礼儀正しく耳を傾け、その上でCinq-Marsの能力について疑問を呈した。結果はいつも同じだった…Canadian Museum of Historyの自分のオフィスで、Cinq-Marsは心を閉ざして苛立った。彼のBluefish Caves調査の資金は尽きていき、結局彼のフィールドワークはだんだん失速し、絶えてしまった。」

現在の研究は「人類はClovis文明よりずっと前にアメリカに到達した」という彼の最初の主張を裏付けている。しかし、真実かどうかは問題ではなかった。それがこの研究分野の支配的見解に対する挑戦だったことが重要だった。

Pringleが書いているように、「今日、数十年後になって、Clovis first modelは瓦解した」。それは完全に偽物の知識だったのだが、実績と影響力を築き上げたのである。

最初のアメリカ人に関する主張の結果として輝かしい実績を上げ、強力な社会的地位を築き上げた高給取りの教授たちは、突如白眼視されるようになった。偽物の知識を喧伝していたのだから。

その抵抗のインパクトは、いまだになくなってはいない。

Pringleはこう書いている。

『この重要な問題について、主流の考古学者たちは反対意見を蔑ろにしたのだろうか? もしそうしたなら、それは北アメリカの考古学にどんなインパクトを齎しただろうか? Clovis以前の史跡に対する強烈な批判は、ぞっとするような影響を生じ、新しいアイデアを抑制し、より早期の史跡の研究を妨げたのだろうか? テネシーのヴァンダービルト大学の考古学者で、チリの史跡であるMonte Verdeの主任研究員であるTom Dillehayが考える回答は明白だ。Dillehayはこう回想している。科学界の雰囲気は「明らかに有害で、科学を妨害したのだ」と。』

同様に、政策担当者が主流派経済学が提示する偽物の知識を信奉することで、多くの人々が不必要な失業や貧困に苦しむはめになっているのであろうか? その答えは明確にyesだということになる。

元の話題に戻る前の最後の例えは、ごく身近なものだ。ヘリコバクター・ピロリについての話だ。もし私が何について書こうとしているのかを知らないなら、びっくりする話だろう。偽物の知識の維持によって利権を確立した人々による新しい知見への抵抗の具体例として。

このケースは、巨大な製薬会社は、疑いもしない患者に不必要な薬を強要し、患者が信頼する医師たちを圧力下に置き、患者を無知なままにし続けることによって巨大な利益を得ることができるということを示している。

当時の主流の研究者たちは、潰瘍が”精神的混乱”によって生ずると考えていた。(下のNew Yorkerのリンクを見てほしい)

このNew Yorkerの記事(2003年3月3日)Marshall’s Hunchは、かの論争における興味深い洞察を与えてくれる。

その記事は、1983年にMarshallが彼の研究を最初に発表したときの様子を詳しく書いている。

「…ブリュッセルの感染症のエキスパートたちの集まりの中で発表された。聴衆は軒並み重鎮ばかりだった…Marshallが話すのを終えたとき…科学者たちはくすくす笑い、ひそひそと話し、首を横に振り、デビューが大失敗に終わった年若い同僚に対して少し当惑した……」

一人の科学者は、Marshallの理論は「これまで聞いた中で一番バカげたもので、この男は気が狂っているのかと思った」と言った。

Marshallにとって不幸だったのは、製薬会社の大物であるGlaxo(SmithKline)が、医師たちが胃潰瘍と診断した人々にZantacを売りつけて莫大な利益を得ているという点だった。その薬はあくまで緩和剤で、症状(痛み)を和らげるだけのものだった。

医師は定期的に高価な大腸内視鏡検査 [2]上部消化管内視鏡の間違い? を潰瘍があるかどうかを’見る’だけの検診を行い、痛みをコントロールする場合はZantacその他を処方する、という単純なルーチンに当時の患者たちは乗せられていた。

これらすべては不必要であるとMarshallは示してしまった。

現在、Marshallの発見は医療セクターでの常識となっているが、この発見を抑圧して自身の市場を守ろうとする巨大な製薬会社の影響下にあった一般開業医たちにそのメッセージが届くまでには長い時間がかかった。

これらの話(及び私が書ききれないもっと多くの話)はレジームチェンジと関係している。新しいアイデアや説明が広く認知されている主流派と真っ向対立すると、事実が新しいアイデアを支持していることが自明となるまで中傷に晒されるという事が示されている。

