カナダのジャーナリストが陥りがちな怠惰な習慣の一つが、カナダとアメリカが同じ国であるかのように語ってしまうことだ。アメリカで何が悪いことが起こっていると、カナダでも同じことが起こっていると彼らは思い込んでしまうことからも明らかで、この思い込み故に彼らは実際の取材に赴かない。
大学が最近「ポリティカル・コレクトネス」に席巻されているのを懸念する件でもこれを観察することができる。アメリカで、大学教授達がトラウマを負っている話が多く報じられ、なぜ学生を怖がるようになってしまったのかが解説されている。また、アドミニストレーター〔アメリカの大学の学生課の職員〕は、デリケートさを募らせている学生を不快にするのを恐れるあまり、学生に隷属してしまっていたり、傍観を決め込んでいる事例も報道されている。
こうした状況の全ては、レックス・マーフィーの言葉を借りれば、大学が「テンプレ意見を補強する工場」に成り下がってしまっており、識者によっては「北米全土に新たな暗黒時代が到来した」と宣言しているのに十全たる有様である。
この大きなトレンドの兆候は、カナダではまったく観察されていない。カナダでも、大学で何かが勃発する可能性は常にあると思うが、これまでのところ、左翼学生と右翼学生のグループ間で低レベルの小競り合いが、延々続いているだけだ。事実として、カナダとアメリカの大学はまったく異なっている。就職市場が、カナダの大学とアメリカの大学ではほとんど統合されているのにも関わらず、大学制度の直面しているインセンティブは、ほぼ完全に異なっている。
この違いを最適に説明するには、アメリカの上位大学と、私が勤務しているトロント大学のようなカナダの上位大学を比較すればよい。まず最初に気づくのが、アメリカの大学は、非常に小規模であることだ。アメリカの上位10校(ハーバード、プリンストン、イェール等)の学部の学生数を全部足しても、6万人にも満たない。対照的にカナダでは、トロント大学だけでも、6万8千人以上の学部生を抱え込んでいる。
つまり、カナダの大学は、大衆向け教育ビジネスを行っているのだ。カナダの大学は何世代にも渡って国民を包摂してきたが、そのうちの何万人かは最近やってきた移民達であり、大学は彼らに中流階級へのアクセスを与えている。高級なアメリカの大学は、極少数の人に向けてハイソなニッチ教育を提供するビジネスを行って、上流階級へのアクセスを与えている。これは本当に根本的な違いだ。
次に、アメリカの大学は、天文学的な学費を請求している。上位10校のほとんどが、4万5千ドル以上の授業料を請求しているが、さらに学生をキャンパス内で住まわせており、一年当たりで合計6万ドル以上請求している。対照的に、トロント大学では、文系や理系の学位を取得のための一年当たりの授業料はわずか6千ドル強たらずであり、学生は自宅を含めて好きな場所に住むことができる。
この天文学的な学費のため、アメリカの高級大学は、所謂「顧客サービス志向」を強めている。こういった高級大学が、顧客を「不快にさせる」のを心配するのは不思議でも何でもない。学生を不快にさせれば、親から電話がかかってくる。親から年6万ドル以上搾り取ってるも同然だからだ。
また、アメリカの大学は、セメスター〔学期の半分〕単位で授業料を請求しているので、大学は秋学期に退学者を出さないことに極端なまでに神経質になっている。受け入れ可能な学生数は、学内の居住スペースで制限されているので、クリスマス前に学生を失うと、学年の残り期間で、寮の部屋に空きがでてしまう。この結果、アメリカの大学寮は、後期の授業分を予めオーバーブッキングしたり、半期ごとに登録を行ったりして、1月に空室ができた場合に新しい学生を押し込めるよう、航空会社やホテルのような「イールド・マネジメント [1]訳注:利益を最大化するために、需要動向を予測して商品価格を調整する経営手法 」を実行するようになっている。
