ジョセフ・ヒース「ハラリ vs ヘンリック:人間の進化について科学が実際に語っていること」(2026年6月13日)

私は、ハラリの本だけにいらだっているわけではない。ネット上で見かけるハラリへの批判が揚げ足取りに終始しており、彼の議論におけるもっと目立った誤りを指摘できていないことにも、同じくらいいらだっている。

ときおり、普通の人が、ただ普通に生活しているだけなのに、私と雑談しなければならないという不幸な状況に追い込まれることがある。「お仕事は何を?」というのは、通常であれば無難な話題だが、私の場合は答えが「哲学の教授です」になるため、場が静まり返ってしまうこともしばしばだ。ときたま、なんとか会話を繋ごうとしてくれる人もいる。ブルーカラーの仕事をしている人が、興奮した口調で「哲学か、いいじゃないか。俺も自分なりの哲学を持っているよ。また飲みにでも行って話そう」と言ってくることもある。一方でテックブロたちは本好きらしく、「ルネ・ジラールについてどう思う?」と聞いてくることが多い [1]訳注:ジラールはピーター・ティールが好んでいる思想家であり、そのためテック業界では人気が高い。 。あるいは、「ユヴァル・ノア・ハラリってどう?」と聞いてくることもある。

実際、つい先日も、私にハラリの話題を振ってきた人がいた。そこで私は「ハラリの『サピエンス全史』は好きじゃないんですよ」と答えた。彼はがっかりした様子で、「なんで好きじゃないんですか?」と聞いてきた。私の答えは、「ハラリの提示している人間進化の理論は全く科学的じゃないし、間違っているからです」というものだった。当然、彼は、ハラリのどこが間違っているのかについての説明を求めた。ここで私は、多大な自制心を行使しなければならなくなった。というのも、本音を言うと、ハラリの説明のどこが間違っているのかを全部説明したくてたまらなかったからだ。問題は、そうすると私による20分間の独演会が始まってしまうことだ。これは雑談のルールに違反している。そして、そんなことをすれば、私が大学教授としてこれまで育んできたパーソナリティ上の欠陥(すぐ人に講義してしまう癖)を露呈させてしまうことにもなる。そのため、そこでは「この話題はちょっと込み入っているんですよ」とごまかして、話題を変えることにした。

だが、彼の質問への答えはずっと私の頭の中に留まり続けており、誰かに言いたくてたまらなくなっている。Substack〔本エントリが掲載されているブログのプラットフォーム〕は、自分の考えを吐き出すにはうってつけの場所だろう。というわけで、ここで書き出すことにしたい。私は、ハラリの本だけにいらだっているわけではない。ネット上で見かけるハラリへの批判が揚げ足取りに終始しており(「議論を単純化している」とか「この主張は誇張だ」とか)、彼の議論におけるもっと目立った誤りを指摘できていないことにも、同じくらいいらだっている。さらに、『サピエンス全史』を読んだ人の中には、ジョセフ・ヘンリックの『文化がヒトを進化させた』を読んでいる人も多いだろうに、ハラリの理論がヘンリックの理論と正反対であることに気づいていないように思われる。問題の一端は、読者が2人の理論の構造を上手く捉えられていないことにある。それは、2人の理論が何を説明しようとしているのかを正確に理解できていないからだ。読者は彼らの理論を、科学的仮説ではなく一種の物語として受け取ってしまう。そのため、人間進化の理論におけるゴール、すなわち、こうした理論が何を説明しようとしているのかについて掴むところから始めるのが良いだろう。

人間進化の謎

人類は、次の4つの性質(特性、能力、行動、……)において、他の動物から大きく隔たっている。この4つの性質が人間に特徴的だというのはかなり明らかなのだが、残念なことに、学術の世界では、どの特徴についても「他の動物だって同じような特徴は持っている!」と異議を突き付ける人がたくさんいて、一大分野を形成しているほどだ。もちろん、人間以外の動物にも似たような特徴を見出すことは可能だ [2] … Continue reading 。そのため、以下のリストでは、こうした異議を払いのけるために必要な留保を加えつつ、人間が他の動物と確実に隔たっていると言える点を挙げよう。