(神経生物学、考古学、経済学といった)学問分野は、既に構築された’パラダイム’の中で動いている。’パラダイム’は哲学者のThomas Kuhnの1962年の本 The Structure of Scientific Revolutions(邦題:科学革命の構造)の中で、”当座の間、専門家のコミュニティに対して定型問題とその解決法を提供する広範に認知された科学的業績”と定義されている。

典型的には、パラダイムと定義される知識体系は”初歩的及び発展的な科学の教科書で…詳説される”(Kuhn, 1996: 10)。

Kuhnは、”科学的”活動が直線的なプロセス…「研究者が新しい実証的証拠を基礎的知識に追加し、以前まで受け入られらていた考えを置き換えるというようなプロセスである」という考えに挑んだ。

そうではなく、支配的な観点は、受け入れがたい例外に直面し、革命(パラダイムシフト)が起こるまでは強固に残るのだとKuhnは主張した。新しいパラダイムは、古い理論が受け入れられないものであることを暴き、新しい概念を導入し、新しい疑問を立て、新しい言語や説明的な比喩を用いて新しい考え方を学生たちに提供するのである。

一度転換が起きれば、古い理論はもはや確立された知識とはみなされない。Kuhnはまた、支配的なパラダイムの中の専門家たちによる衆愚政治のようなものが存在することと、彼らが論理的ないし実証的な例外に直面しても自身らの見解に熱烈に固執するということを記している。

支配的な集団は、Irving JanisがGroupthinkと呼ぶものに嵌りこんでしまい、新しい考え方を提案する人に対し、まず最初に中傷を仕掛けてしまう。

Joseph Altman, Jacques Cinq-Mars, Barry Marshal及び様々な研究領域における数えきれないほど多くの人々の仕事が、パラダイムシフトが起こり得ること、そしてその変化が不可避になるまで大衆たちから反発を受けたことを示している。

全ての新奇なアイデアがこの類の煉瓦壁に直面するわけではない。しかし、専門家たちがGroupthinkに嵌ってしまったり、とりわけ、地位やお金の危機(特に、商業的な危機)があったりするとき、抵抗は強烈で、かつ長引くものになる。

さて、どう考えても、上で論じた着想はそれぞれの分野のレジームチェンジにつながったと言えるだろう。

いくつかのケースでは、対決を受けたレジームは新しい知識の一部に割り当てられた(たとえばClovis社会の年代)が、それ以外では、古い知識に関係する多くの主張が「宙に浮く」こととなった。

また他のケースでは、知識が一から十まで偽物であるのに、その学問分野の支配が維持される。メディアや、専門的地位や昇進、学術基金へのアクセス、そしてその他外部者を真実から遠ざけるために築かれたさまざまなカムフラージュをコントロールすることによって。

主流派経済学は後者のカテゴリーに合致するケースだ。それは偽物の知識であり、元からずっとそうだった。しかし、研究職のGroupthinkはとても強固で、強制力が強い。その地位に対抗したことのある人なら、私の言いたいことが分かるだろう。

私は一度、ある権威あるカンファレンスで私のマクロ経済学観についての招待講演を行ったことがある。(発表者のバランスを取るために、私はケインジアン枠扱いで呼ばれたそうだ。ケインジアンではないのに!)

まあとにかく、私が発表を終えると、参加者の一人が(客寄せ口上のような耳障りな声で)”みなさん、今日は火星からの発表者のお出で頂いたようですね!”とコメントした。彼はそのあとほとんど何も言わず、ただ聴衆の笑いを取ろうとしただけだった。それが真剣な専門家たちの意見交換会の中で起きたことである。

いじめ以外の何物でもない。私の労力は大いに笑われた。しかし私はすでに上級教授で、このタイプの無視は長年経験していた。アヒルの背中に水をかけるような無意味な行いだ。私はこういったことに慣れていたのである。

私が研究を始めた頃、私の初期の雑誌投稿に対する査読報告は、一文ほどのものだった。(どれだけ長くても数ページ程度) それらは大抵こう書かれていた。「著者は明らかにLipseyの教科書の第一章を読んでいないか、理解していない。」 Lipseyの教科書は当時の有名な主流の教科書で、主流派マクロに進むための下らないことが書かれていたのだが。

それは間違っていなかった。私は論文の内容が非常に厳密であることを確実にするためには長い時間をかけていたし、その結果は正しかった。私はこれは挑戦なのだと考えていた。

