フィル・アームストロング&ウォーレン・モズラー「現代貨幣理論(MMT)のレンズでみたワイマール共和国のハイパーインフレ」(2020年11月11日)

Weimar Republic Hyperinflation through a Modern Monetary Theory Lens
by Phil Armstrong and Warren Mosler
11/11/2020
翻訳:朴勝俊

抄録

 1922-23年のワイマール・ドイツにおけるハイパーインフレは、「健全財政」のルールで政府を拘束すべきだとする論拠として、主流派経済学者(特にマネタリスト)のお手本とされている。彼らは、政府は必ず分限を超えた支出をする傾向があり、放っておけばインフレは「手に負えなくなり」、ハイパーインフレが起こると主張する。つまり破局的な貨幣価値の崩壊が起こり、それは継続的で、加速的で、止めることが出来ないものだというのである。

 このような主流派の常識的分析とは対照的に、我々はインフレの原因は全く別物だと認識している。持続的で積極的な政策的支援が行われなければ、インフレなど起こらないと考える。そして、そのような政策がなくなればインフレは急速に沈静化するのである。我々は主流派の誤った理論を、物価水準とその変化の決定要因を明らかにする現代貨幣理論(MMT)の知識で置き換える。我々はワイマールに関する歴史家ではないので、包括的な歴史的分析を行うことを目的としているわけではない。我々は、これまで伝えられてきた、ワイマールのハイパーインフレの背景にある因果関係を、それを突然収束させた要因とともに検証する。

 本稿の目的は、これまで伝えられてきた情報を、 MMT の観点から考察することである。  この中で、インフレの原因は、ドイツ政府が政府支出の調達価格を高め続けたことだと明らかにする。それは特に、賠償金支払いのために、連合国が要求した外貨を購入する際の価格上昇である。そして貨幣量の増加と紙幣の増刷は、ハイパーインフレの原因ではなく、むしろ結果であることを示す。 

 本稿は、ワイマール共和国のインフレは、ドイツ政府がライヒスバンクと協働してマネーストックを積極的に拡大させたことに起因するという、主流派の見解に異議を唱えるものである。 第1節では、まず新古典派の視点から、次にMMTの視点から、物価水準の決定要因とインフレの原因を検証する。 第2節では、ワイマールのハイパーインフレを分析する。 第3節では、MMTの洞察をワイマールのハイパーインフレに適用し、我々の代替シナリオを提示する。 第4節で結論を述べる。

1. 物価水準とインフレ

<新古典派アプローチ

 新古典派経済学者は物価水準を、経済における名目(貨幣)物価の現時点での水準と定義している。何が物価水準を変化させるのかを説明しようとした理論は存在したが、変化がどのように起こるのかを説明した新古典派理論は存在しない。基本的には、物価は歴史的なものと仮定されているが、これは無限後退である。新古典派モデルは、貨幣数量理論(QTM, quantity theory of money)を提示して初期の価格水準を単純に仮定している。MV=PTという、トートロジーの式である。これによれば、マネーサプライ(M)に貨幣流通速度(V, velocity)を掛けたものが、様々な取引の平均価格(P, price)と取引の数量(T, transaction)を掛けたものと一致する。Mを外生変数(政府の管理下にあるもの)と仮定し、Vを安定的なものと仮定したうえで、因果関係はMからPにあると主張すれば、インフレの原因に関するフリードマンの有名な説明につながる。すなわち「インフレは、生産量よりも貨幣量の方が急激に増加することによってのみ生じるという意味で、どこでも常に貨幣現象である。… 」(Friedman 1956、強調を追加)。

 しかし、政府が貨幣供給量を固定するという前提は、金本位制下のような、公定相場制のもとでの兌換紙幣のような場合にしか当てはまらない。貨幣数量説は固定相場制にしか適用できない。定められた交換比率での兌換を、政府が保証していない(ワイマール共和国の場合を含む)変動相場制に対しては、全く適用できないのである。

 何十年にもわたって「M」(インフレと相関し、インフレにつながる貨幣の集合体)を探し求めてきたあとで、現在の主流派経済学は、インフレ期待がインフレの原因であるという考え方に至った。彼らはいまだに、所与の物価水準を仮定して分析を開始し、インフレ期待がその物価水準の変化の源泉であると主張している。中央銀行は実際のところ、おかかえの研究者たちが理論の妥当性を示す証拠を見つけられずに苦労している傍らで、政策のよすがとして期待インフレ率を測定する複雑な方法論を開発してきた。 

 さらに注目すべきは、主流派経済学者たちが、実物的要因と名目的(貨幣的)要因という、古典的な二分法を受け入れていることである。彼らは、競争的市場に貨幣を導入することは、物々交換経済にニュメレール(計算の単位)を与えるに過ぎないと主張する。貨幣は、生産量と相対価格を変化させずに、取引の効率を改善する「ベール」に過ぎないというわけである(Armstrong 2015; Armstrong and Siddiqui 2019)。この前提は、貨幣の中立性として知られている。しかし、この中立性の前提は、強制的な課税が導入されると、取り除かれることになる。

<現代貨幣理論(MMT)

 現代貨幣理論(MMT)は、納税や純貯蓄のための資金は、政府とその関係機関からのみ発生するものと認識している(Bell 1998)。通貨〔currency, 現金のこと〕は公的独占であるため、価格水準は必然的に政府の調達価格の関数となるというのが、論理の要点である(Mosler 1993)。別の言い方をすれば、通貨の価値は、経済主体が政府と関係機関から直接・間接に通貨を手に入れるために、何をせねばならないかの関数である。通貨が公的独占(不完全競争)であれば、主流派の数量理論やインフレ期待論、貨幣の中立性は適用できない。  

 通貨が公的独占であれば、市場経済の文脈では、政府が1つの価格を設定さえすれば、市場の力によって他の全て価格が調整され、無差別水準や相対価値と呼ばれるものが決められる(Tcherneva 2002)。