  1. 知能。人間は優れた知能を持つ。道具的な課題を遂行するに留まらず、数学的推論、仮説的-反事実的推論、論理的推論を行う能力を持つ。
  2. 言語。人間は複雑な文法を備えた言語を用いる。それは命題的に差異化されており、文脈独立的な仕方で事態を表象できる。
  3. 協力。人間は、他の動物とは異なる種類の超社会性(ultrasociality)を有し、遺伝的に血縁関係のない個体からなる大規模集団において、複雑な協力を行える。
  4. 文化。人間は、領域一般的な学習行動の伝達を行い、膨大な文化的人工物と知識を生み出している。そしてそれらは、時を経るごとに蓄積的に改善されていく。

人間進化の理論という分野が現在これほど興味深いものになっているのは、突き詰めると、こうした特徴がどのように進化したのかについて本当のところは何も分かっていないからだ。あるレベルでは、これらの特徴は適応的であったはずだ。しかし、具体的にそれらがなぜ、どのように適応的だったのかを真に理解できた人はいない。とはいえ、これらの特徴がどのような形では進化し得なかったか、については多くのことが分かっている。長年にわたり、たくさんの筋の悪い理論が生み出され、注意深く吟味された結果、棄却されてきたからだ。このプロセスは、典型的には次のように進む。誰かがなんらかの思弁的な理論を提示すると、別の誰かがやってきて「じゃあ、それがどうやって進化し得るのかモデルで示してくれよ」と問いかける。その誘いに乗っかってモデルを構築した結果、最初に論じたような仕方ではその特徴が進化し得ないことを発見するのだ。実際、上に挙げた4つの特徴をきちんと説明できるような進化モデルを構築するのは非常に難しいことが判明している。過去数十年の間に最も興味深い進展が起こったのは、まさにこうしたフォーマルなモデル構築の分野なのだ。

人間進化の謎をいっそう謎めいたものにしているのは、これら4つの特徴が進化したタイムスパンが極めて短いことだ(例えば、ホモ・エレクトスが出現したのはたった200万年前のことである)。進化というのは非常にのろいプロセスだ。アリはたくさんの精巧な適応的特徴を備えているが、出現してから1億5千万年ほど経っている。一方で、ヒト属の歴史はそれほど古くない。そのため、上の4つの特徴全てが独立に進化したというのは全くありそうもない話だ。加えて、こうした複雑な能力が「ゼロから」、独立した認知モジュールとして進化した可能性も極めて低い。タイムスパンの短さを考慮すると、既に霊長類に備わっていたシステムに対するちょっとした「ひねり」、あるいは修正によって、こうした特徴が生じた可能性が高いのである。

1つだけ例を挙げると、人間と他の霊長類は、数に関する判断において、2つの生得的なヒューリスティックスを共有している。3までの数をすぐに「カウント」できるようにするスービタイゼーションのシステムと、目測で「たくさん」か「ちょっと」かを区別するゲスティメーションのシステムだ。人間の幼児を対象に実験したところ、こうしたシステムの働き方は、人間、チンパンジー、オランウータンなどの間でほとんど違いがないことが分かった。しかし、過去数百万年ほどの間に、他のなんらかの進化的要因が働いて、既存の2つのヒューリスティックスは変化しないまま、第3の「数学」モジュールが備わった、などと考えられるだろうか。そのモジュールのおかげで、3を超えた数を数えられるようになっただけでなく、代数、幾何学、微積分、実解析、線形代数などの能力も授けられた、と。このようなシナリオは全く信じがたい。そのため、数学能力は他の何らかの能力(恐らくは言語能力)の副産物だろうという見解が広く受け入れられている。

過去40年ほどの間、人間進化の理論における最大の目標とされてきたのは、霊長類の行動(能力、認知、……)における単一の、比較的小さな変化によって、人間に特徴的な4つの性質全てを生み出せる、と示すことであった。説得力のある理論は、単一の適応しか想定しないだろう〔短いタイムスパンで複数の適応が独立に起こるとは考えがたいため〕。そのため、人間進化の理論は、上に挙げた4つの特徴の間に説明順序を設定しなければならない。すなわち、4つのうち1つを最初に生じた特徴と位置づけた上で、この最初の変化の結果として、残りの3つの特徴がいかに(恐らくは段階的に)発達したのかを説明するのだ。

