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ビル・ミッチェル「MMTと『力関係』について- Part 1」(2021年5月6日)

Bill Mitchell, “MMT and Power – Part 1”, Bill Mitchell – Modern Monetary Theory, May 6, 2021

「現代貨幣理論(MMT)には、〔制度的な〕力関係(power relations1 )の理論がないので欠陥がある」という言説をよく目にする。批判者の中には、このことを、「MMTにはインフレの理論もない」という主張に結びつけて語る人もいる。

そして、そうした力関係がどのようにしてインフレを引き起こすのかを理解していないのであれば、MMTはインフレに対する解決策を提案することができないとして、雇用のバッファー・ストック(緩衝在庫)などの概念を非難し始める。これらの批判は、政策論争の保守側からではなく、いわゆる「左派」からのものである。もっとも、このような中傷をしている一部の論者が、実際にどの程度「左派」的なのかは疑問だ。これらの批判の問題点は、彼らがMMTとは何かを理解するのに、明らかに不完全なアプローチを採用していることである。この原因はおそらく、MMTの批判者が文献を十分に読んでいないだけでなく、一部の支持者が我々の研究を紹介するやり方にも問題があるからである。今回の2部構成のシリーズでは、この問題を検証し、力と階級が、私がMMTの研究の発展に貢献する上で中核を成すものであることを示す。Part1では、その背景を設定し、なぜ一部の人々が〔MMTの理解について〕混乱しているのかを説明する。

興味深い歴史的傾向

まず考えなければならないのは、過去数世紀の間に経済学がどのように発展してきたのかである。

私が経済学(economics)を学び始めたころは、社会経済学(political economy)2 の学生として見られたいと思っていた。

また、哲学、歴史、数学、統計学、政治学を学び、社会学や人類学にも興味を持っていた。

勉強の過程で、他の人と同じように〔専門分野を〕決めなければならなかったが、私はできるだけ多くの選択科目を詰め込もうとして、実際には卒業資格の認定に必要な単位数よりも多くの単位を取得することになってしまった。〔自分の興味関心が〕科目を絞りすぎることと折り合いがつかなかったのである。

最初の社会経済学者は、啓蒙主義の時代に登場したフランスの重農主義者である。

フランソワ・ケネーアンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴーなどの学者は、この重農主義のアプローチの先駆であった。このアプローチは、国富の焦点を、それまで重商主義者の焦点であった貿易から生産に移し、また価値の源泉としての労働力の貢献に移した。

彼らはまた、経済発展の源泉として農業部門の優位性を提唱した。この考えは、後にヘンリー・ジョージが提唱した地価税の考え方にもある程度影響を与えた。

彼らはまた、自由主義と経済学を結びつけ、財産権の維持に責任を持つ政府による自由放任主義を唱えた。

その後、イギリスの古典派経済学者であるアダム・スミス、トマス・マルサス、デヴィッド・リカード、ジョン・スチュアート・ミルが登場し、生産と貿易が社会の規範や政府の政策とどのように関連しているかに焦点を当て、分配の側面(所得と富)に重点を置いて議論を進めた。

この時点では、「経済学(economics)」はまさに「道徳哲学(moral philosophy)」の延長線上にあり、経済学の研究では、生産と分配に対して誰が力(power)を行使できるかといった社会制度を考慮しなければならないことは明らかだった。