 通貨の価値は、一定量の通貨で何が買えるかによって定義される。そのため例えば、政府が現在の価格で購入量を増やしたとき、支出された貨幣の量に関係なく、追加的支出が物価を押し上げることがなければ、通貨の価値は変化しなかったことになる。 しかし、同じ商品を購入するために政府がより高い価格を支払う場合には、同じ量を購入するにはそれまで以上の通貨が必要になるため、定義上、通貨の価値は低くなる [1]2つの極端な例を考えよう。 第1の例として、政府が昨年に比べて、今年はモノやサービスの調達価格を上げないと決めたとしよう。 … Continue reading

 実際には、政府はバッファ・ストック政策〔種々の備蓄政策〕を利用する。 バッファ・ストック政策では、政府がバッファ・ストック商品の価格を設定すれば、市場の力によって他のすべての価格が、バッファ・ストック商品の価格と無差別な水準に決まる(私たちはのちに、様々なモノの価格決定に影響を与える制度構造が様々に存在することを確認する)。この論理は、固定相場制と変動相場制の両方に適応できる。例えば金本位制においては、政府は金の価格を設定し、財政・金融政策を実施することで、信頼性の高い金保有のバッファ・ストックを維持する一方で、固定価格で金を売買することを約束して、他の様々な価格が連続的に調整され、相対価値を反映するようにしていた。現在の変動相場制では、政府は金融・財政政策を用いて、信頼性の高い失業者のバッファ・ストックを維持して賃金を安定させる一方で、他の物価が相対価値を反映するよう調整されるようにしている [2]MMTは、物価安定のために採用された緩衝材(ジョブギャランティ)を活用した分析のベースケースからスタートする。 。したがって、バッファ・ストック政策の文脈では、インフレとは、政府とその関係機関が設定したバッファ・ストック商品の価格が、直接・間接に、継続的に上昇することである(Mosler and Silipo 2017)。

 ワイマール共和国では、ドイツ・マルクが不換通貨であったため、金利は政策的に決定されていた。そして皮肉なことに、マルクを支えるために政策金利が急激に引き上げられたことは、2つのチャネルを通じてインフレを悪化させるように作用した。 1つ目は、金利所得チャネルである。政府による金利支払いは経済の追加所得となり、赤字支出と総需要をともに増加させた。2つ目は、フォワード・プライシング〔将来価格の約束〕である。将来納入されるモノやサービスの価格が、金利に応じて上昇するものとされたのである。 

2. ワイマール共和国のハイパーインフレ

<賠償金とインフレ>

 1919 年の休戦後にドイツに対して請求された戦争賠償金により、2 つの議論が生まれた。第一は「予算問題」であり、要求された賠償金を支払う能力がドイツにあるかどうかを問題にするものである(Keynes 1919; Rueff 1926; Mantoux 1946)。第二は「送金問題」であり、連合国への支払いのためにドイツの貨幣を外貨に交換することについての、懸念の現れである(Keynes 1929; Ohlin 1929)。「ドーズ委員会は、ドイツの賠償金の支払いを 2 つの部分に分けた。それは、ドイツ国民のポケットから必要な金額を引き出して賠償支払総務官(Agent-General)の口座に支払う予算問題と、そうして受け取ったドイツの貨幣を外貨に交換することに関する送金問題である」(Keynes 1949 [1929]: 161, 強調は原典).

 ケインズは送金問題の重要性を強調し、ドイツ当局が課税によってドイツ国内の消費を十分に削減できたとしても、それによって解放された資源は、必ずしも連合国の賠償要求を満たすために必要な、輸出の増加を生み出すとは限らないと主張している。ケインズは、それに加えて何かが必要であり、ドイツの賃金率を十分に下げて、輸出品を競争力のあるものにしなければならないと主張している。「ドイツの人々の支出は、賠償金支払のための課税の分だけ抑制されればよい、という話ではなく、黄金で測った収入の〔目減りの〕分だけ抑制されなければならない。…予算問題はドイツ国民の富と繁栄に依存し、送金問題は国際市場におけるドイツの産業の競争力に依存する」(ケインズ 1949 [1929]:165、強調は原典)。

 ケインズは、送金問題が解決できるかどうかについては悲観的だった。ケインズは、ドイツの輸出を十分に増加させるためには、賃金の大幅な引き下げが必要であると考えていた。彼は次のように記している。「私自身の見立てでは、ある時点におけるある国の経済構造は、近隣国の経済構造との関係で、ある種の「自然的」水準の輸出を可能とする。そしてこの水準を、人為的な手段で恣意的に変更することは、極めて難しい」(ケインズ 1949 [1929]:167)。

 オーリンはケインズの見解に反対し、価格を少し引き下げれば、輸出収入は大幅に増加する可能性があると主張した。「…ドイツ産品のうち「輸出可能性」の境界線上にあるものは、10%も価格が下落すれば、大量に輸出できるであろう。したがって30%や40%、50%の輸出増は不可能ではないと思われる」(Ohlin 1949 [1929]: 176)。彼はまた、輸出を増やそうとする国が直面している課題の大きさを、ケインズが大幅に過大評価していると考えた。「私が思うに、ドイツが貿易黒字を出すことの難しさを、多くの人々が過大評価しがちなのは、すでに巨額の輸出を行っていて、外国での売上を増やすのが難しいような、「実践的」なビジネスマンの印象である。しかし、この印象は誤解につながる。なぜなら、これは需要条件が不変であるという暗黙の前提に基づいており、また、多くの企業がほとんどなにも輸出していない状態から、5年か6年で、外国で相当の売上をあげる状態に移行しうる可能性を、無視しているためである」(Ohlin 1949 [1929]: 176)。

