ジョセフ・ヒース「社会は、“正常”な犯罪発生率を維持しようとする」(2015年7月31日)

犯罪率が低下しているにも関わらず、〔保守〕政権が犯罪に対してヒステリーを起こし、90件もの刑事司法関連法案を可決するのを、奇妙に思う人は多いだろう。しかし、このデュルケーム的な見解に立てば、完全に理解できる。

The challenge of maintaining a “normal” rate of crime
Posted by Joseph Heath on July 31, 2015

19世紀後半、エミール・デュルケームは、「社会は“正常な”犯罪率を維持しようとする」と主張し、多くの人を動揺させた。犯罪者の逮捕・処罰は、市民による社会秩序へのコミットメントを再確認する社会的機能を果たしている、とデュルケームは主張したのだ。特定の宗教共同体の構成員が公的な儀式によって信仰の再確認を行っているように、一般的社会の構成員による犯罪の処罰は同じような役割を果たしている。秩序を乱した者が適切に罰せられているという目に見える証拠によって、人は社会秩序維持の一翼を担っているとの主体性を容易に見出すことができるのだ、と。

なので〔デュルケームに言わせると〕、一般市民は、(処罰が分業化されているとしても、国家が個別迅速に代理実施しているという事実によって)犯罪者の処罰には強い関心を示す。一方、それが故に市民は、道路の整備などにはあまり関心を示さない。しかし、このような社会秩序の再確認が行われるには、まず十分な数の犯罪者が存在しなければならない。そこで登場するのが「正常な」犯罪率だ。そして、犯罪率は、社会的連帯を維持するために必要とされる水準の数値となる。デュルケームは、犯罪率がこの「正常な水準」を大きく下回ることはあり得ないと主張した。もし下回れば、社会は犯罪率を回復させるために、新しい形態の行動を犯罪化することで対応するのだ、と。

ここで暗黙に想定されているのは、反社会的行動の連続性である。反社会的行動は、単なる粗野な態度に始まり、さらに不道徳的なもの、より踏み込んで完全に違法なものと、連続的なグラデーションを描いている。反社会的行動の全てを犯罪として扱う社会はどこにも存在しない。その代りに、社会は最も悪質で有害な行動だけを選別して法的規制を行う。さらに、法的に規制されている範囲内で、警察と司法は、(完全無欠な)最も重大な法律違反にのみ執行対象を絞り、それ以外の膨大な法的違反を見逃す。

結果、「犯罪率」が低下しても、他の分野での執行や犯罪化の対象を広げるだけで、容易に元に戻すことができる(あるいは低下を遅らせることができる)。これは特に、これまでの法規制で対象外となっていた社会的逸脱行為の犯罪化によって実施される。(これは単なる立法的なプロセスにとどまらず、社会的なプロセスでもあることに着目してほしい。こうした他分野の犯罪化は、〔新しく犯罪化された〕行為への社会的許容度の低下と一致していることが多い。多くの場合は、それは「モラルパニック」を伴う)。

これは明らかに過去数十年にわたって、少年犯罪の扱いで進行してきたプロセスである。基本的に、我々社会は、成人の暴力犯罪の減少に、若年層の暴力を犯罪化することで対応してきた。少年犯罪は常に発生していたのだが、それまでは刑事司法制度の介入は必要だと考えられていなかったのである。1940年代から50年代の学校の様子を父から聞くと、生存できた人がいることが不思議に思えるほどだ。もっとも、1970年代から1980年代初頭にかけて就学していた私でも、就学中にかなり数の暴力を目撃している。特に、私が通っていた高校は荒れていた。しかしそれでも、学校でパトカーを見た記憶は一度もない。

子どもらが、殴り合ったり(ときには骨折するほど凄惨に)、ドラッグを販売したり、窃盗したりすることを、素晴らしい行為だとは当時誰も思っていなかった。刑事司法上の問題だとは考えられていなかっただけなのである。それらは、警察ではなく、教頭が対処すべき問題だとは考えられていたのだ。

