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ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』 いくつかのマルクス主義的論点:ロマリック・ゴダンの書評への返答」(2020年10月4日)

Branko Milanovic “On several Marxist themes in “Capitalism, Alone”: My reply to Romaric Godin’s reviewglobalinequality, October 4, 2020

 ロマリック・ゴダン1 が “Capitalism alone” 仏語版(邦訳『資本主義だけ残った――世界を制するシステムの未来』〔西川美樹訳、みすず書房、2021年〕)についてとても刺激的な書評を最近書いてくれた。「資本主義に関するブランコ・ミラノビッチの不完全な考察」といういくぶん挑発的なタイトルだ。以下では、考察が不完全にとどまらざるをえない場合がある理由に加え、私の考えを更に少しだけ明確化し、可能であれば議論をさらに前に進めるために数点はっきりとさせておきたい。

書評の最初の部分にある「資本主義だけ残った」の主要点についてのゴダンの要約は素晴らしい出来で全く異論はないが、その例外として共産主義に関する私の定義について明確化したい。その上で、ロマリック・ゴダンの非常に具体的な4つの批判をおさらいした上で、それらへの回答を試みることとする。

共産主義の世界史的役割

共産主義の役割に関する説明は次のとおりだ。共産主義に関する私の定義は、本の中でイタリック体で次のように書いている。「共産主義とは、後進かつ植民地化された社会に、封建主義を廃止し、経済的政治的独立を回復し、独自の資本主義を構築することを可能とした社会システムである」。この定義が「後進かつ植民地化された」社会に関するものであることに注目してほしい。本の中で説明しているとおり、二重の移行を成し遂げる、すなわち外部の影響力から国家を政治的に解放し、社会変革(土地改革、封建的な特権の廃止、広範囲な教育、両性の平等)を導入する上では、職業的活動家からなる中央集権的な反帝国主義政党が最も適していた。そして、そうした体制が土着の資本主義の発展の舞台を整えたのだ(彼らが革命を行ったときにそれは頭になかったに違いないが)。彼らの役割は非植民地国家におけるブルジョワジーのそれと機能上は同じだったと私が主張するのはこうした理由からだ。

この点は、少なくとも二つの理由から重要だ。まず、「歴史の狡猾さ」により、こうした変化の担い手たちは自らが無自覚なシステムを導入した。これは十分な時間が経過した今になってこそわかることだ。このことは今から30年前、あるいはそれよりもっと近い過去においても全く分からなかったことで、革命期には言わずもがな。ミネルバの梟は黄昏に飛び立つのだ。

もうひとつの理由は、共産主義の世界史上の役割に関するこうした見解は、20世紀の出来事に対する私たちの見方を完全に変えてしまうことだ。「資本主義だけ残った」の付録1で主張したとおり、ロシア革命の最も重要な成果はロシアに(その後崩壊する)共産主義システムを導入したことではなく、第三世界における左翼共産主義の中に反帝国主義闘争と社会革命を統合したことだ。こうした理由から、1920年バクーでの東方諸民族大会とコミンテルン第二回大会(これも1920年)で表明された「東の転回」は決定的重要性を持つものだった。レーニンを引用するならば、「資本主義は、一握の「先進国」の手によって、植民地による圧政と金融によって世界の圧倒的大多数の成長を押さえつける世界システムに成り上がったのだ」2 、あるいは「この大会(原注:コミンテルン第二回大会)において我々は、資本主義先進国の革命的プロレタリアートと、プロレタリアートが一切あるいはほとんどいないような(強調は著者による)国の革命的大衆、すなわち植民地化された東側諸国の抑圧された大衆との連合を目の当たりにしているのだ。」となろう。3

ロシア革命と、反植民地主義闘争も包摂(多くは植民地化された国々のブルジョア政党との連合)するためのレーニンによる世界の階級闘争の再定義なしには、第三世界の共産党は脇役に追いやられていたことだろう。さらに、レーニンの立場はマルクス主義の正統からの離脱であったことを認識することが重要だ。マルクスや多くの「古典的な」マルクス主義者たちは、西側の帝国主義を後進国に資本主義を導入し(この点については、インドに関するマルクスの記述が好例となる)、その後の社会変革への舞台を整える手段としてみたたため、帝国主義への態度があいまいであったり、支持すらしていた。この見解においては、共産党には生来の反帝国主義的役割というものはない。それが完全に変わったのは1920年以降だ。