 Ormazabal (2008)は、予算問題と送金問題を統一し、ケインズとオーリンの両方を批判している。彼は、連合国に送金するのに十分なモノやサービスを調達するためには、ドイツ人の消費を減らすために、増税が必要だと考える。「ドイツ人が消費をやめるのは、お金を手放すからだと理解される」(Ormazabal 2008: 10)。彼はさらに、ドイツからの輸出品を購入するために必要なドイツの通貨が、賠償支払総務官 [3]賠償支払総務官(Agent … Continue reading が外貨と交換するドイツの通貨と同程度であれば、賠償金支払のためにドイツの資金を賠償支払総務官に送金しても、外国為替市場は不安定化しないだろう、と述べている(Ormazabal 2008: 10)。しかし、ドイツの税金が消費を抑えるのに十分でなければ、輸出売上が十分でなくなり、マルクの為替レートが下落する。またドイツにとって、為替レートが下がれば、ドイツが(賠償支払総務官を通じて)賠償債務を履行するために必要な外貨を、手に入れることがますます苦しくなるであろう。

 総じて我々はこの要約に同意する。それはMMT の洞察力によってさらに強められる。課税の水準が非常に低かったために、賠償金の支払いによって、ドイツの赤字支出が増加した。さらにインフレ対策のための金利引き上げは、赤字をさらに拡大させた(これは正統派の物語では無視されていた点である;付録 2 を参照)。また,この赤字支出は,実物のモノやサービスの購入や、利子の支払いのためだけではなく、賠償支払総務官による外貨購入のためにも使われたことを指摘しておきたい。外貨(および金)の購入は、機能的には赤字支出であるが、そのように会計処理されておらず、中央銀行による資産購入として処理された。従って実際問題として、公表された会計資料は赤字の大きさを過小評価していると、我々は主張する。重要なことは、課税額と納税コンプライアンスが不十分であったために、ドイツの外貨購入は、どんどん価格がつり上がる中で行われたということである。MMTはここに重要な洞察を与える。すなわち、物価上昇の原因は支払い価格の上昇であった。実質賃金が十分に低下して、国内消費が減り、輸出が増加していれば、ドイツはより高い価格を支払うことなく、必要な外貨を購入することができたであろう。

<ロンドンの最後通牒とフランスの侵攻、そして1922-23年のハイパーインフレ>

 卸売物価は 1920 年 2 月までに、1913 年の水準の 17 倍になった(Hetzel 2002: 4)。しかし1920 年 3 月以降は比較的安定していた。ヘッツェルは「実質支出が安定的であれば、経済成長によって税収が増加し、予算が均衡したであろう」(Hetzel 2002: 5)と述べた。年あたりの賠償額を 22 億 4,000 万マルクと仮定すれば、マティアス・エルツベルガー(財務大臣)が導入した税制改革によって、均衡予算が実現しえたというのである。しかし我々は、金利支払いによって赤字が増えたことを重視し、低金利政策が実施・維持されることが、この楽観的な見方の前提であると主張する。

 いずれにしても、1921 年 5 月のロンドン・スケジュール(いわゆる最後通牒)によって、賠償要求額が劇的に増加した [4]1921 年 5 月のロンドン最後通牒は、連合国による賠償金の要求総額を 1,320 … Continue reading 。増税要求は、すでに低かった国内の生活水準を一層低下させるものである。ドイツ政府は要求に抵抗し、十分な増税を行わなかった。その代わりに赤字支出の増加が容認され、結果として、為替レートの下落が続いた。そして賠償支払総務官が、購入する外貨に支払う価格を高め続けたので、為替レートがさらに低下し、ドイツの物価水準は上昇を続けた(付録 3 参照)。1922 年から 1923 年にかけてインフレが加速すると、政府はそれに対応するために、物価上昇に応じて支出を増加させた(為替レートの下落に歯止めをかける目的で実施された高金利政策によって金利支払いが増えたことも、これに含まれる [5]「戦争の初期から 1922 年 6 月末まで、ライヒスバンク(帝国銀行)の金利は 5%のままであった。それがその年の7 月には 6%に、8 月には 7%に、9 … Continue reading )。相当の為替投機が行われたことで、マルクはさらに大幅に減価し、物価が急上昇した(Hetzel 2002: 5) 〔訳注: 筆者はこの段落で、1922年5月にドイツ帝国銀行に対して政府からの「独立性」が与えられた事実には触れていない〕。

  さらに悪いことに、ドイツは1922年後半にフランスの支払い要求に応じられなかったため、フランスは(ベルギーの支援を受けて)1923年1月にルール地方に侵攻し、石炭などによる物納を要求した。これに対してドイツ政府は、侵攻によって生産量が減少していたにもかかわらず、ルールの労働者や企業に対して、赤字支出による財政支援を続けた。その結果、1922年8月に始まったハイパーインフレは、さらに加速し、1923 年 11 月まで続いた(Cagan 1956)(付録 3 参照)。

<ヘルファーリヒによるワイマール・ハイパーインフレのストーリー>

 ヘルファーリヒ(Helferrich)は [6]興味深いことに、ヘルファーリヒの博士論文は、『貨幣国定学説』(The State Theory of Money, 1905 [trans … Continue reading 有名な著作『貨幣』(Geld, Money)の中で、戦後インフレの原動力は、連合国に対する賠償に加えて、ドイツの資本の破壊や労働生産性の大幅な低下にもかかわらず、戦前の生活水準を維持しようとする労働者であったとしている。

 しかし〔労働者たちは〕快適度を高めつつ労働強度を下げるよう要求し、これを認めさせた。その結果はただ一つ、ここ数年で我々が目の当たりにした、賃金と物価の競争であった。労働者の社会的・政治的立場は十分に強く、労働量を減らしつつも、賃金を引上げさせることができた。資本の利益は最小化していたので、製品価格を上げられる場合にのみ、賃上げに応じることができた。しかし、価格の上昇は生活費を引き上げ、賃金の上昇に対する新たな要求をもたらし、その結果、価格のさらなる上昇につながった(Helfferich 1969 [1927: 597])。

 これはMMTのインフレ・ストーリーとも合致している。これは通貨価値が下がる時に、政府が労働に対してより高い賃金を支払う事例である。民間部門の労働に対する賃金の上昇は、直接・間接に、政府が調達価格をどんどん引き上げることによって、可能となる。

 ヘルファーリヒはここで、マルク暴落が一般物価水準に影響の与えたのは、外貨に支払う価格が上昇した結果であり、一般物価水準の上昇の後を追ってマネーサプライが増えたことを説明している。