そのため、人間進化の理論はどれも似たような構造を持つことになる。最初の変化を措定し、それがどう適応的だったのかを示した上で、第2、第3、第4の特徴がどのように生じたのかを説明するのである。例えば、ハラリが措定しているのは、1. 知能、2. 言語、3. 協力、4. 文化、という順序だ(上で4つの特徴をこのような順序で並べたのは、実はハラリの話をするためであった。ハラリの措定する順序は、20世紀のほとんどを通じて正しいと見なされてきた伝統的な説明順序である)。対照的に、ヘンリックが措定するのは、4. 文化、3. 協力、2. 言語、1. 知能、という順序だ。これは刺激的な仮説であり、過去数十年のあいだ関心と注目の的となってきた。

ヘンリックの見解がハラリと正反対であると述べた理由がこれで分かるだろう。ヘンリックは、ハラリの説明順序を文字通り逆転させているのだ。というわけで、まずはハラリの議論と、なぜ科学者がハラリのような見解から距離を置いているのかを説明しよう。その後で、ヘンリックの議論について簡単に解説することにしたい。

ハラリの見解

知能を第一に据える立場は、科学的な仮説の形をとっているが、アイデア自体はプラトンやアリストテレスにまで遡るおなじみのものだ。すなわち、人間を獣よりも上位の存在にした最大の特徴は、合理性である、というアイデアである。この立場をとる論者は、化石記録にもハッキリと現れている、人間の目立った生理学的特徴を指摘する。すなわち、大脳化(encephalization)だ。私たちの大きな頭蓋骨には、大きな脳が収まっている。こうして多くの人々が、人間は進化の最初の段階で、まず賢くなったのだと考えるようになった。そして、この高い知能は恐らく、環境上のなんらかの適応課題に対する直接の応答として生じたのだろうと見なされている(例えば、よりよい道具を作れるようになるとか、上手く狩りができるようになるとか)。

知能を第一に据える説明の問題点はこうだ(奇妙なことに、ハラリ自身もこの点は認めている)。大きな脳は、生理的な面でも再生産の面でも、人間に多大なコストを課す(つまり、たくさんのエネルギーを消費し、出産時の死亡率も高める)。アフリカのサバンナにおいて、高い知能を備えることに、こうしたコストを補うほどの便益があったのかは全く明らかでない。いくつかの石器を使って火を操りながら生存と繁殖を果たすことが目標なら、人間の脳は奇妙なほどオーバースペックだ。その上、言うまでもないが、非常にコストが高く非効率である。それでも、ハラリは知能が最初に進化したと論じているのだ。

お次は言語である。ここでハラリは、ハッキリ言って議論をごまかしている。ハラリによれば、言語は偶然の産物に過ぎない。「最も広く受け入れられている理論によれば、偶然の遺伝的変異がホモ・サピエンスの脳内の配線を変え、ヒトはこれまでにないような仕方で思考できるようになるとともに、全く新しいタイプの言語を用いてコミュニケーションをとれるようになった。これは、『知恵の樹』的な変異と言えるだろう」。

この説明には、明らかな問題点 [3]訳注:突如複雑な変異が生じたと想定していること、を指すと思われる。 以外にも、2つの誤りがある。第1に、この説明は「初めの一歩」問題(start-up problem)を抱えている。複雑な言語を可能にするような驚くべき変異が適応的であるためには、こうした変異を持った最初の個体が、なんらかの便益を得ていなければならないはずだ。だが、「これまでにない仕方で」コミュニケーションをとる能力を持った最初の個体になることには、ほとんど意味がない。コミュニケーションする相手がいないのだから。コミュニケーション能力は、何か別の、それ自体で適応的であるがゆえに広まった特徴の副産物であったはずだ。言語は集団内に広まった後でないと発達し得ない。これに対する代替案となるのは、漸進主義的な説明だ。すなわち、言語は、そうした変異を持たない個体とのコミュニケーションを可能にするような、より原初的なシグナリング・システムから徐々に生じてきた、と論じるのである。すると、コミュニケーション能力を説明する上で、そうした変異を措定する必要はなくなる。

