5.2.3: 人民党と進歩主義運動: 中産階級の多く、とくに農民たちは、金持ち・東部人・銀行家のせいで19世紀後半のアメリカがおかしくなっていると非難した。1890年代の人民党(ポピュリスト; the Populists)は、東部の銀行家たち・金本位制・独占企業が悪いと言った。彼らはなにをやったか。貨幣供給(マネーサプライ)を増やし金利を下げ企業物価を上げるために、16対1の比価で銀貨を自由に発行することを追求した。反トラスト法で独占企業を打破しようと模索した。鉄道その他に料金規制を導入して、大半が田園部にある本物のアメリカ人 (real Americans) の屋台骨が都市の鉄道貴族・製造業の独占企業・銀行家といった相手に搾取されないようにしようと模索した。
1900年代の進歩主義運動 (the Progressives) は、富裕層の貴族制の雛と彼らが目したものがふるう力を削る改革を模索した:セオドア・ルーズベルトの言を借りれば、「大金持ちの悪党」の力を殺ごうとしたのだ。環境を保護し累進的な所得税を課し財務のごまかしを防止するべく政府の役割を拡大させようと模索する一方で、彼らは世界を民主制にとって安全なところにしようとも模索した。1899年にウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺されると、進歩主義運動に好機がめぐってくる。ジョン・ナンス・ガーナーが「ぬる小便バケツ」となじったほど無力な職だった副大統領についていた共和党進歩派のセオドア・ルーズベルトがホワイトハウス入りすることになったのだ。ところが、みずから指名した後継者タフトが進歩主義運動の価値観を裏切ったことにルーズベルトが不信をおこし、さらに彼に対して辛辣で腐敗した共和党大会で大統領候補の指名を受けられなかったことで、1912年にルーズベルトは民主党進歩派のウッドロウ・ウィルソンに大統領職を明け渡す。〔共和党で大統領候補の指名を得られなかったルーズベルトは第3党をつくって分裂し、これが共和党候補のウィルソンにとって有利に働いた。〕
だが、大恐慌の到来まで、人民党と進歩主義運動はアメリカで少数派の政治潮流でしかなかった。その間、有権者たちは僅差で共和党の大統領を――さもなくば伝統的二大政党のいいところどりをねらったろくでなし [triangulating bastard] のグローバー・クリーブランド〔2期目1893年〜1897年〕を――選び続けた。この時期の大統領たちは、おおむねアメリカの経済・社会の発展に満足していて、「アメリカの仕事(ビジネス)は実業(ビジネス)だ」と信じていた。
もっと平等な所得分配とさらなる平等をすすめるための市場への政府介入とを模索した民主党員もいた。彼らは政治的な権力をふるうのには失敗した。1870年代の黒人選挙権剥奪運動以後に南部で堅固な支持を確保していたし、南欧・東欧からの移民たちの支持も堅固だったにもかかわらずだ。〔1870年の憲法修正第15条で皮膚の色による選挙権の剥奪が禁じられると黒人の投票を事実上妨害する剥奪運動が南部で広まった。そして当時の黒人層は共和党支持が強かった。〕 南部の民主党員の多くは、とにかくリンカーンが黒人を解放したからこそ民主党員だった。そして、北部の共和党員の多くは、とにかくリンカーンが黒人を解放したからこそ共和党員だったけれども、おおむね共和党員は有能で実践的なよい政府を求めていたのであって、もっと平等なアメリカを求めていたのではなかった。
このように、人民党と進歩主義運動の時代は歴史書でこそ思想面で存在感を示しているものの、第一次世界大戦以前のアメリカで政策に大きな影響を及ぼすのには失敗した――だが、人民党と進歩主義運動によって用意された政策目標によって、一世代のちにアメリカ政治は大恐慌への対応ですばやく実質のある方向転換ができた。1885年から1914年に提案された中道左派の構想のほぼ全てが、フランクリン・ディラノ・ルーズベルトのニューディールでホコリを払われ実地に試されることとなる。
(4/6につづく)
0 comments