 ドイツ通貨の崩壊は、金の為替レートの高騰に現れたが、その必然的・直接的結果として、通貨価値の高い国々からドイツが輸入したすべての商品の価格が上昇した。国民を食わせるためにも、ドイツの産業に原料を供給するためにも、輸入品の価格上昇は必然的に賃金や給料に反映され、最終的には国内で生産される商品の価格に反映されることになった。…賃金・俸給の上昇は、原料価格の高騰と結びついて、当然に政府(ライヒ)の歳出と歳入の相応の増加につながった [7]データはHelfferich (1969 [1927]: 617)によって提供された。 。流動負債も増加し、政府に対する繰り上償還要求(call)も増えた。…ドイツ国民や金融が満期債券の繰上償還をライヒスバンクに求めたが、これは銀行券の増発によって対応するほかなかった。銀行券は、1922 年 7 月7日には1730億マルクだったが、1923 年 1 月31日には1兆9840億マルクに達した」(Helfferich 1969 [1927]600-1)。600-1).

 ヘルファーリヒは新古典派やマネタリストとは対照的に、金本位制が終了したことによって、物価上昇に伴う貨幣需要の増加に対応するため、マネーサプライが物価上昇に追従できるようになったと認識している。これは決済システムが技術的に機能するためには不可欠なものであり,インフレとは何の関係もなかった(Helfferich 1969 [1927] 597-8)。ヘルファーリヒは続いて「…ロンドン最後通牒受諾後の 20 ヶ月のあいだに、…ライヒスバンクの紙幣発行額は 23 倍に、国産品の卸売物価指数は 226 倍に、輸入物価指数は 353 倍に、ドル為替レートは 346 倍になった」(Helfferich 1969 [1927] 598-9)と記している。さらに彼は述べる「… 実際のところ、ドイツの場合には紙幣流通量の増加は物価上昇に先行しておらず、それにかなり遅れてゆっくりと後追いしていたことが、ただちに明らかである。…これらの変化を引き起こした様々な原因の相互作用を、一般的・包括的に理解するためには、外国為替を出発点して考えなければならない」(Helfferich 1969 [1927]: 599、括弧付き)。  

 ヘルファーリヒは、貨幣流通量の増加が、ドイツ通貨の減価のスピードに追いついていなかったと論じる。すなわち、紙幣流通量の増加は、明らかにマルクの減価の主な原因ではなかったとの主張である。皮肉なことに、紙幣の印刷量が大幅に増加したにもかかわらず、貨幣は不足していたのである。「このことはまた、1922 年中頃に始まった壊滅的なマルク暴落が、紙幣の氾濫にもかかわらず、深刻な貨幣不足を伴っていた理由をも説明している」(Helfferich 1969 [1927] 599)。

 ヘルファーリヒは、紙幣の印刷がインフレの原因ではないという彼の主張を、1923 年の出来事を検討することによって補強している。彼によれば、マルク為替相場の改善によって、紙幣が大幅に増加したにもかかわらず、物価は下がったのである。

 為替相場が改善すると、物価が下がった [8]Helfferichは記すノート(1969 [1927]: … Continue reading 。輸入物価の下落が最も顕著であったが、これはそれまでは金為替相場の上昇に、直接かつ完全に追従していたものである。国産品物価の下落はそれほど顕著ではなかったが、これはそれまで、為替相場の上昇に応じて同程度の調整を行ってこなかったためである。しかし為替相場と物価が下落する一方で、紙幣発行量はこの 10 週間(1923 年 1 月末から 4 月まで)の間に、3 倍にも増加していた」(Helfferich 1969 [1927]:602、括弧部分は筆者加筆)。

 ヘルファーリヒは十分に、紙幣の需要に見合うだけの貨幣供給量の増加を拒否するようなことは、ドイツ政府にとって可能な選択肢ではなかったことを認識していた。そんなことをすれば、インフレと通貨安を抑制するどころか、決済システムと経済の全体が、直ちに停止したであろう。

 そんな対応(貨幣の供給を需要に合わせることを拒否すること)がもし行われたら、制御不能な危機や大惨事が発生したであろう。もしドイツ通貨に悪影響を与える要因が作動し続けている間に、善良な助言に従って紙幣印刷機を止めたならば、ドイツ経済から、給料や賃金の支払いや、貿易などに必要不可欠な取引媒体が奪い去られることになる。ただちに、地方自治体や政府は債権者や労働者に対する支払いができなくなるのである。そうなると数週間後には、印刷機だけでなく、鉱山や工場、鉄道、郵便局、そして政府や時自体が停止するであろう。要するに、共同体と経済の全てが停止するのである。(Helfferich 1969 [1927]: 602、括弧部分は筆者加筆)

 興味深いことに、ヘルファーリヒは連合国の要求に対する反対の意思を、止むにやまれず、追加のコメントで表現している。 「国家の経済活動と、そして社会が崩壊すれば、ドイツという国にはこの巨額の賠償要求に応じる能力があるという馬鹿げた考え方がなくなって、その悪の根源も破壊されるであろう」(Helfferich 1949 [1927]: 603-604)

ハイパーインフレの終焉>

 商業銀行の銀行預金通貨の内生性は、政府が規制をし、信用創造を監督していることによって制約されている。規制にはレバレッジの制限や、借り手の信用・担保の要件などが含まれる。その意味では、政府の行動の結果として、民間銀行の信用が拡大し、支出が下支えされた場合には、それは大まかに言って政府支出に準ずる。 したがって、民間経済主体が高い価格を支払うのを、政府が促進した場合には、政府が通貨の切り下げを行ったも同然である。ハイパーインフレ期には、ドイツ政府は信用に対する全需要を満たすことに合意していた。直接的には政府自身の信用需要を満たし、間接的には、民間部門の信用創造に対する規制基準や制限をわざと骨抜きにした。これが、これがハイパーインフレ期の物価上昇の一因となったのである。したがって、公的部門と民間部門の信用創造を改めて管理することは、ハイパーインフレを終結させるための前提条件であった。シャハトがライヒスバンクを引き継いだときには、この課題を認識していた。