ここで、ハラリによる言語の説明の2つ目の問題点が現れる。動物の多くは、音を発し、シグナリング行動を行っている。なぜそれが複雑な言語へと進化しないのだろうか。それは、協力なしには、言語は情報を伝達できない(uninformative)からだ。社会性の低い霊長類の集団に発話能力を授けても、そうした個体たちの発話は自己利益を反映したものにしかならないだろう。よって、どんな発話も信頼できず、行動を観察して推論できる以上の情報は伝わらない。自然界に見られるシグナリング・システムがしばしば高いコストを伴っているのはこのためだ。シグナルが信頼可能であるためには、そのシグナルにコストが伴っていないといけないのである。対照的に、人間の言語は完全なるチープトーク〔利害得失に影響しない発話〕だ [4]訳注:チープトークはゲーム理論の用語で、プレイヤーの利得に影響しないようなコミュニケーションを指す。 。それでも、人間の言語は何らかの仕方で情報を伝達できている。これが可能なのは、協力的に行動しようとする性向が人間に既に備わっているからだろう。そのため、ハラリの説明順序は間違ってるように思われる。言語が進化するには、その前に協力が実現していないといけないのだ [5]訳注:言語は協力なしに成立しないという論点は、ヒースの論文“Is Language a Game?”、あるいは同論文と同じ内容が組み込まれた“Communicative Action and … Continue reading

だが、ハラリは真逆の主張を行っている。協力は言語の結果として生じたと言うのだ。この見解は、かつては非常に一般的だったが、進化ゲーム理論の発展により大きく信頼を失った。19世紀から20世紀前半までは、人々は高い知能を持つことで、互いに協力すべきだという合理的洞察に至る、と考えられることが多かった。だが、囚人のジレンマへの注目が高まったことで、事態は変わった。高い知能は、基本的にはむしろ、人々をより賢いフリーライダーにするため、非協力行動をいっそう固定化してしまう、ということが明らかになったのである。

ハラリも、クロポトキンが提示した昔ながらの相互扶助論が正しくないことは認識している。加えて、人間の協力に対する生物学的説明として、集団選択が説得的でないということも理解している [6] … Continue reading 。そのため彼は、言語能力がいかにして人間をより協力的にしたのかに関して、2つの理論を持ち出す。1つ目は間接互恵性モデルから導かれるものだ。〔言語が存在するおかげで〕共同体内の人々は、誰が信頼に値するかについての噂話(ゴシップ)を行うことができ、この噂話が各人の立場を決定する。個々人は、共同体内で良い立場を維持するために〔つまり、悪い噂を立てれないようにするために〕協力する、というのがこの仮説である。2つ目は、いわゆる「ビッグ・ゴッド」仮説の1バージョンで、人々は言語を用いて神話大系を構築し、それが信頼可能なコミットメント装置となって協力を可能にする、というものだ [7] … Continue reading

この2つの議論の問題点は、それが無限後退を生み出すか、さもなくば論点先取であることだ。人間の社会性を巡る根本問題は、集合行為問題として捉えられる。集合行為問題においては、インタラクションの構造上、人々は互いに協力するインセンティブを持たない。そのため、この問題への解決策は、「協力しないと悪い噂を立てられ、『あいつは裏切るぞ』と人々が注意喚起しあうため、将来人から協力してもらえる機会が減ってしまうから、人は協力する」というものではあり得ない。なぜ人々はわざわざ裏切り者について注意喚起しあうのだろう? 注意喚起というのは一種の公共財だ。そのため、もう1つ別の集合行為問題が生じるだけである。同じことは「ビッグ・ゴッド」仮説にも言える。その神話というのはどこから来たのか? なぜ人々はそれを信じるのだろう? 単に信じたふりをすればいいのではないか? つまり、こうしたフリーライダー問題への「解決策」はそれ自体、フリーライダー問題に悩まされることになるのだ。