マルクスは、資本所有階級が人が生きるために働かなければならない状況を利用して、他の人々を支配する力を分析の基礎とした。

彼の分析は、その力の行使から生じる社会経済的な力学を考慮したものである。

このように、歴史的に見ても、社会経済学は、社会階級、勢力争い、慣習や法律、そして経済的な成果に、むしろ明確に関係していた。

以前にも書いたが、19世紀半ばにマルクス主義への関心が高まり、それが急成長する産業社会のエリートたちに脅威を与えたため、対応策が求められた。

1848年革命は、主に既存の君主制の王朝に対する挑戦であったが、資本の所有者に搾取されているという労働者階級の懸念が背景にあった。

これは特に、日雇い労働者や工場労働者など、慢性的な失業に加えて実質賃金の大幅な低下に直面していた都市部の労働者階級の活動に当てはまるものだった。

マルクス主義は〔労働者階級にとって〕非常に魅力的なものとなったのである。

1871年に成立したパリ・コミューンは、現体制(status quo)を脅かす労働者階級の活動の高まりをさらに表現したものだった。

これに対する反応の一つが新古典派経済学の発展であり、いわゆる「限界革命(marginal revolution)」である。この変革において、ウィリアム・スタンリー・ジェヴォンズは1879年に発表した著書で、経済学研究の重点をより数学的なアプローチに移し、アルフレッド・マーシャルが1890年に有名な著書を発表した。

この変化は、経済問題に対する近代的なアプローチの始まりであり、用語も「社会経済学(political economy)」から「経済学(economics)」へと変化したが、これは単なる用語の変化ではない。

これは、「個人主義(individualism)」が支配的となり、「市場支配力(market power)」(集中、独占、労働組合など)が生じるのは、多くの場合、政府の誤った政策によって生み出された一時的な現象であるという見解に沿って、焦点が絞られたことを意味する。

政府が自由市場の機能を認め、私有財産権の保護に専念して、自由契約が円滑に行われるようにすれば、これらの「力」の源は消滅するという話だった。

次第に、組織的な枠組みとしての階級の概念は放棄され、個々の人間の行動は、有用な数学を使って解決できる一連の「先験的な」記述に還元されるようになった。

これに関連して、数学的手法とその限界は〔個人の行動に関する〕問題の設計において支配的となった。つまり、この手法によって社会における複雑な相互作用は抽象化され、結果として得られた「モデル」は現実世界に適用できないほど単純なものになってしまったのである。

そして、そのような自己実現のための活動が〔経済学者の〕仕事に組み込まれていった。

この問題については、(特に)以下のブログ記事で取り上げた。

  1. The evidence from the sociologists against economic thinking is compelling(社会学者による経済学的思考への反証には説得力がある)」(2019年11月19日)。
  2. How social democratic parties erect the plank and then walk it – Part 1(社会民主主義政党はいかにして綱領を打ち立て、それに従うのか)」(2019年6月6日)。

私が属する〔経済学〕業界の大半の人々は、大学院に行き、修士から厳しい教化を受け、博士号を授与され、学術的な教職に就き、最新のマクロ経済学の教科書と関連するすべての教材(スライドショー、クイズなど)で自身を飾ってくれる出版社の訪問客をもてなし、その後、基本的には眠りにつくのである!

彼らは、年がら年中これらの教科書を使って教えている。中には「俳句のような」論文を発表する人もいるが、それは現実の世界については何の知識ももたらさない。しかし、それでも彼らはアカデミーからは称賛を得られるし、それによって昇進し、給料が上がり、地位が向上し、より良い老後を送ることができる。

しかし、経済学者は早い段階で、自分の専門分野の主要な限界に疑問を持たずに学んでいる。大学院での教化は非常に効果的で、高給で安定した職業がもたらす報酬を享受して眠りにつく方がはるかに楽なのだ。

彼らはフィクションを教えているのである。

もっとたちが悪いのは、新自由主義経済学が資本家階級と金融エリートの利益を優遇していることだ。

よって〔支配階級の〕力は維持されるのである。

失敗した経済理論を捨てることになぜこれほど抵抗があるのかを理解するためには、主流派経済学のパラダイムが、経済学の教授が〔中立な経済〕理論の集合体として学生に教えている領域をはるかに超えているものであることを理解する必要がある。

2017年1月13日の論説「Why we need political economy(なぜ社会経済学が必要なのか)」で、マーク・ロビンスはこう書いている。

経済分析の主な欠点は、経済と政治の分離を議論の前提としており、それが現実を意味のある形で表していないことにある。これは社会経済学とは対照的である。社会経済学では、政治と経済は基本的に切り離せないものであり、国家と市場の関係が世界を包括的に理解するための鍵であると仮定している。