 Schacht (1967: 68) は,最初の問題を「緊急貨幣」の取り扱いだと考えていた。「したがって、マルクの安定化に向けた最初の一歩は、1923年11月17日にライヒスバンクが発布した、11月22日以降の緊急貨幣の受け取りを拒否する命令であった。これらの紙幣の所持者には4日間の猶予が与えられ、ライヒスバンクの金庫に眠っていた緊急貨幣を償還することができるようになった」(Schacht 1967: 68)。ライヒスバンクはハイパーインフレのさなか、需要に見合うだけの紙幣を生産することができなかったため、必要な紙幣を生産する民間企業に、彼らの紙幣の償還に応じることで便宜を図っていたのであった [9]シャハトは「緊急貨幣(emergency money, … Continue reading 。さらに、帝国銀行は貨幣の流通を外部に委託していただけでなく、信用制度の規制も停止していたのであった。

 シャハトは激しい批判の中でも、自らの政策を堅持した。「通貨委員として、緊急通貨を発行する者たちの議論に参加しなければならなかったときも、私は自分の目的を見失わないようにした。緊急貨幣は消滅した。私が断固とした態度をとったことで、産業人や自治体から嫌われたとしても、それは私が背負うべき十字架だ。…これ(この政策)によって私に対する共感は減り、今日でも忘れられていない」(Schacht 1967: 68-9、括弧部分は筆者加筆)。

 また、シャハトはマルクの安定化を図るために、投機目的のマルク使用につながる融資を禁止し、さらに、新通貨であるレンテンマルクを、海外での債務決済に使用できないものとした。また、シャハトは危機を打開するためには、ライヒ(政府)と民間企業の赤字支出を削減することが必要だと認識していた。シャハトは、この政策の成功に貢献した政府、特に財務大臣の断固たる姿勢を高く評価していた。「ライヒ政府が中央銀行から融資を受けることが許されなくなったことが、これ(この政策)に寄与した。また、この制限が成功したことは、かなりの部分、ライヒ財務大臣ルター氏のおかげである。彼は、ライヒスバンクと同じぐらい、圧力を前にしても決然としていた」(Schahat 1967: 70、括弧部分は筆者が追加)。しかしシャハトは、産業界から信用を取り上げることは正当化が難しく、そのような方法は中央銀行の中心的な目的に反しているように思われることを、認めている。とはいえ、ライヒスバンクは新体制の下で、産業界の信用需要を満たすことができなくなっていた (Schacht 1967: 70-71)。

 政府の赤字支出の削減(金利支払いの大幅な削減を含む)とともに、民間部門の赤字支出の削減によって、政府はそれまでのように、調達価格をどんどんつり上げて政府支出を行わなくてもよくなった。外貨の価格も含めて、政府が支払う価格を抑制したためである。

 マルクの安定化には、二番目の障害があった。1923年11月20日、ライヒスバンクは1ドル=42億マルクの為替レートを維持することを決定した [10]「このレートは会計上の理由で選ばれた 平時の為替レートは1ドル=4.2マルクだった。このため、今では42 … Continue reading 。…しかし、投機屋たちは、ライヒスバンクがこの為替レートをいつまでも維持できるとは考えておらず、もっと高い為替レートでドルを買いまくった。11月末には、ドルはケルンの自由市場で1ドル=120億マルクのレートに達した。…前年は、こうした投機はライヒスバンクが潤沢に供給する融資か、誰かが勝手に刷ってライヒスマルクに交換する緊急貨幣によって賄われていた。しかしここで、3つのことが起こった。緊急貨幣は価値を失っていた(それは、もはやライヒスマルクと交換できなかった)。ライヒスバンクから容易に受けられた融資は、もはや認められなかった。そしてレンテンマルクは海外で使えなかった(レンテンマルクの発行に関する規定の中には、外国人にレンテンマルクを譲渡することを禁じるものがあったためである)。これらの理由から、投機屋たちはドル購入の支払い期日に、支払いができなくなった。彼らはドルの売り戻しを強いられたが、ライヒスバンクは1ドル=42億マルクの公定レート以上を支払おうとしなかった。投機屋は莫大な損失を出した。10日後には、ライヒスバンクが定めた1ドル=42億マルクのレートは、おのずと定着した。その措置の設計も、私の人気にはつながらなかった。ここで初めてライヒスバンクは、退蔵されていた外貨を、自らの金庫に取り戻したのである(Schacht 1967: 69-70)。

 ライヒスバンクが産業界の信用需要に応じる意思を抑えようとしなかったことが、シャハトの努力の全てを無駄にする恐れがあったと、彼は指摘している。1923年末には新たな危機の恐れが強まり、ライヒスバンクは産業界に対して、妥協のない態度を示さざるをえなくなった。外国為替の購入注文には、ドイツ通貨の完全なる裏付けが必要だと主張した(この指示は、それまでしばしば無視されていた)。これに従わない銀行は、ライヒスバンクの手形割引・清算制度から排除されると脅したのである。このような厳しい措置は、当然のことながら議論を呼んだ。シャハトによれば、1924年に帝国銀行は、これまで成功を示し、マルクを支える可能性が高く、深刻なインフレの再発を防ぐアプローチを続けるほかに、選択肢はなかった。幸いなことに、シャハトが示したように、この方法は最終的に、ドイツの物価安定の回復に成功した。

 その間、経済の信用需要は増大し、ライヒスバンクがどのような決定を下しても、深刻な不利益をもたらしかねないことになった。ライヒスバンクは、信用供給を増やす(そしてマルクの価値の下落と再度のインフレを許す)か、マルク価値の安定を保つか、二者択一を迫られた。ライヒスバンクはマルクの安定性を重視した。1924年4月5日には、4月7日以降はいかなる種類の新規信用供与も認めず、為替手形の新規割引もすべて停止するという勅令が出された。当然のことながらこの介入は、中央銀行のすべての伝統に反するもので、大きな反発を引き起こした。ライヒスバンクは嵐のような反発に、毅然とした態度で臨んだ。それが成功し、その正しさが示された [11]Schacht (1967: 72) は積極的に論じている。「信用制限による苦しい時期は、 2 … Continue reading (Schacht 1967: 72)。