最後に、ハラリのストーリーにおける最も明白な誤りを取り上げよう。それは、人間の持つ複雑な文化について説明している箇所だ。文化は、ハラリの説明順序において最後に位置する。厳密に言うと、ハラリは文化なるものの存在を〔本当の意味では〕認めていない。というのも、ハラリは社会生物学的な説明を採用しており、文化がそれ自体で進化的なダイナミクスに服する継承システムであるとは考えていないからだ〔つまり、文化進化を認めていない〕。ハラリの議論によれば、協力の発展により、多くの人が共同で道具作りに取り組めるようになったことで、より複雑な人工物が生み出されるようになったのだという。これは端的に言って、技術進歩の説明として正しくない。例えば、耕作機の発展に目を向けると、同時代を生きる人々が協力して先端的な機械を作り上げていったのではなく、むしろ、長い時間をかけて非常に漸進的で断片的な改善が起こったというのが実態である。

ヘンリックの見解

こうして見ると、伝統的な説明順序が、直観的な分かりやすさを持ち続けている一方、あらゆるステップで反論に晒されてきたことが分かるだろう。だからこそ、理論家たちが真に「型にはまらない」アプローチをとるための真剣な試みを始めた際、大変な興奮が生じたのだ。その一例が、ジョセフ・ヘンリックが展開した議論である。とはいえ、彼の理論の大部分は、ピーター・リチャーソンとロバート・ボイドが創始したものである、ということは言っておかねばならない(『文化と進化プロセス(Culture and the Evolutionary Process)』『文化の起源と進化(The Origin and Evolution of Cultures)』『遺伝子のみによらず(Not By Genes Alone)』〔いずれも未邦訳〕)。ヘンリックはボイドの教え子であり、ボイドから多くを学んでいる。加えて、ヘンリックは一般読者に向けて理論を伝えるのが非常に上手い一方、ストーリーテリングに熱中しすぎて、かえって理論を明瞭に提示できなくなってしまっていることがある。読者は、ヘンリックが理論を説明するために挙げた個々の例は覚えているのだが、その例を使って彼が指摘しようとしていた論点を掴み損ねてしまいがちなのだ。

ヘンリックと伝統的見解の最も大きな乖離点は、文化こそが人類における最初の、特異な適応であったと主張していることだ [8]訳注:なお、ここでの議論は、ヒース『ルールに従う』第6章にてより詳細に展開されている。 。彼の主張はもう少し具体的である。ヘンリックによれば、人間の文化を可能にしているのは、ある特定の形の社会的学習である。人間進化における最初の適応(霊長類の持つ基礎的能力に対する「ひねり」)は、模倣性(imitativeness)の発生だった、というのが彼の主張だ。人間の幼児は、他人がしていることを単に真似ることだけでなく、機械的に(mindlessly)真似ることが非常に得意だ。観察した行動をそっくりそのまま繰り返すのである。この機械的な模倣は、皮肉なことに、複雑な文化が進化する可能性を生み出した。それによって、文化が個々人の知能によるボトルネックから解放されたからだ。チンパンジーも他個体から学習するが、他個体の行動を参考にした上で、自分の知能を使ってその行動を再現しようとしがちである。つまり、車輪を見たら、それを言わば自力で再発明しようとするのだ。これに対して人間の幼児は、他者の行動を理解していなくても、その行動を真似る性向を持つ。そのため、例えば道具技術の技術は、人々がちょっとずつ改善を付け加えていくことで、時とともにますます複雑になっていく。それでも、次の世代の人間は、仕組みが分からなくてもただ真似るだけで、その技術を再現できるのだ(ところで、以上のことを進化論的に説明するのは、モデル構築上の複雑な課題だ。上に述べたことはどれも、直接に適応的であるわけではない。だからこそ、この種の社会的学習は他の動物には見られないのだろう)。