しかし多くのより繊細な若い研究志望者たちは、そうした批判によって潰されていただろう。自信を打ち砕かれ、研究意欲が棄損されることによって。

経済学の専門家たちは乱暴だから、急所攻撃を食らっても生き残るため分厚い皮を持っておく必要がある。

Modern Monetary Theory(MMT)はこうした意味でのレジームチェンジを目指している。MMTは、支配的な経済学理論の嘘や欺瞞に直接的に対抗し、システマティックで首尾一貫した代替的な理論を提供している。

当初、我々は無視された――我々(上述した小さいグループで行った)の研究の少なくとも最初の10年の間はそうだった。

最初は、経済学の中でも先進的な分野(ポストケインジアン)が我々を批判しはじめた。――その主な理由は、彼らが類似のカンファレンスに参加していたからだ。MMTはポストケインジアンが未だ受け入れていた新自由主義のいくつかのコンセプトに挑戦するものなので、ポストケインジアンは我々に対して敵対的だった。

そしてメッセージがより広範に伝わるようになるにつれて、’第二世代’MMTerがより発言力を持つようになり、数も増え、現在は主流派経済学者からの攻撃を受けるようになっている。

最近の攻撃については When mainstream economists jump the shark and lose it completely という記事で書いておいた。

これらの攻撃はより広範囲に広がっているが、それは我々の一連の考えが発展の次のステージに達していることを示している。

専門家たちの中の新自由主義的なGroupthinkerたちは現在、世界金融危機への対処の大いなる失敗の結果として、主流派経済学の価値観によりいっそう多くの人々が忌避感を抱き始めており、それによって彼らの地位が弱まっていることに気づき始めている。

しかし主流派経済学の失敗が明らかになると、衆愚政治的な動きが彼らのレジームを守るためのあらゆる防御策を講じ始めた。メディアでMMTにマウンティング攻撃するのもこれだ。

尤も、私が今まで話してきたそうしたレジームシフトは、ブロゴスフィアで主張されている’MMTが採用されれば世の中が良くなる’といった主張とは異なるものだ。

そういった類の所感は、十分な数の政治家を説得できれば’MMTレジーム’へのシフトが出来るという意味になってしまう。

理解すべきポイントは、MMTは、不換紙幣(fiat currency)金融システムがどのように運営されるかという仕組みへの理解、および現代金融経済において政府が行うことが出来る中心的な役割への理解に役立つ思索の体系であるということである。

現代金融経済は、貨幣(money)を財とサービスに対する支払いの計算単位として利用している。重要なのは、その貨幣が不換紙幣であり、交換できるのはそれ自体だけ(訳注:古い紙幣を持ち込んだら新しい紙幣に替えてもらえる、くらいの意味かと)で、政府には(例えば金本位制、ないし後期金本位制のように)金(gold)に交換する法的義務はないというところである。

主流派経済学の論評ではたいてい無視されるのが、1971年8月におけるブレトンウッズ体制の崩壊である。ブレトンウッズ体制は、1944年7月に有名なブレトンウッズ会議で合意された金融システムで、参加国の中央銀行にUSドルに対する固定為替相場の維持を要求するものだった。

そのシステムは機能しないことが証明され、ニクソン大統領がUSドルの金への互換性を破棄し、ほとんどの国は不換紙幣システムへと移行した。

不換紙幣システムの中では、政府は特定の不換紙幣を発行する独占的な権利を持つ。

その上、不換紙幣は、税の支払いおよび政府の要求する他の財政的請求に受け入れられる唯一の単位であり、このことが政府の政策手段の範囲を決める。

我々は、政府がただの’大きな家計’ではないことを知っている。家計は、通貨(currency)の利用者であり、支出に際して事前に通貨を調達しなくてはならない。翻って政府は、通貨の発行者であるので、もし(増税を)望むとしても、まず支出(民間銀行の銀行口座に貸方記帳)があり、このことにより借方記帳するということになっている。

はっきり言えることは、不換紙幣発行者である政府は、いかなるときも発行通貨(currency of issue)による支払い能力を持つという事である。

MMTはさらに、国定貨幣(State Money)(不換紙幣)の目的が、実物的な財・サービスを非政府主体(大部分は民間)から政府(公的)主体へとスムーズに移行することであることも教えてくれる。

この移行のために政府はまず徴税する。徴税により発行通貨の需要が発生する。非政府主体は、納税及び全体での純貯蓄に必要な資金を獲得するため、実物財・サービスを売りに出して、必要な通貨と交換しようとする。これはもちろん、非雇用者たちが労働を売ろうとするようになることをも含む。明白な結論として、失業は、全体での政府純支出が、納税の必要性と全体純貯蓄の欲求を満たすには少なすぎるときに起こるということが言える。