 しかしこの「成功」の実物的代償も大きかった。シャハトの法令によって総需要が低下し、失業が大幅に増えたのである [12] … Continue reading 。これによって我々は、(支出の)量を制限し、物価水準を調整に任せるというシャハトの努力は「行きすぎ」だったと主張したくなる。ドイツ政府が価格を抑えながら政府支出をしていれば、この「ハードランディング」は緩和できたかもしれない。例えば、賠償支払総務官は外貨に支払う価格を制限できたかもしれないし、ドイツ政府はモノやサービスに支払う価格を抑制できたかもしれない。ドイツの人々が税金を支払うための資金は、ドイツ政府の支出から直接・間接に生じるものであるため、政府の調達価格の伸びを、物価安定目標の範囲内に制限することによって、物価水準の上昇を抑制し、(調達価格の制限によって)赤字支出を抑制できたであろう。一般に、独占者にとって、価格を設定した上でおのずと量を調整させることが、最も有利である。

 1924 年のドーズ計画 [13] … Continue reading が、連合国への賠償金をリスケジュール(再編)し、ルール占領を終らせて、政策実行の余地をシャハトに与えたことも、強調しておくべきであろう。その結果、ワイマール政府の通貨価値安定能力に信頼が高まったことは、物価安定に向けたシャハトとライヒの努力を支えることとなった(Schacht 1927: 166-88) [14] … Continue reading

3. MMTの視点

 第 1 節で述べたようにMMT は、通貨自体が公的独占であり、通貨の価値は、政府が支出する際の調達価格の関数であると認識している(Mosler 2020; Armstrong 2020)。したがって、政府が特定のものに対して従来よりも高い金額を支払うと、通貨価値が下落することになる。これには、中央銀行による外貨(および金)の購入も含まれる。

 逆もまた真なりである。政府が高い価格を支払うことを拒否した場合、政府支出が減少すれば、納税や金融資産の純貯蓄のニーズを満たす資金が、経済に残らない。重要なことは、納税や純貯蓄のための資金は政府とその関係機関からしか得られないため、市場の力が作用すれば、必要な資金を得ようとする非政府部門は、政府に販売するものを値下げせざるを得ない。

 主流派は、政府が無から貨幣を創って支出すれば、それ自体がインフレをもたらすと主張するが、MMTは、重要な要因は政府の調達価格であると主張する供給余力が十分あるときに、現在の価格で政府が純支出を行う場合、それはインフレをもたらさない。しかし、より高い価格でなければ追加支出ができない場合、その支出はそれ自体が物価上昇をもたらす。インフレは、政府が継続的に高い価格を支払うことで、民間企業と競争することの結果である。もし、政府が従来どおりの価格でリソースを購入できるならば、それはインフレをもたらさない。しかし完全雇用においては、政府が必要なリソースを民間から移転させようとすれば、調達価格を引き上げる必要があるため、通貨価値を引き下げることになるのである。

 ワイマールのハイパーインフレの場合、MMT論者もヘルファーリヒ (Helferrich 1969 [1927])と同様に、ロンドン最後通牒の受諾のニュースが流れたことによって、マルクの投機売りと暴落が引き起こされ、ドイツ政府も(輸出業者から直接に、あるいは賠償支払総務官を通じて [15] … Continue reading )、高まる市場価格に応じて外貨を購入することとなり、マルク価値を継続的に切り下げることとなったと考えている。そして、それに応じて輸入物価が上昇し、政府が公務員や取引先にじかに高い給料や価格を支払ったり、民間部門で労働組合の力による賃上げを通じて高い価格が支払えるようになったことが、ドイツ国内物価のインフレの原因となったのである。

 ドイツ政府は限られた生産物を獲得するために、民間部門の買い手と競り合って、調達価格を引き上げたのである。その民間部門の買い手は、直接・間接に政府資金を受けていた。このプロセスは、ドイツの金利政策によって悪化し、政府の財政赤字をさらに増大させた(付録 1 参照)。名目額の政府収入が、政府支出に追いつかなかったのである(Hetzel 2002)。そして財政赤字の「超拡大」によって、物価水準のハイパーインフレを支えた。財政赤字によって、非政府部門の名目可処分所得が大幅に増加し、物価がどんどん上がっても、民間部門は支出を増やすことができたのである。しかしながら、財政赤字は本質的にインフレを引き起こすものではないということを、私たちは強調したい。インフレのプロセスが続くのは、政府が調達価格をどんどん上げて、モノやサービスの調達をする意思がある場合だけである。上述のように、市場価格の上昇に応じて調達価格を引き上げることを政府が拒否すれば、インフレは解消される。政府が調達価格を引き上げ続ける場合にのみ、通貨価値が下落して、インフレが起こるのである。

4. 結論

 通貨は公的独占であり、独占者は価格設定者である。そのため、物価水準は政府の調達価格の関数となる。ワイマールのインフレは、他の場合のインフレと同様、ドイツ政府が物資を調達するために、調達価格をどんどん引き上げ、通貨価値を継続的に下落させたことのよって起こった。その政策が変わり、政府が直接・間接の赤字支出を制限すると、物価上昇が止まった。インフレが続くためには、政府が支出を行うさいに調達価格をどんどん引き上げる政策が必要であり、そのような政策が終わればインフレは止まるのである。   

付録1

政府赤字と歳入、歳出の実質額

(四半期ごと、1913年基準百万マルク)

四半期 赤字 歳入 歳出 賠償金支払い
1919 I 1501 NA NA 0
         II 3394 987 4381 0
         III 1977 854 2831 0
         IV 780 653 1432 0
1920   I 348 397 745 0
         II 1188 542 1730 0
         III 1648 843 2490 0
        IV 743 1389 2132 0
1921   I 196 1904 2100 0
         II 1816 1819 3635 319
         III 1230 1410 2640 451
        IV 916 1103 2019 460
1922  I 499 1205 1703 347
         II 297 1293 1590 177
         III 585 888 1473 92
        IV 826 646 1472 149
1923  I 1054 628 1682 99
         II 1091 743 1798 30
         III 2645 415 3062 6
         IV 1928 803 2730 0
1924   I 177 1947 2124 0