人文学の文献ばかり読んでいる読者は、文化さえ登場すれば後はなんでも説明できる、と考えがちだ。もしそうなら、これ以降のストーリーは非常に簡単なものになるだろう。これは明確に誤りだ。文化が他個体の模倣を通じて発展するとしても、そもそもヒトという種自体が非協力的であるなら、文化的に伝達された行動もまた非協力的なものになるだろう。文化が協力をもたらすためには、模倣以外の何かが必要だ。実のところ、ボイド-リチャーソン-ヘンリックの議論における最もクレバーな部分は、まさに文化(4)から協力(3)へ至るステップを説明する箇所なのだ。

まず理解しておくべきは、人間の幼児が親からしか学習しないなら、文化的に生じるパターンは全て、生物学的に進化するパターンと同じになるだろう、ということだ。これは、協力の文化進化の可能性を排除するように思われる〔生物進化において協力を排除したのと同じ要因が文化進化にも働くため〕。だが、誰もが知るように、子どもは親以外の個体からも学習する。最も重要なものを2つ挙げると、ロールモデル仲間集団である。どちらも、強力なヒューリスティックによって統制されている。ロールモデルの場合は「成功者を真似よ」、仲間集団の場合は「多数派を真似よ」である(後者のバイアスは同調主義として知られている)。ヘンリックたちの最大のアイデア(ここで十分に論じることはできない)は、同調主義的な社会的学習が、社会集団内の同質性を高め、文化進化における集団選択の力を増幅した、というものだ。集団間闘争のメカニズムは、生物進化において協力を支える力としては弱いが、文化進化において協力を有利にする力としては強力である。より向社会的な行動規範を持つ集団は、そうでない集団に対して文化的優位に立つ可能性が高くなる。そのため、人間の文化は時を経るごとにますます協力的になっていったのだ。

だが、話はここで終わらない。文化によってますます協力的にふるまうよう期待されるようになっても、生物としての人間は依然として、攻撃的で、反社会的で、個人主義的な霊長類であった。ここで、この理論の2つ目の要素が登場する。すなわち、文化的期待がヒトの生物としての性向から乖離するにつれ、文化的同調が社会選択(social selection)の力として働き始めた、というものだ。これは、ヒトの種における自己家畜化のプロセスを開始させた(自己家畜化仮説に関する最も面白い解説書として、リチャード・ランガムの『善と悪のパラドクス』がある)。この見解は、大雑把にまとめると次のようなものだ。新しく生じた協力的な社会的文脈において、非常に攻撃的でドミナンス行動をとるようなオスは、繁殖の機会を減らすこととなった。その結果、一連の生物的変化が生じ、人間はより向社会的な性向を持つようになった(ヘンリックが遺伝子-文化共進化のプロセスに強い関心を抱いているのはこのためだ。例えば彼は、調理のような文化的イノベーションが、消化器の変化のような生物的変化をいかにもたらしたか、に注目している)。この見解によると、協力性は、当初は単なる文化的パターンとして生じたが、遺伝子-文化共進化のプロセスを通じて人間の本性に組み込まれるようになったのだ。

説明における最初の2つのステップ〔文化、協力〕をクリアすれば、後の2つ〔言語、知能〕はそれほど難しくない。人間が真実を話す(あるいはルールに従う)ようになる可能性が生まれれば、他人と会話することは明らかに魅力的な選択肢となる。発話者が協力的にふるまい始めた場合、単純なシグナリング・システムがどのように拡張し得るのか、を示す議論には様々なバージョンがある(例えば、マイケル・トマセロ『コミュニケーションの起源を探る』)。知能に関して言うと、脳の直接の適応上のコストは極めて高い。そのため、大脳化は環境内の安定的な適応課題に対する応答ではなく、ヒトという種の内部で生じた何らかのランナウェイ・プロセスを通じて生じたはずだ(アイルランドオオツノジカの巨大な角のように)、という点では広く合意がある。ヘンリックの見解では、大脳化は文化の爆発的発展によってもたらされた。とりわけ、文化的適応によって、人類が本来の生物学的能力だけでは生存に適さない環境に進出できるようになると、環境内の文化を素早く把握する能力が、生存上の利益をもたらすようになった。つまり、文化によって知っておく価値のある情報が大量に生み出されたため、認知能力と記憶力を向上させることの見返りが莫大になったのだ。私自身は、哲学者として、言語が合理性の発達において果たした役割を強調したくなる(人間の脳には「言語アップグレード」が施されている、というアンディ・クラークの議論は、私の大のお気に入りである [9]訳注:アンディ・クラーク『現れる存在』第10章などを参照。 )。この立場によれば、ステップ3(言語)はステップ4(知能)に大きく先行したはずだということになるが、ヘンリックは2つのステップが同時進行していたかもしれないと考えている。