この分析は、政府の支出の限界  [3]文中では下限がフォーカスされているが、「それ以上支出すればインフレになる」という意味での上限も存在する も設定する。政府支出が納税可能になる分だけ十分になされなくてはならないということは明らかだ。それに加えて、民間の貯蓄意欲に合わせる必要がある。

もし政府が納税と非政府部門の貯蓄欲求をカバーするのに十分な支出を行わなかったなら、その不足分は失業として現れるだろう。

この問題の根本は常に、政府純支出がその時の民間支出(貯蓄)決定に対して適切ではないことにあるのだ。

それぞれの国(あるいは複数の国によるブロック)では不換紙幣による支出能力をそれぞれ違う方法で構築・利用している。ユーロ圏メンバーの国は、フランクフルトに支出能力を自主的に委譲し、純支出に関して厳しいルールを自国自身に課している。

他の国々は違う形で発展している。

しかしポイントは、いつの時代も、どの国においても、金融システムはMMTが描写し説明している形で運用されているということである。

MMTは現実と非常に強い関係を持っている。一方で、主流派経済学は、現実の大部分を扱えない。

したがってMMTへと移行すること自体がより良い世界であると考えるのは、現実への誤解に基づいている。すべての形態及び規模の金融システムは、既にMMTに準じて運用されているのである。

よって、”もしMMTが導入されれば”とか、”MMT政策の下では”とか、”MMTが規範になるとき”という風に、『MMTは、もし社会がより啓発されれば、移行することのできるレジームであり、真に進歩的な政府に新しい範囲の政策手段を開拓するものである』と暗に意味しているかのようなコメントを読むと、この点が誤解されているということがわかるのである。

こうした誤解は、他のコメントにもある。特に、Job Guarateeに関するコメントだ。そうしたコメントではMMTとは進歩的な教義であるとか、あるいは経済政策決定における左派的なアプローチであるということになっている。あるいは、MMTがなかなか紹介されないのは、既成秩序を維持しようとする右派の陰謀だ、とされている。

こうした発言は善意からのものであるし、MMTがその理論の進む先に提案している政策手段のいくつかに、人々が純粋に魅了されているということは分かっている。

けれどもそのような理解は、私が「Job Guaranteeのような提案への教条的で不合理な抵抗」と考えていることと同類なのだ。

つまり、「進歩的政策によって資本家の搾取の軛から自由になれるMMT的世界へ我々は移行すべきである」というような考えは、完全に間違っている。

事実として、我々は既にMMT的世界に生きているのである。我々はいつだってMMT世界の中で関わりあっているのだ。アメリカでも、オーストラリアでも、ユーロ圏のどの国でも、金融システムはMMT的体系の中で運用されている。

だから、MMT的世界と一般に呼ばれているような新しい理想郷へ向かうなんていうことはあり得ない――我々は既に、MMT的世界に居るのだから。

MMTが与えてくれるのは、我々が住んでいる世界を見るための新しいレンズであり、我々の日常生活の中で重要な金融システム運用についてである。

この新しいレンズは、日常の基礎で経済に何が起きているかについての新しい洞察を広げる。MMT的世界は、移行すべき何かなのではなく、既にそこに存在するものなのだ。

新しい強力なレンズとしてのMMTは、新自由主義の物語では不明瞭になっている点についても明らかにしてくれる。

というのは、政策決定と非政府部門の意思決定の因果と結果の理解から我々の注意をそらすために、保守派が推進した一連の連結された神話を暴く、という意味である。

保守派の政治家や企業家たちが、「政府はお金を使い切っており、そのため失業者に対してこれまでと同レベルの給付支援をする余裕はない」と主張しているとき、MMTはそれが嘘であり、それとは別の指針が存在するに違いないということを気づかせてくれる。

MMTはこのように、現実への理解について学ぼうとしたり、それまで問おうと思うことも出来ず、それどころか無関係であった疑問への問い方を学ぼうとしたりする人々に、その力を与えてくれる。

以前は、政治家が「政府はお金を使い果たした」とか「政府はクレジットカード満額まで使い切った」と発言すれば、情報の無い人々はそうした発言を尤もだと捉えてしまっていただろう。