今日の視点でロシア革命を見た場合、このことがそのもっとも重要な成果だった。これはまさに間接的であれど世界レベルでの根本的重要性をもつ成果だった。乱暴に言ってしまえば、アジアの勃興とアフリカの非植民地化はこれなしには起こらなかったか、起こったとしてもはるかに遅々としたものだったということだ。これは中国やベトナムいった典型例だけの話ではなく、インドにおいても独立運動は国内のブルジョワジーに率いられたものの、彼らは左翼の圧力を受けてより進歩的な政策を左翼や世俗正統から取り入れていた。すなわち、左翼の圧力、これにはインド国内のいくつかのマルクス政党によるものだけでなく、おそらくは社会革命、工業化、中央計画化やそれらに類するものに対するイデオロギー的な受容がより重要だったと思われるが、これなしにはインドの独立と改革にはさらに何十年も要したことだろう。2つのブルジョワ政党が協力し、インドがイギリスと「柔軟な」植民地協定を締結することになっていたことすら考えられる。

この点について明確化しておきたかったのは、ロマリック・ゴダンが「植民地主義」要素を見落とし、共産主義は経済的理由から途上国の方がうまくいったというより従来的な見解を私が維持していると考えているように見えるからだ。(3.2節に書いたとおり)そうした見解を私も持っているものの、上述した主張と比べればそれは二次的な重要さでしかない。

さらに、なぜ本の中で私が中国とアメリカを並列するかもこの主張によって説明できる。「通俗的な」政治学者とは違い、新冷戦の両極に関する一般的な議論の多くのように単に中国とアメリカの違いを論じるという雑なことを私はしていない。私の目的は、中国の勃興と政治的資本主義の採用に関するイデオロギー起源提供することで、単に現在の中国の姿を語ることではない。共産主義が、この解釈によればであるが、中国の勃興の背後にあり、そして中国の勃興は世界を変革させるものであることから、このことこそが世界史における共産主義の主たる貢献のひとつであると私は主張する(中国は間違いなく最も重要な例ではあるが、本の中ではアルジェリアからタンザニアまで、同じカテゴリにあって同じ力に反応したと思われる10か国を挙げている)。

これによって、私が今日のロシアを政治的資本主義の一例として議論しない(これはニューヨーク・レビュー・オブ・ブックスに掲載されたロバート・カトラーによる「資本主義だけ残った」の書評で批判された点だ)理由も説明できる。実際、ロシアは中国の政治的資本主義の多くの特徴を兼ね備えており、これについても議論することは出来ただろうが、他方で上述した歴史的起源は共有していないため、本の中で議論する意味がなかった。

それではゴダンの具体的な批判について話を移そう。

歴史システムとしての資本主義

1つ目は、資本主義の自然の性質と歴史的な性質の間で私が逡巡していることに関係している。資本主義は「自然の」システムだろうか。私たちの欲求と振る舞いは社会化の産物であり、それすなわち資本主義が歴史的なカテゴリであることを意味すると私が考えているとゴダンは正しく指摘している。しかし「資本主義は人々の富に対する欲求を満たすという能力によって勝利を収めたという著者の仮説」という点は、そうした欲求が人類に内在するもので、したがって資本主義の力に関する私の主張を説明づけるものではあるが、資本主義が歴史システムであるという言辞とは相反する。したがって私としては資本主義が自然のシステムであると主張するか、資本主義は克服されうるものであると認めるかのいずれかを選ばねばならない。

後者を選ぼう。巻末に簡潔に記したとおり、資本主義が別のシステムにとって代わられると想像することはできる。それは資本が労働に比して豊富になり、賃労働者が消滅する場合だ。そうした際には、資本主義の根本定義に関する性質が消え去ることになる。すなわち、賃労働者はなく、社会との関係としての資本もない(雇用労働者が消えることでこれも消滅するからだ)。そして生産様式も変わることになる。これによって価値のシステムにも変化がもたらされるだろうか。さあどうだろう。しかし、社会の仕組みが変わるのであれば、現時点では不変とされる一部の価値、例えば富の獲得が人生の第一の目標という価値などに変化が訪れうると予見できることは確かだ。

資本主義は永遠に拡大し続けるか

2つ目の批判は、資本主義の動的な要素、その中でも特に、利益をもたらす新たな活動を探求することによって引き起こされる恒常的な拡大の必要性を私が完全には考慮していないというものだ。しかし、ゴダンが書くように、今日の資本主義は一定の、明らかに乗り越えられない限界に直面している。すなわち、一方では増大する格差に対する社会の拒絶により、もう一方で低生産性成長(長期停滞仮説)と資源の枯渇によって資本主義は限界付けられている。したがってゴダンは、資本主義はさらなる拡大に際して非常に大きな制約に直面するかもしれないと述べている。そして利益になしには資本主義もない。この問題はゴダンの指摘するとおり、ローザ・ルクセンブルグとヘンリク・グロスマンにまで遡る。