政治と経済の分離を前提とするのは、まさに20世紀的現象である…。

「自由市場(free market)」という中心的な組織概念も、現実には存在しない架空の概念である。すべての市場には、政府の法律や契約のルールなど、法的な枠組みが必要だ。

自分の専門分野の用語が使われてきた歴史的背景を示すために、「1500年から2019年の間に書かれた文献に見られるNグラムの年間集計を用いて、特定の検索文字列の出現頻度をグラフ化する」Google Ngram Viewerを参考にした。

ここでは、1750年から2019年までのキーワード「Political Economy(社会経済学)」のNグラムグラフを示している。

グラフは1890年頃にピーク〔=「Political Economy」の出現頻度が最も高い時期〕を迎えているが(横軸は20年単位で表記)、これはちょうどマーシャルの『経済学原理』が発表された時期と重なる。

次のNグラム・グラフは、「Political economy(社会経済学)」と「Economics(経済学)」の二つをキーワードに作成したものである。

「Economics」(赤線)と「Political economy」(横軸をなぞるようにしてやっと見える青線)の二本のグラフを並べると、重点の移り変わりがよくわかる。

1900年頃になると、経済を研究する方法を「political economy(社会経済学)」と呼ぶ人はほとんどいなくなり、この言葉は、より異端的なアプローチを追求する人たち(マルクス主義者、制度主義者など)や、まだ「自由市場」という個人主義的な枠組みの中で活動していた公共選択論者の領域を指すものとなった。

もう一つの大きな変化は、1930年代にマクロ経済学(macroeconomics)が「経済学」の中の独立した研究分野として発展したことである。

1930年代以前には、マクロ経済学という独立した研究分野は存在しなかった。

当時の経済学界で主流だった新古典派の考え方では、経済全体(マクロ経済学の領域)について述べるには、個々の単位や原子レベルで行われた推論から推測すればよいとされていた。

この考え方は1930年代に否定され、マクロ経済学は独立した学問分野となった。それはまさに、ミクロ経済学(microeconomics)の定説を軽々しくマクロスケールに適用するという当時の主流な考え方には、論理の誤りが多く、誤った分析的思考や不適切な政策提言につながっていたからである。

ミクロ経済学は、経済における個々の行動主体、つまり個人、家庭、企業のレベルでの理論を構築している。

例えば、企業による雇用の意思決定や、所得を受け取る個人による貯蓄の意思決定などを説明しようとするものである。

しかし、ミクロ経済学の理論では、企業や家計のレベルでの意思決定を検討する際に、他の行動主体への波及効果(knock-on effects)が無視されている。

これは明らかに不適切であり、マクロ経済では、このような広範な影響を考慮しなければならない。

世界大恐慌の際、イギリスの経済学者ジョン・メイナード・ケインズらは、このような相互依存関係(波及効果)を無視することで、経済学者が「合成の誤謬(compositional fallacy)」に陥っていると考えた。

この問題については、(特に)こちらのエントリ「Fiscal austerity – the newest fallacy of composition(緊縮財政:最新の合成の誤謬)」(2010年7月6日)でさらに詳しく述べている。

「Macroeconomics(マクロ経済学)」のグラフは、1930年代後半から上昇し始める。

以下は、「Macroeconomics」をキーワードにしたNグラム・グラフである。

しかし、主流派の専門家は依然として新古典派の考え方に支配されており、「ニュー・ケインジアン」のマクロ経済学者でさえ、ミクロ経済学の原理に基づいてその枠組みを構築している。

これにより、次のNグラム・グラフのキーワード「Economics(経済学)」と「Macroeconomics(マクロ経済学)」に示されるような関係性が生まれる。

つまり、最初に理解すべきことは、MMTには、直感的な罠や合成の誤謬に陥らないよう導いてくれる首尾一貫した論理が含まれており、またマクロ経済学的に考えるよう教えてくれるということである。