私が強調言及したいのが、アメリカの大学は、この天文学的な学費を重視するあまり、学生に留まってもらうのに全力を尽くようになっていることだ。もしアメリカの大学で、学生がいくつか単位を落としたら、アドミニストレーターから、「大丈夫ですか? 希望するなら相談に応じますよ」と確実に電話がかかってくる。キャンパスでこのような雰囲気が醸成されるのは、私の見解では甘やかしの温情主義でしかないのだが、アメリカ人がこれを望んでいるのだ。以上が、アメリカの大学のビジネス・モデルである。
このことで、アメリカの大学の多くでは、学生を落第させたり、盗用を禁ずるルールを強制するのを辞めているも同然となっている。さらに、提供している講義の内容も、学生に過大に迎合することになっている。カナダとアメリカの大学が同じことをやっていると想定しているなら、この制度の違いに気づいていないことに他ならない。
カナダの巨大公立大学は、良くも悪くも、「顧客の苦情」から完全に隔絶されている。私はトロント大学に20年いるが、授業中の発言や行動からなんらかの否定的な反応受けたことは一切ない。むろん、このことは、別の問題を引き起こすが、学生の意見に怖気づくようなことは一切ない。
(このカナダの状況は、初学年で学生の半分を中退させるフランスの大学ほど酷くはない。ただカナダでは、もし学生が単位を落としても、誰も確認の電話はかけてはこない、とだけは言っておこう。)
カナダとアメリカの間には、キャンパスの政治風土に大きな影響を与えている、もう一つの大きな違いがある。アメリカの左翼の学生や教員は、政治的エネルギーやフラストレーションを発散する場がほとんどないことだ。民主・共和の両政党は硬直化しており、本質的に腐敗している。結果、政府の変革に向けられるべき巨大な政治的エネルギーが袋小路に陥っており、この巨大エネルギーがキャンパスの政治に捻じ曲げられて放出されている。
言い換えれば、アメリカのインテリは、政治制度から完全に疎外されているのだ。大学を浄化すれば、幅広い政治変化をもたらす重要な第一歩になる、とアメリカのインテリの多くが信じ込んでいる。しかしながら、これは大抵、インテリの自暴自棄に表れに過ぎない。アメリカのインテリ達は、自身の国において意義ある政治変化を一切もたらせないと認識しているので、自身がコントロールできる小さな世界の片隅に関心を向けている。
対照的にカナダは、信じられないほどダイナミックな政治制度を保持している。政党へは非常にアクセスしやすく、参入障壁も低い。前回の総選挙の後、モントリオールの知り合いの大学教授のグループ間で行われた興味深い会話を耳に挟んだのだが、教え子がどれだけ国会議員に選出されたのを情報交換したらしい。カナダにおいて大学生であれば、国会議員に立候補できるのだ。なのにキャンパス政治で乱痴気騒ぎするだろうか?
カナダの大学生が過激な行動に従事するとしたら、社会正義に関する抽象的な考えよりも、学生自身の経済的な関心(授業料の引き下げや、資金保証のよりの高額化)が主であってきている
緑の党は言うまでもなく、カナダには真正の左派政党が存在しており、政治制度に容易にアクセスでき、キャンパスの政治風景に巨大な影響を与えている。これらすべては、キャンパスでの政治的エネルギーの多くを吸い上げ、よりの有効活用を促進しているのだ。これは、多くのアメリカの大学で発達している様々なモラトリアムの蔓延を防ぐ役割を果たしている。
このカナダの状況は、国境の南側で今のアカデミアを混乱させている元凶に対して、免疫を与えてくれているわけではない。それでも、制度の違いは重要であり、大学に関して言えば、カナダとアメリカには大きな違いが存在している。
〔訳注:本記事の反響を受けてヒースが追記した記事も本サイトで「ポリティカル・コレクトネスについて付記」として読むことが可能。
本記事は、カナダの新聞オタワ・シチズンの掲載されたものであり、著者ジョセフ・ヒース教授の許可に基づいて翻訳・掲載している〕
References
↑1 | 訳注:利益を最大化するために、需要動向を予測して商品価格を調整する経営手法 |
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