西側・東側世界の経済的命運は、1973年から75年の間にターニングポイントを迎えた。この期間、石油価格が(実質価格で)6倍に上昇して経済成長は減速し、実質所得の上昇と、揺りかごから墓場までの社会的保護をベースにした政府と市民の間の社会契約は崩壊した。これは目新しい議論ではない。この仮説については、何百とは言わずとも、何十冊もの本が書かれている。そうした本の中で、フリッツ・バーテルの非常に行き届いた研究書“The Triumph of Broken Promises”『社会契約破棄派の勝利』を際立たせているのは、危機の対応において、民主主義の西側諸国と権威主義の東側諸国はどのように対応し、最終的にどのようにして冷戦の終焉と共産主義の失墜を導いたかを、並列的に分析していることである。この統一的な分析枠組みに加えて、いくつかの有名な政治的事象(ソ連と他の共産主義連邦の分裂、ドイツの統一など)へのインプリケーションこそが、本書の大きな強みであると私は考えている。
本書は、以下のように要約できる。未曽有の経済的ショックに直面し、第二次大戦後にとられていた政策の継続が不可能になったことで、西側と東側の政府は、労働規律を強め、市民との「社会契約を破棄する」手段を用いねばらなくなった。西側の政府は、資本家の資金援助があり、選挙を通じて国内統治の民主的正当性も得ていたため、この嵐を乗り切ることができた。東側の政府は、社会契約を遵守するために多額の政府債務を抱えざるをえなくなり、1980年代になって債務を返済できなくなって、国際金融システムを支配する資本主義政府の拡張を許し、自らが国際資本主義の傘下になってしまったことに気づいた。
では、なぜ共産主義政府は社会契約の遵守にこれほど熱心であり、サッチャーとレーガンは社会契約を破棄して生き残ったのだろうか? 答えは、政治である。共産主義諸国の政府は、〔市民に〕たくさんの社会的サービスを提供し、過酷な労働を要求しさえしなければ、政治的正当性の維持が可能なことを知っていた。しかし、「こちら〔市民〕は働いているふりをする、そちら〔市民〕はこちら〔政府〕に支払うふりをする」という方程式は永遠には続かなかった。経済は故障寸前で、成長率は下がり、社会的サービスの質は悪化していた。唯一の解決策は、労働規律を強化することだった。西側において、この処方箋はマーガレット・サッチャーによって実行され、彼女は(特に炭坑の)組合の労働者を抑圧した(スカーギル [1]訳注:アーサー・スカーギル。イギリスの労働活動家で、炭坑労働者のストライキを指揮し、サッチャーと対立していた。 のことを覚えているだろうか?)。東側では、ポーランドのエドヴァルド・ギェレクとその数多の後継者たちがこの処方箋を実行した。マーガレット・サッチャーが勝利したのは、社会の中の諸階層から支持を得ており、労働者階級が自らの孤立を悟ったからだ。共産主義政府は、社会全体が概して政府を正当なものと見なしていなかったため、労働者から妥協を引き出すことができなかった。
ポーランドとイギリスは、資本主義と共産主義という2つのシステムの典型的な事例となっており、バーテルは両者を詳細に追っている。両国は、多くの変数を共有しつつ、1つだけ決定的な要素(政治的正当性)が異なるため、格好の自然実験となっている。共産主義ポーランドの最後の首相であり、極端な改革主義者だったミェチスワフ・ラコフスキは、共産主義体制崩壊後のポーランド初代首相であるタデウシュ・マゾヴィエツキの下で、労働者たちが共産主義政府の下では想像もつかなかったような実質賃金と生活水準の切り下げを、葛藤なく受け入れていることに驚いた。実際、〔共産主義時代に〕副首相のサドウスキーが1987年に試みた改革と、〔共産主義崩壊後に〕レシェク・バルツェロヴィチが1989-90年に試みた改革は、マクロ経済の面でほとんど同じもの(補助金の大幅な削減、いわゆる「過剰流動性」の一掃、失業率の増大、為替レートの自由化)だった。しかし、サドウスキーの改革は着手した時点で頓挫した。一方でバルツェロヴィチの改革は困難な時期を生き残り、その後のポーランドの成長の基礎を築いた。もちろん、それを可能にしたのは、バルツェロヴィチの有名な言葉を借りれば、ほんの短期間の「非常時の政治」だった。
しかし、バーテルは、西側と東側の共通性を熱心に見出そうとするあまり、1つの側面を見落としてしまっている。共産主義政府が、建前としては労働者による政府であったという事実だ。これこそが、共産主義政府における最も重要で、大抵の場合で唯一の、正当性を主張する根拠となっていた。西側政府は、民主主義という美辞麗句によって覆われているが、私的所有の保護に傾注していた(している)政体である、ゆえにその実態は、資本主義政府に他ならない。共産主義政府にとって、労働者に敵対的な立場をとることは、イデオロギー的に非常に難しかった。ポーランド政府が自国の労働者と戦わなければならなかったという事実は、そのイデオロギー的破綻を示していた。しかし西側政府にとって、労働者に敵対する立場に立つことは、労働組合や社会主義/共産主義政党が強く、政治的に困難であった国(フランス、イタリア)においてすら、イデオロギー的には容認可能であった。