まとめ

以上が私の見解の簡単な要約だ。もちろん、ここで述べた主要な主張のどれについても、疑いを投げかけることは可能だ。どれも確立した科学的知見ではない。このエントリのサブタイトル(「人間の進化について科学が実際に語っていること」)は誇張である。私は単に、過去数十年の間に進化研究の最前線において展開されてきた議論をまとめただけだ。この理論はきちんと説明するだけの価値があると私は考えている。というのも、この議論は、単にとてつもなく見事であるだけでなく、私が生きている間に生じた、人間科学における最もエキサイティングな展開の1つだからだ。この議論が一般に知られていないのは残念なことである。科学者たちを責めるわけにはいかない。この理論の発展における重要なプレイヤーたちの多くは、一般読者向けに、専門用語を使わずこの議論を伝えようと長い時間をかけてきた。私が考えるに、問題は、伝統的な説明順序がひどく自明視されてしまっていることにある。そのため、多くの読者は、この新しいアプローチが従来の説明を完全に逆転させていることに気づけていないのだ。だが、ハラリのような人がやってきて、古臭い時代遅れな見解を、まるで最新の科学研究と整合するかのように述べることで、事態をさらに厄介にさせていることもまた問題である。

[Joseph Heath, Harari vs. Henrich, In Due Course, 2026/6/13.]

References

References
1 訳注:ジラールはピーター・ティールが好んでいる思想家であり、そのためテック業界では人気が高い。
2 原注:多くの人がこのような主張をするのは、人間と他の動物の間の連続性を指摘すれば、宗教的な人間観に反論できると考えているからだろう。それ自体は結構なことだが、人類に特有の達成を説明する段になると問題が生じることもある。これは、フランス・ドゥ・ヴァールの仕事の最大の弱点だ。ドゥ・ヴァールの議論は、チンパンジーが私たち人間と同じだと示すことに注力しすぎており、人間がなぜチンパンジーにはできないことを達成できたのか説明する際になると、困難を抱えてしまう。最も明白な例を挙げると、チンパンジーの政治が人間の政治と同じであるなら、なぜチンパンジーの社会には国家も、法も、軍隊もないのだろうか?
3 訳注:突如複雑な変異が生じたと想定していること、を指すと思われる。
4 訳注:チープトークはゲーム理論の用語で、プレイヤーの利得に影響しないようなコミュニケーションを指す。
5 訳注:言語は協力なしに成立しないという論点は、ヒースの論文“Is Language a Game?”、あるいは同論文と同じ内容が組み込まれた“Communicative Action and Rational Choice”第2章にて詳述されている。
6 訳注:集団選択とは、個体にとってマイナスとなる性質でも、集団にとってプラスに働くならば進化する、というメカニズムを指す。ここでは、協力行動は個人の適応度を下げるが、集団全体の利益になるため進化する、といった推論を指す。古典的な集団選択説は現代では支持を失っており、より洗練された集団選択説に関しても論争が続いている。
7 訳注:これは、以下のような推論を想定していると思われる。神を信じている人は、裏切り行動をとれば、神による天罰が下ると考えるだろう。これは、裏切りに対する心理的なサンクションとして機能する。そのため、神を信じている人は、協力相手として信頼可能になる。こうして、神(や神話)の信仰は協力を可能にするコミットメント装置となる。
8 訳注:なお、ここでの議論は、ヒース『ルールに従う』第6章にてより詳細に展開されている。
9 訳注:アンディ・クラーク『現れる存在』第10章などを参照。
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