注: 四半期ごとの各項目は、月別平均卸売物価指数(1913年=1)で物価調整された、月次の数字の合計である。

赤字: 国債と国庫短期証券(T-bills)の発行額で計算された政府債務の変動分であるが、ライヒスバンクにおいて政府預金を裏付けるT-billsは計算に含めない。月次の国債総額は、年額の数字から内挿した。

歳入: (強制融資Zwangsanleihe含む)税収と、国営鉄道収入および郵便収入を加えたもの。

歳出: 収入+赤字。

賠償金支払: 毎月の賠償金支払額 。

[Primary] Sources: Allied Powers, Reparation Commission, Deutschlands Wirtschaft, Wahrung und Finanzen (Berlin, 1924), pp. 29, 62; Statistisches Reichsamt, Zahlen zur Geldentwertunq in Deutschland 1914 bis 1923, Sonderhefte 1 zu Wirtschaft und Statistik (Berlin, 1925), pp. 45-51; Wirtschaft und Statistik, 1-4 (1921-1924), passim; Armd Jessen, Finanzen, Defizit und Notenpresse 1914-1922 (Berlin, 1923), Table 6; Bundesarchiv, Koblenz [BAK] Reichsfinanzministerium R2/2659, R2/2795;BAK, Reichskanzlei R431/2357; Zentrales Staatsarchiv, Potsdam [ZSa] Reichsschatzministerium

22.01/3488. For further details, see Webb, “Revenue and Spending.”’

表と注の出典: Webb (1989: 779、括弧部分は追加した)。

付録2

ライヒの歳入と歳出、1920-1923年

※訳注: 左から、年度、月、歳入(税、流動性負債、諸口勘定、合計)、歳出(負債返済、流動性負債の利払、国営鉄道への出資金、ベルサイユ条約の履行、その他の歳出項目、合計)、歳入総額(=歳出総額)に占める税収の割合。

「この表は、生計費指数と卸売物価指数、およびドル指数について計算された、3組の数値の平均値である。元々の数値は、百万マルクないしは十万マルク単位で示されている。小数点以下第1位までしか示されていないため、3組の平均をとれば、各項目の合計値と総計との間に若干のズレが生じる。上の表では小数点以下を省略しているが、合計の整合性を保つために若干の修正を行った。オリジナルの表の整合性には改善の余地があり、ここでは若干の細かな調整が必要であった」、Graham (1930: 41).

表と注の出典。Graham (1930: 41)。

付録3

卸売物価指数と為替レートの変化率(月次、1922-23年)

月間上昇率(%)

為替レート 卸売物価指数
1922 1 9 8
  2 12 20
  3 29 22
  4 -7 9
  5 -2 5
  6 30 22
  7 58 50
  8 95 52
  9 -4 54
  10 100 48
  11 53 66
  12 -4 17
1923 1 190 112
  2 -77 13
  3 -8 -7
  4 35 21
  5 85 58
  6 80 103
  7 196 181
  8 224 247
  9 274 342
  10 612 592

 Webb 1986: 776-77 より引用。

注: 変化率は、月末から翌月末までの連続複利(対数)変化率である。卸売物価指数については、月末値は、対数線形的に補完を行っている」(Webb 1986: 777)