以降、刑事司法制度の適応範囲が、若年層の行動にまで拡大されるのにも伴い、児童(あるいはもっと一般的な若者)を対象とする、あるいは対象当事者の性的行為への社会の許容度も著しく低下することになった。小学校2年生の頃、私は下校で、サスカトゥーン川の川岸を一人で歩いて帰ったものだった。ある日、年配の男性が私に体を見せつけ、「ちょっと遊ばないか」と誘ってきた。私は、「ノー」と言って、そのまま帰宅した。このことを両親に話しても、警察は呼ばれなかった。両親は警察を呼ぶなど想定すらしていなかったのだろう。ただ、明日からは歩道を歩きなさい、木の間の通ったり、水辺に降りたりしない、と注意されただけだった。

むろんこれは、校庭で子どもたちが殴り合ってて問題なかったとか、川岸に性犯罪者が潜んでいても気にされていなかったとか、そういった話ではない。70年代にも、現在と同じように、これらはすべて「悪いこと」とされていた。ただ、犯罪と見なされていなかっただけなのだ。私たちは社会として、何を犯罪をみなすべきかの概念を拡張し、過去の単なる反社会的な行動(あるいは問題行動であり、犯罪化以外の方法で管理すべきだと考えられていたもの)の多くを犯罪とみなすようになった。デュルケームの提唱が多くの人を動揺させたのは、このような犯罪化領域の拡大は、多くの場合で社会秩序を象徴的に肯定し続けるために、処罰対象の人間を十分に見つける必要性から起こっていると喝破したからである。

この理論が正しいか、間違えているかどうかはわからない(デュルケームが提示した手法は、機能的な説明において明らかに問題ある形式に依存している)。しかし、現在の保守党政権とその支持者たちによる刑事司法問題への態度を理解しようと苦労している私は、このデュルケームの理論の大枠は有用だと考えている。犯罪率が低下しているにも関わらず、政府が犯罪に対してヒステリーを起こし、90件もの刑事司法関連法案を可決するのを、奇妙に思う人は多いだろう。しかし、このデュルケーム的な見解に立てば、完全に理解できる。寛容さの低下〔犯罪の厳罰・厳格化〕は、犯罪率の低下の反映なのだ。つまりここでは、犯罪率を下がりすぎないように、「犯罪者」概念を拡大するメカニズムが働いている。

先日、グローブ・アンド・メイル紙の「犯罪率は下がっているが、本当に安全になっているのだろうか?」と題された記事(ニール・デサイが執筆)を読んで、驚かされることになった。この記事でも、犯罪の減少に対する奇妙な不安感が示されており、それゆえ何らかの形で犯罪を膨らませる必要性があるとされている。デサイは以下のように述べる。

悲しいことに、Statscanの報告によると、2014年には、児童ポルノ犯罪は46%、児童に対する性的暴力犯罪は6%と、いずれも増加している。テロ関連の犯罪は39%増加したと報告されている。個人情報詐欺は8%、その他の形態の詐欺は2%増加している。

表面的には、こうした増加した犯罪の分野はバラバラに見えるかもしれないが、インターネットと強く関連している。インターネット、アプリの大量普及、ダークウェブは、児童への搾取、詐欺、テロリズム等の犯罪の性質を根本的に変貌させたのだ。

http://www.theglobeandmail.com/globe-debate/the-crime-rate-is-falling-but-are-we-really-safer/article25771329/

驚いたことに、ダークウェブだけではないらしい。これは、ネットは新しい形の犯罪を産み出しているという意見だ。これは部分的には正しいかもしれないが、大抵は、ずっと行われてきた反社会的行動(おそらくネットの普及前は、その発生件数が可視化されていなかった行動)への許容度が低下した〔厳格に対処するようになった〕だけではないかと思われる。

追記:このデュルケーム的分析は、犯罪と不道徳を厳格に区別するカント的な法理論を、私が決して受け入れることができない理由でもある。

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