しかし、私が思うに、静学的なのはゴダンの見解であって私ではない。何らかの形で資本主義が新たな活動領域を見つけることができなくなるという見解は、私たち自身の認知的な限界に基づいている。すなわち、私たちにはこの先30年後50年後において利益を生み出す新たな分野がどんなものであるか想像する能力がない。資本主義が「侵略」できる領域を予見することはできないことを私たちは自覚すべきだ。特に、20年前には誰も予想することのできなかった私的空間への資本主義の拡大(インターネットインフルエンサーからAirbnbまで)というこのご時世においては。しかしそれから類推すれば、そうした新たな領域が実際に創り出されることは容易に想定できる。

ローザ・ルクセンブルグは、今日においては知られているとおり間違ってはいたが、新たな領域がいつまでも見つかることはないから資本主義の拡大は有限であると主張することは、彼女にとってみれば故あることだったと思われる。しかしこれは問題設定の仕方が間違っていた。というのは、資本主義の支配は新たな物理的な領域を必ずしも必要とせず、(シュンペーターが主張したように)生産を組織する新しい方法や、新しい製品、さらには余暇にまで拡大できるからだ。同様に、どのような活動が「資本主義的」になりうるかを今日の私たちが予見することもできない。それぞれの世代にとっては資本主義はありえる利益の源泉を吸い尽くしてしまったように見えたが、結局のところそれは全て間違っていたのだ。

この問題は、技術変化に関する私の議論ともとても似通っている。技術変化についても私たちは認知的な限界を抱えている。新たな技術によってどのような仕事が創出されるかは、新たな技術が生産と私たちの欲求にどのように影響するかが分からないというだけの理由から、正確に見通すことはできない。したがって、多くの場合に新たな技術は労働者を不要なものにし、既存の仕事を単になくしてしまい、新たな仕事を生み出すことはないように見えてしまう。これが誤りであることは過去200年の間繰り返し明らかになってきたが、それでも新たな技術が登場するたびに今も同じ誤りに出くわしている。

同じ主張の中でゴダンは、この本が資本主義の生産面への注意に欠けているのが残念であるとしている。これはもっともな批判だ。この本はリベラル資本主義と政治資本主義双方の分析において、分配面とエリートの再生産(これ自体所得分配のパターンと相関している)に焦点をあてている。これらは私の専門とする領域だ。残念ながら生産面、独占、知的財産権、資本に労働が従属する資本主義の生産における階層的な内部組織、労働組合は重要な点ではあるが、私よりもはるかに知見のあるほかの人たちの手に委ねざるをえなかった。これらの点について非常に価値ある業績を残した人は、おそらくたくさんいると思うが、二人挙げるとすればアンワール・シャイフの「資本主義」とアメリカ資本主義の独占的性質に関するマーシャル・スタインバウムの論文だ。

共産主義の定義

3つ目の批判は、資本主義と共産主義の定義についてだ。この後者について、用語上の問題があることには細心の注意を払った。本の第三章をそれについて丸々割いたのはそうした理由からだ。簡単に言えば、私は社会主義(ママ)経済について議論する際、「共産主義」という用語を特に英語文献で「共産主義」という用語が用いられるのと同じ一般的な形で使っている。すなわち、資本が国家ないし社会によって所有され、生産の決定が中央集権化されている経済という意味だ。語源学的かつひどくイデオロギー的な議論に入る意味はなく、それが何を意味しているのが分かればいい。こうしたシステムは間違いなく資本主義ではない。違いははっきりとしている。

さて、マルクス主義的観点から言えば、共産主義は(いまだ至ったことのない)より高位の段階で、マルクスが書いたところではあらゆる階級社会という前段階が終わって真の人類史が始まる段階であって、上記のような文脈で「共産主義」という用語を用いるのは不正確であるというのは正しい。そのようなシステムはこれまで存在したことがなく、したがって議論はしない。マキャベリが批判的に述べたとおり、「多くの人たちは、見たことも実際に存在するかも分かれない公国について書いてきた」4 のである。

しかしながらゴダンは、社会主義経済についてもう一つおもしろい指摘を行っている。彼の書くところでは、「現実に存在する社会主義」もまた価値の法則で動いていた(生産は実のところ価値の交換で、価値の使用ではなかった)のであり、企業内部における関係は階層的で、「現実に存在する社会主義」は階級社会だった(あるいは、だったかもしれない。この点は保留しておこう)のだから、社会主義経済は資本主義と根本的に変わるところはなかったという。この点は、今よりもずっと若かった時分に私も数えきれない時間思考し、文章にもした論点で(いずれも出版はしていない)、それは今も続けているのだが、これは重要な点ではあるものの私の本の範疇からは外れている。この本では、非常に明確に定義した生産システムを扱っている。すなわち、リベラルないし社会民主主義的資本主義、社会主義経済、政治的資本主義だ。これらのいずれも現実世界に存在する、あるいは存在したものだ。「現実に存在する社会主義」が商品生産システムであったという点については、ゴダンに同意しよう。なお、この点はマルクス主義者の間でも争いのないところで、多くの社会機能(教育、医療、行政)の充足や投資のために剰余価値と剰余労働時間がいまだ残る移行期についてマルクスが予見したことと完全に整合的だ(ゴータ綱領批判の第一部を参照)。