それは、ケインズらが「経済学」の中の独立した学問としてマクロ経済学を構築するに至った初期の洞察に基づいている。

MMTの経済学者は、新古典派的限界理論の個人主義を否定している。

MMT派は、経済的成果が生み出される制度的背景を理解することを優先している。

つまり、貨幣システムの運用方法や通貨発行者である政府の能力を理解するには、こうした制度的構造に組み込まれた力関係が重要であると理解しているのだ。

「MMTは貨幣と実物経済のつながりを無視している」

数年前のある記事「Modern Monetary Theory Isn’t Helping(現代貨幣理論は役に立たない)」(2019年2月21日)で、 ダグ・ヘンウッドは(私の関心や特定の知識とはかけ離れた個人的な恨みを晴らしているように見えるのはさておき、)MMTに対して「力関係の欠如(power vacuum)」との批判を展開している。

彼は以下のとおり述べている。

MMTer〔MMT派のこと〕は、資本主義の特異性——生産と分配がどのように組織化されているか、商取引の過程で信用需要がどのように発生するか、人々がどのような条件でどのように生計を立てているか——に対する奇妙なほどの関心の欠如を示しており、また貨幣に関するPK〔ポスト・ケインジアン〕の先行研究を拒絶している。このため、貨幣とモノ、あるいは貨幣と人(あるいは貨幣を介した人とモノ)の間の関連性がほとんど見えなくなっている。マルクスは、「人は社会との絆をポケットに入れている」と言ったが、これは、貨幣が社会の組織と支配の主要な様式のひとつであることを認識しているからである。アントニオ・ネグリは、「貨幣にはたった一つの顔しかない。それは上司の顔である」と言っている。言われた通りに働かなければ、一文無しになり、飢えてしまうからだ。

キーストロークだけで簡単にお金が手に入るというファンタジーを通して、そうした〔労働の〕必要性と〔貨幣による〕力関係はすべて一掃されるはずである。しかし、そのような関係を生み出すのは、貨幣の押し付けられた希少性〔という偽りの制約〕そのものではない。

MMTでは、貨幣と実物経済の関係に関心がないために、その支持者は課税や支出、資源配分の関係を見落としてしまうのだ。ツイッターやウーバーの本社から数ブロック離れたサンフランシスコの路上にはホームレスが住み、橋は崩壊し、電車は脱線し、学校は崩壊している。昔、ジョン・ケネス・ガルブレイスが言ったような個人の繁栄と公共の衰退という構造の全体が存在するのは、公共部門の資源が圧倒的に不足しているためである。課税することで、それらの資源を個人の手から公共の手に移すことができ、少なくとも、より人道的な目的に使える可能性がある。ランボルギーニが減り、新幹線が増える。ハンプトンズの家が減り、公営住宅が増える。

例えば、単一支払者制度の実現は、単に数十億回のキーストロークを増やすだけの問題ではない。それは、アメリカの医療制度の不条理な行政組織を解体し、民間保険の保険料を公費に移行し、製薬業界による価格つり上げのビジネスモデルを変革し、リノベーションによって追い出された労働者の面倒を見ることを意味する。

MMTへの言及をさておけば、ダグ・ヘンウッドが指摘しているのは、現代の経済システムを特徴付けるおぞましい倫理観の欠如である。

しかし、それをMMTへの攻撃として紹介することは、「すべてを説明する理論がないなら、あなたの提案には問題がある」というような主張を展開するに等しい。

どうやら現代貨幣理論(MMT)は、国家の理論がなかったり、公権力の理論を軽視していたり、ジェンダー(社会・文化的性差)、エスニシティ(民族性)、セクシュアリティ(生物学的性差)などの考察を除外しているため、欠陥があるそうだ。

なぜ所得分配の下でツイッター社とホームレス〔持てる者と持たざる者〕が共存できてしまうのかについて、MMT派は理論化していないらしい。

さて、火炎放射器を構える前に、私が「言っている」ことを確認してほしいのだが、MMTが除外しているとされるこれらの事柄は、みな明らかに重要であり、適切な研究スキルと背景(文献、方法、トレーニングなど)を持つ人たちが知的探求を行うのに値する。