地球の反対側では、ポール・ボルカーの「規律づけ」が、アメリカに深刻な不況をもたらし、労働者を苦しめていた。しかし、国家が労働者に対して厳しく、かつ資本におもねるような強い立場をとろうとし、そしてとることができるとの確信が、資本所有者の間で深まっていったことで、金融市場の信用は回復し、巨大な国際資本のアメリカへの流入を刺激した(「ボルカーがアメリカ国民に未曽有の経済規律を課そうとしていたことは、アメリカの政策決定者が、労働者の利害に対して資本の利害を守ることができるし、実際に守るだろうということを資本所有者に示した」p340)。こうした資金流入によって、アメリカは40年間の経常赤字を続けることが可能となった(これは他の国が想像もできない事態だ)。
上のポーランドの事例で述べたような構造的困難は、ソ連にとっては更に大きな問題だった。ソ連は、他の東欧諸国の直面した国内経済の問題に対応しなければならなかっただけでなく、非効率な帝国の重荷も負わされていたからだ。バーテルは、複数の章にかけて矢継ぎ早に、ゴルバチョフとソ連の指導者たちの抱えていたジレンマを説明している。彼らは、帝国内での諸国家の国内経済と、そうした国家の軍事支出や補助金の間にトレードオフが存在することを認識していた(ゴルバチョフは1986年、ソ連共産党政治局で、「私たちは、能力の限界に直面している」と述べた。p178)。徐々にだが、ソ連の指導者達は、ハードカレンシー(強い通貨)のために帝国を「切り売り」し、国内経済をてこ入れできるのなら、帝国は喪失しても良いとする立場を受け入れるようになった。しかし、ゴルバチョフが観念して、経済改革を断行することはなかった、とバーテルは主張する。ゴルバチョフは繰り返し、近々資金が来たらそれを使ってペレストロイカを深化・加速させると口先だけの約束した。しかし(例えば、西ドイツによるソ連への150億ドイツマルク相当の援助と貸付による)資金の流入があっても、改革は実行されず、資金の用途は不透明なままだった。
(この見苦しい〔西ドイツとの〕交渉の一部始終が語られた第10章の最後の部分は面白い。この交渉はグランドバザールだった。ゴルバチョフは、ソヴィエト軍を東ドイツから撤退させるために200億ドイツマルクを求めるところから始めた。西ドイツ首相のヘルムート・コールは50億ドイツマルクまでしか出せないと返答した。コールはアメリカに援助を求めたが、断られた。そして、急いで総額80億ドルを工面したが、ゴルバチョフは「それでは交渉は行き詰まりだ」としてそのオファーを拒否した。コールは120億ドルまで値段を上げたが、ゴルバチョフは首を振らなかった。コールはやけくそになって追加で30億ドルの無利子貸付をオファーした。これで交渉は成立した。)
最後の章は、特に今日的な疑問を読者に突きつけて終わる。ゴルバチョフは交渉と政策決定においてなぜこれほど無能だったのだろうか? なぜゴルバチョフは、自身がなすべきことを知っていたのに、実際にやったこととの間にはギャップがあったのだろう? 帝国を売るつもりなら、なぜあそこまで交渉が下手だったのか? 指導者の知識と洗練性が欠如していたのか? 時間不足だったのだろうか? 結果を掴み取る能力の不足だろうか? 答えは明確には分からないが、バーテルの著書(の特にソ連の章)を読んだ読者の多くは、内容に刺激されて、こうした問いを思い浮かべるだろう。ゴルバチョフの金の無心に端を発する終わりなきお喋りと、コール(同じくジョージ・ブッシュ・シニア)の極まった合理性、冷静さ、計算高さを比べると、政治的手腕の差が強く印象に残る。しかしもちろん、個人的資質の差だけではこの事態を十分に説明することはできない。ゴルバチョフは、土台が(彼の採用した政策によってかもしれないが)絶えず縮小していく状況下で政治を行っていた。ゴルバチョフのとれる戦略の選択肢は、日に日に狭まっていった。一方でコールは、東ドイツ市民の流入、東ドイツの準破綻、連邦共和国の「潤沢な余剰資金」(ジェームズ・ベッカーの引用)に支えられており、交渉上の選択肢は常に拡張していた。
本書は、2つの帝国についての適切な考察で締めくくられている。アメリカにとって、アメリカ帝国は純然たる利益だった(である)。アメリカは、帝国の赤字と増大する軍事費を、帝国の構成国に賄わせることができたからだ。一方でソ連にとって、帝国は純然たるコストだった。補助金を出さねばならず、またいつでも介入できるような軍事力を維持しなければならず、それを〔ソ連〕国内の繁栄とトレードオフしなければならなかった(「1980年以後、アメリカ帝国はワシントンにとって莫大な物質的資産となったが、ソヴィエト帝国はモスクワにとって巨大な負担であり続けた」p341)。一方の帝国はほぼ自発的な支持によって構成されていた(いる)が、他方の帝国を構成する国家は、言いくるめられて参加しただけだった。しかし両者の真の違いは、一方が経済的に成功し、他方が成功しなかったことだったのだ。
Western money and Eastern promises
How the oil shock revived capitalism and ended communism
Branko Milanovic
Nov 10, 2022
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References
↑1 | 訳注:アーサー・スカーギル。イギリスの労働活動家で、炭坑労働者のストライキを指揮し、サッチャーと対立していた。 |
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