参考文献

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References

References
1 2つの極端な例を考えよう。 第1の例として、政府が昨年に比べて、今年はモノやサービスの調達価格を上げないと決めたとしよう。 他方で、民間部門は政府に提供するモノやサービスの価格をすべて引き上げたとしよう。その場合には、政府の支出は、例えば5兆ドルから0になる〔民間は政府にモノを売らないため〕。 そうすると民間主体は、例えば4兆ドルの税金を支払うために必要な(そして、さらに1兆ドルの純貯蓄を行うのに必要な)資金が得られなくなる。これは、強いデフレ的なインパクトを発生させるため、民間主体は不本意ながらも価格を引き下げて、政府から5兆ドルの売上が得られるようにするであろう。第2の例として、政府が公務員全員と、政府の契約先や取引先の従業員全員の給与を、増税もせずに時給100万ドルまで引き上げて、それに応じて財政赤字をいくらでも増やすとしよう。明らかにこれは、一般物価をそれに応じて上昇させる、強いインフレを引き起こす出来事となろう。
2 MMTは、物価安定のために採用された緩衝材(ジョブギャランティ)を活用した分析のベースケースからスタートする。
3 賠償支払総務官(Agent General)は、ドイツ政府に対して賠償金を集めるように圧力をかけ、受け取った貨幣が外貨に交換されるのを管理する主体であった(Ormazabal 2008: 7)。
4 1921 年 5 月のロンドン最後通牒は、連合国による賠償金の要求総額を 1,320 億金マルクと定めた。3種類の債券(「Aシリーズ」、「Bシリーズ」、「Cシリーズ」と呼ばれる)の発行と、それを賠償委員会に引き渡すことが求められた。AシリーズとBシリーズの債券は、ドイツから500億マルク(125億米ドル)の無条件支払いを要求するものであった。「Cシリーズ」の債権に関する支払いは、ドイツの支払い能力に対する連合国の評価に関連づけられた(Federal Reserve Bulletin 1921)。
5 「戦争の初期から 1922 年 6 月末まで、ライヒスバンク(帝国銀行)の金利は 5%のままであった。それがその年の7 月には 6%に、8 月には 7%に、9 月には 8%に、 11 月には 10%に引き上げられた。1923 年 1 月には 12%、4 月には 18%、8 月には 30%、9 月には 90%となった。しかし、これらの上昇は、融資期間中に返済負担がだんだんと軽くなったことと合わせて考えれば、大したことではなかった。1923 年 9 月以降は、銀行や個人がライヒスバンクからの融資を受けるためには、年率 900%の金利を支払わなければならなかったが、これは借入に対する抑止力にはならなかった」(Graham 1930: 65)。シャハトは、インフレ収束後に金利がどのように低下したかについて、次のように述べている。「1924年の初めには、公開市場では年率100%の金利が珍しくなく、普通の金利であったと言えよう。一方、ライヒスバンクはインフレ収束後に金利を10%に固定したため、民間の金利も直ちにこれにならった」(Schacht 1927: 202)。
6 興味深いことに、ヘルファーリヒの博士論文は、『貨幣国定学説』(The State Theory of Money, 1905 [trans 1924])の著者であるゲオルク・フリードリッヒ・クナップの指導を受けた。「『貨幣』は、20世紀初頭のドイツ語圏における貨幣問題に関する標準書であった…」(Greitens 2020: 7-9)。
7 データはHelfferich (1969 [1927]: 617)によって提供された。
8 Helfferichは記すノート(1969 [1927]: 601)1ドルあたりのペーパーマークの数は、1月下旬に約50000から直後の数ヶ月で22000に減少し、その「その数字でのおおよその安定化」。
9 シャハトは「緊急貨幣(emergency money, Notgeld)」について、こう述べている。「戦前には、ライヒスバンクの印刷機はすべての紙幣を印刷していたが、1923年には、1783台の機械を備えた133の印刷会社が需要を満たすために必要とされた。30社以上の製紙会社が、ライヒスバンク紙幣用の紙を供給するためだけにフル稼働で働いていた。しかし、この膨大な生産量でさえも、ライヒスバンクは需要を満たすのに十分な紙幣を提供することができなかった。そのため自治体や大企業に、独自の緊急紙幣の流通を依頼せねばならなかった。そのような場合、緊急用の紙幣をライヒスバンクの紙幣と全く同様に、償還することを保証した。1922年末までに流通していた緊急貨幣の量は、すでにライヒスバンク紙幣の10分の1に達しており、1923年末までにはライヒスバンク紙幣とほぼ同量の緊急貨幣が流通していた(Schacht 1967: 68)。
10 「このレートは会計上の理由で選ばれた 平時の為替レートは1ドル=4.2マルクだった。このため、今では42 億からゼロを取り除けば、旧来の金マルクのレートに簡単に変換できるのである。もちろん、他の為替レートを選択することも可能であった」(Schacht 1967: 69)。
11 Schacht (1967: 72) は積極的に論じている。「信用制限による苦しい時期は、 2 ヵ月以上も続かなかった。ドルをため込んでいたすべての投機屋は、保有していた外貨をライヒスマルクと交換したため、これを経済回復に役立てることが可能となった。ライヒスバンクの行動は通貨を守っただけでなく、通貨に対する信頼をも救った。この信頼は、退屈な証拠の説明やお説教によるものではなく、行動の重さによって支えられた。卸売物価指数は、4月にはまだ124であったが、6月までには大幅に下落した。5月30日には外貨需要の1%にしか応じられなかったが、6月3日までにはドル需要の全てを満足させることができた。過去10年間で初めて、ドイツの外国為替市場が円滑かつ適切に機能したのである。」
12 1922年のワイマールの失業者数は21.3万人であったが、1923年には75.1万に増加し、1924年にはさらに97.8万人に上昇し、1925年に63.6万人に下落した(この数字は、〔1929年の〕ウォール街の暴落に続く失業率の急上昇に比べれば、大幅に小さい)(Source: StJbDR [Statistisches Jahrbuch des Deutschen Reiches] https://www.mtholyoke.edu/courses/dvanhand/friedrich/arbeitslosigkeit.html)。シャハト自身も、彼の信用制限政策が1924年の破産に及ぼした影響を指摘している。「3月には破産件数はわずか68件だったが、4月には133件に、5月には322件に、6月には579件に、7月には1173件に増えた」(Schacht 1927: 163)。
13 「ヴェルサイユ条約と違って、ドーズ委員会はドイツが戦勝国に送金しなければならない金額に上限を設けていた。委員会は、ドイツが決定した金額を年ごとに分割して支払わなければならないと規定していたが、そのうちの 1部分は固定で、もう 1部分はその年のドイツ経済の業績に応じて変動するものとされた」Ormazabal (2008: 2)。
14 シャハトは述べる。「ロンドン協定が[1924年8月30日に]正式に発効するための前提条件の一つが、ドイツ通貨を支援し、ドーズ協定の初年の賠償金支払いを容易にするために、専門家たちが提案した8億マルクの国際融資を実施することであった」(Schacht 1927: 184、括弧部分は筆者加筆)。彼は後にも、この融資の重要性を強調している。「ドイツの通貨回復には、 3 つの重要な出来事があった。1923 年 11 月 20 日には、1マルク=1兆紙マルクのレートが定められた。1924 年 4 月 7 日には、信用割当が実施され、安定化の成功が保証された。最後に、1924年10月10日には、ドイツ国内の事業資本に8億金マルクのドーズ融資が追加され、この状況で求められた経済的支援を提供したのであった」(Schacht 1927: 189)。
15 マルク安定化後の、ドイツの通貨管理の詳細については本稿では触れない。しかし、賠償支払総務官が外貨に対して合意された平価以上の支払いを認めてはならないという原則と、借り入れた外貨を賠償債務決済のための外貨獲得に使用してはならないという原則は、シャハト自身が定めたものであったということを、付け加えておくことにする。「ドーズ委員会が担当したこの和解案の根底にある考えは、ドイツは国際収支上の余剰分のみを外国に移転すべきであるというものであった。そのため賠償支払総務官は、ドイツ国内で発生した賠償金を、通貨平価の維持の必要性に応じて定められた範囲内でのみ、外貨に交換すること、すなわち譲渡可能な形に交換することができる。したがって通貨の交換は、この国の経済活動から生じる余剰金を用いてのみ可能である。それが借り入れた外国資本で行われるべきではないし、行われることもない」(Schacht 1927: 231)。Schachtはこの後、この政策提言がドーズ計画の採択直後の数年間に、実際にどの程度実行されたかを論じている(Schacht 1927: 231-36)。
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