大学に多くの学科(分野)があるのは、すべての人がすべてのことに対応できる適切な研究スキル(と関心)を持っているわけではないからだ。

例えば、国家の理論を提示していないことを理由に、「MMTは左派には絶対に受け入れられない」というのは、欠陥のある批判である。

〔MMTが〕「貨幣」と「実体経済」の帰結に「関心がない」というのは、はなはだしい誤りだ。

マクロ経済学の中心的な関心事は、まさにMMTが行ったように、支出を生産(実物経済)、所得の創出、そして雇用(実物経済)に結びつける取引において、(勘定単位としての)貨幣の使用がもたらす結果を理解することである。

我々がMMTを構築する上で大きな影響を与えたのは、アバ・ラーナーの機能的財政(functional finance)である。

詳しくは、「Functional finance and modern monetary theory(機能的財政と現代貨幣理論)」(2009年11月1日)を読んでいただきたい。

機能的財政とは、政府の政策決定の結果を重視し、政府の通貨発行能力を実体経済に明示的に結びつけることである。

ほぼMMT派の経済学者たちだけが、現代における金融総計(財政赤字の名目規模、財政赤字対GDP比、公的債務対GDP比)への執着を非難し、議論を再び実物経済に戻そうとし続けてきた。

主流派に反対する他の多くの異端派の経済学者でさえ、「金持ちに課税せよ」、「ロビン・フッド税導入を」、「金利が低いときは政府は借金をしてもよい」などといった「健全財政(sound finance)」の枠組みにいまだに囚われている。

機能的財政のアプローチを取り入れる中で、MMT研究の中心的な目標の一つは、NAIRUの論理に基づいて何十年にもわたって推進されてきた政策から脱却して、政府の主要な目的として完全雇用を復活させることであった。

インフレの議論の中で、雇用と失業のバッファー・ストックを並置している経済学者は我々だけである。

それは、実物経済(雇用と失業)と名目経済(インフレ、貨幣)を明示的に結びつけるものだ。

ヘンウッドはその点では明らかに間違っていたわけだ。

しかし、ここがポイントである。

MMTは、大量失業が起きる原因を申し分なく説明し、完全雇用を確保するには財政状況(fiscal position)3 がどうあるべきかを示している。

つまり、貨幣と実物経済をマクロ経済レベルでリンクさせており、これは優れたマクロ経済学がなすべきことである。

しかし、大量失業がもたらす影響、つまり家族へのダメージ、アルコールや薬物の乱用の増加、司法制度への参加の増加、社会的疎外感、その他失業に伴うあらゆる病理などは、社会学、心理学、法学などの領域である。

マクロ経済学者は、マクロ経済学を研究する。

我々は、なぜ失業があるのかを示す。

MMTは、その失業から生じる社会的疎外感の影響を研究するための枠組みではない。

結語

Part 2では、これまでの議論の延長線上にある「金持ちに課税せよ」の話を議論する。

また、「MMTはレンズである」という提案に疑問を投げかけ、なぜ私がそのような枠組みを導入したのか、その限界は何か、そしてどこまで適用できるのか、つまり資本主義社会における力関係に直結する問題を見ていきたい。

今日はここまで!

  1. このエントリで頻繁に出てくるpowerを「権力」と訳すと「政権」の意味でも取れてしまうので、一方が他方に行使する支配的な影響として純粋に「力」と訳している。power reationsも同様に「権力関係」とするとやはり語弊があるので「力関係」に。 []
  2. 「political economy」の訳語には、「政治経済学」よりも「社会経済学」の方が適切な訳であると指摘されている。古典派経済学者にとって、「political」は「イギリスやフランスといった政治的な単位を分析の範囲とする」ことを意味する。政治的な単位といっても、あくまでこの単位における「社会的生活を通じたニーズの充足活動の総体」が分析の対象であり、政治的な活動にフォーカスしているわけではない(八木紀一郎『社会経済学ー資本主義を知る』、名古屋大学出版会、2006年、p.2)。 []
  3. ビル・ミッチェルは、政府の「予算」(budget)と言わずに、「財政状況」(fiscal position)と言うようにしているという。「予算」は家計に対する言い方であって、家計ではない政府にふさわしい言葉ではないと説明している。下記動画を参照:https://youtu.be/YnyDRwSqp2E []

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