しかしMMTのフレームワークを理解すれば、そのレンズによって人々は”お金を使い果たす”という錯乱を却下し、逆に、政府が特定の政策手段を用いたがらない理由を知ろうと欲するようになるだろう。

これまで、政治家とそのアドバイザーは、(彼らが操作対象としている)一般市民が適切に知らない・理解していない偽物の経済学的議論を用いて新しい政策手段や政策方針を即座に却下してきたが、MMTは、そうして却下されてきた政策手段・政策方針の実現可能性を政策論議に導入する。

MMTはかのように、我々が生きている世界の金融システムがどのように運用されているかということと、通貨発行主体(curreny-issuing)であり、我々の幸福を志向すべき政府が、どのような潜在能力や政策手段を持っているか、ということを理解するためのフレームワークなのである。

MMTは、政府の通貨発行能力(currency-issuing status)(為替操作能力や中央銀行による金利設定能力を含む)を実際の統治体から分離したらどんな結果を齎し得るかということを理解するのにも役に立つ。

後者に関して我々は、MMTのレンズによって、ユーロ圏が構成国に非常に悪い結果を齎す形で失敗した理由をクリアに理解することができる。

また、MMTは左派でも右派でもない。

MMTの理論的・描写的側面と、その上に付加されているMMT提唱者の価値観を混同してしまうという錯乱的な嘘が存在している。

私が左派の立場から解説してしまうせいで、MMTは左派だと思われているかもしれない。しかし、それは間違った推論だ。

どんな立場からであれ、思想的信念というのは、価値観と、その価値観から進展して提示される政策的処方箋によって明らかになるものだろう。

MMTが出来るのは、ある人が特定の政策提案を推進するときに、その思想的信念をより明瞭にすることである。

例えば、失業率上昇に直面している政治家が「政府にはこれほど多い失業を解決するほど職を提供するだけの財政的余地はない」と発言しているとき、MMTのレンズを通じてそのコメントを考察すると、「政府には、必要以上に失業率を高く維持したい理由がなにかあるに違いない」ということが即座にわかるだろう。

我々はそこに’隠された’指針があるということがわかる。なぜなら、我々の理解では、政府には通貨発行能力(currency-issuing capacity)があるために、その財政的余地というのは利用可能な実物資源で決定するからである。もし大量の失業があるなら、そこには利用可能な実物資源が存在するということがわかる。

では、なぜ政府は彼らを雇って生産的用途に利用しないのだろうか?

そのとき焦点は「その理由が何か」というところに移り、その疑問は、例えば、政府が完全雇用維持のために通貨発行能力を利用するのを拒否することによって随伴的に生じるであろう影響への考察に繋がるだろう。

逆に、MMTに感化された右派の政治家が、賃金を抑圧し、利益(右派政治家はこれを労働者の尊厳etcより価値が高いと考えている)を高めるために、大量の失業の予備を確保するという欲望を実現しようとするとき、彼らは財政赤字の削減を提案するだろう。なぜなら、MMTの知的訓練によって、それが彼らの目標を達成する手段であると分かるからである。

MMTは、我々の価値観を政策選択を通じて社会へ適用した結果どうなるかについてしか教えてくれない。そうした価値観は、どんな政治的ないし思想的性質でもありえるのである。

私はこの議論がこのタイプの問題について論争している人々の助けになることを望んでいる。

来週、私は”メランションが大統領になった場合のフランスの最初の100日間”を予測するブログを書くつもりだ。

右派の経済学者は、まるで日々の稽古のように、既に偽物の知識を交換している。実に滑稽だ。私は彼らよりもう少し真面目にやるつもりだ。

今日はここまで!

References

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1 ここでいう「世俗的な説明」は、「神話的な説明」(神が万物を創造したという神話に基づく説明)に対する対義語である
2 上部消化管内視鏡の間違い?
3 文中では下限がフォーカスされているが、「それ以上支出すればインフレになる」という意味での上限も存在する
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  1. ピンバック: Diseño web granada
  2. あー、はいはい。早い話が「道具主義」vs「現実主義」ってワケでしょ。
    で、ポストケインジアンが現実主義を採用しているからって、ポストケインジアンやMMTの洞察が「現実」を100%再現できているワケではないことくらいはカントくらい読んでたら君でもわかるよねー?人間の認識って色眼鏡かかってんだからー。
    実際、MMTのいう信用創造論にしても、万年筆マネーを採用すると銀行の数が無限になって現実に反するって弱点はあるワケだしー。あと国債のファイナンスの話もー。

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