したがって、「ボリシェビキ体制は、資本主義ではないものの、社会階級と搾取がなくなるというマルクス主義的用法で言うところの「共産主義」となりうるものでもない」という点ではゴダンに同意するが、この批判に意味があるとは思わない。この本に対してもそうだが、ボリシェビキ体制それ自体に対してもだ。というのも、厳密に言えば彼らはマルクス主義的意味での共産主義者を自称したことはないのだ。彼らは自らを共産主義に向けた移行システムであると考えていた。

共産主義についてのマルクスの定義は、人類の「前段階」にとっての興味深い「終着点」であるものの、ほとんどの場合は現実に存在する社会についての議論する際の障害となっていると思う。ゴダンが引用するパネクーク、そしてレーニンもがそう考えたとおり、社会主義体制はある時点において国家資本主義であったが、この議論には途方もない量のインクが費やされた。しかし、これは不毛である以上にほとんど神学論争だ。

資本主義を代替するものは必要か

4つ目の批判は、明示的にそうであると表現されているわけではないが、次の問題に関するものだ。すなわち、資本主義が変化し、別のシステムに取って代わられるためには、明確な代替案が必要であると考えるのは間違っているというものだ。ゴダンは、「経済システムは常に競争関係にあったと主張するブランコ・ミラノビッチの本は問題点をはらんでいる」、「死ぬために競争相手を必要とする資本主義という見方は、冷戦時代の目的論に基づいていると思われる」と書いている。

ゴダンがそのような結論に達してしまったのであれば、それは私の説明が悪かったからに違いない。私は支配的な生産様式の変化が隣接する別の生産様式の存在によってのみもたらされるとは全く考えていない。ゴダンが引用した事例(北イタリアの諸都市とオランダ)のように、変化がシステム自身の内からやってくることには完全に同意する。別の方法で生産を組織するほうがより生産的であれば、それはそれまで支配的だった生産様式を侵食していき、いずれ取って代わり、これに打ち勝つからだ。

リベラル資本主義と政治的資本主義の対立は、どちらかが必ず優越すると主張するために用いたのではない。実のところ、これは1990年代によく見られたフクヤマ的な見解の否定するもので、それが本書の執筆と特に巻末において2つの資本主義の収れんの可能性を提示することに私を導いた理由の一部でもある。ゴダンを引用しよう。「二つの形態がハイブリッド式の一つの形態に合体するという仮説が本書の最後で足早に提起されているが、昨今の展開、すなわち西側における権威主義や汚職の傾向とそれ以外の経済における経済エリート層の発達を踏まえた場合、この説は目を引くものだ。」

最後に、私は資本主義が完全に克服される可能性を排除しているわけではない。しかし、既に触れたとおり、「客観的な」経済の現実が変わらない限り、言い換えれば労働が比較的希少な生産要素とならない限り、そうしたことは想像しえない。思うに、私たちは歴史的な経緯によって、資本の希少性が不可避であり資本所有は常に必ず集中していると信じるよう仕向けられている。有史以来ほとんどの期間に渡ってそうであったことは認めよう。しかし必ずしもそうである必要はない。資本の集中は、課税、労働者の株式保有、さらには(可能な場合には)国有といった、よりずっと幅広い所有を促す政策によって克服できる。それが「人民の資本主義」についての私の定義だ。資本の希少性は、人口の低成長ないしゼロ成長と一緒になって起こる資本蓄積と技術変化によって克服できる。これら2つの変化によって私たちの知る資本主義は終わりを迎えるだろう。しかし、これらは個人の意思とは無関係な変化だ。


以下は過去の関連エントリ

ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』:フランス語版出版に際して、マリアンヌ紙によるインタビュー」(2020年9月11日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』:ブルガリア語版出版記念インタビュー」(2020年12月26日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』ギリシャ語版出版記念インタビュー」(2021年1月16日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』の著者が明かす四つの重要な裏テーマ」(2019年9月24日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』よくある批判への回答:アリッサ・バティストーニの書評について」(2021年5月14日)
ブランコ・ミラノヴィッチ「『資本主義だけ残った』世界の芸術家の役割」(2021年2月8日)

  1. 訳注;経済分野を主とする仏ジャーナリスト。Mediapart所属。元La Tribune紙副編集長。 []
  2. 原注1;Vladimir I. Lenin, Collected Works, vol. 19, p. 87. Paul Sweezy, The present as history, Monthly Review Press, New York, 1953, p. 24による引用。 []
  3. 原注2;1920年7月19日モスクワにおけるコミンテルン第二回大会でのレーニンの演説 []
  4. 原注3;マキャベリ「君主論」第15章 []

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