ジョセフ・ヒース「『力による支配』というナイーブな考え:武力だけでは社会秩序を維持できない理由」(2014年9月15日)

「ソフト・パワー」モデルを特徴づけているのは、まず何よりも、人間の動機づけの複雑さを認めようとする姿勢だ。そこには、武力の行使は人間社会における権力(power)の最も見えやすい側面ではあるかもしれないが、最も重要なものであるとは限らない、という認識も含まれている。

「ゲーム・オブ・スローンズ」という人気ドラマの序盤にこんなシーンがある。ピーター・「リトルフィンガー」・ベイリッシュが、女王のサーセイ・ラニスターと話している最中、偉そうな口調で「知は力なり」と語った。するとラニスターはしばらく彼を見つめ、護衛たちに対して、彼を捕らえて喉を掻き切るよう冷酷に指示した。

命令が実行に移される寸前で、ラニスターは護衛たちに動きを止めるよう指示した。そして、少し笑いながら、取り乱し不安に怯えるベイリッシュに向かって、「力こそが力なのだ(power is power)」、そのことを覚えておくのが身のためである、と言い放った。

このシーンの根底にあるテーマは、もちろん昔ながらのものだ。すなわち、権力(power)はどんな性質を持つのか、それは何に存するのか、という問いである。ラニスターは、伝統的な「ハード・パワー(hard power)」の立場をとっている。「ハード・パワー」論によれば、権力は究極的には武器を持つ者たちに属するものだ。そして、インテリたちはこのことを忘れて命を落とすこともある。

だが、このシーンが何を意味するかは実のところ曖昧だ。詳しくなりすぎない範囲で言うと、物語が展開するに従い、ラニスターの見解に重大な疑問が投げかけられるのだ。つまり、真の権力の基盤はなんなのか、武器を持つ者たちに安定した社会秩序を築くことができるのか、といったことが問い直されていくのである。

この1ヵ月の間、世界は再び、アメリカの軍事力がイラクに現れた様子を目撃した。アメリカによるISILへの爆撃で印象的なのは、「ハード・パワー」理論に従えば、そんな爆撃は必要なかったはずである、ということだ。アメリカは既に10年以上にわたり、1.7兆ドルを費やし、13万4千人もの人々を殺害し、イラクの支配を奪おうとしてきた。つまり、アメリカは軍事力の投入をケチってきたわけではない。それでも、イラクを実効支配できていないのだ。

このことをもって、「力こそが力なのだ」というラニスターのセリフが覆されるわけではないだろう。それでもこの事実は、権力(power)と武力(force)の行使とはいかなる関係にあるのか、という真の問題を提起する。

一見、これはそれほど難しくない問題のように思える。常識的に考えれば、人はインセンティブに反応する。人の行動を変化させたいなら、最も単純なやり方は、インセンティブを変化させることだろう。例えば、こちらの望み通りにしなければ罰するぞ、と脅すのである。相手がその脅しを本気だと信じるならば、相手はそれに従うだろう。

しかし、現実ははるかに込み入っていることが分かっている。

犯罪学の知見

まず、刑罰という単純な例から始めよう。私たちは、人々にある行動をやめさせたいとき、その行動を禁じる法律を制定する。行動に罰が伴うようにして、その行動をとり続ける人が処罰されるようにするのだ。罰が厳しくなればなるほど、人々はその行動をやめる可能性が高くなる、と私たちは考えがちである。

これはあまりにも常識に根付いていて、長い間、誰もこの理論を実際に検証しようと思わなかったほどである。そして、犯罪学者がこの理論を検証し始めた最初期の証拠は、この直観が正しいことを示唆していた。人々に何かをやめさせる方法は、その行動をとったことに対して罰を与えることだ。その行動に伴う不快さが十分なレベルに達すれば、人々はやがてその行動を思いとどまるようになるだろう。

このダイナミクスは、ある種の行動に対する社会の寛容度合いが変化する際によく見て取れる。例えば、フェミニズムの社会的台頭の帰結の1つは、家庭内暴力への許容度が下がったことだ。夫が妻を殴ることは、かつては眉を顰められる程度だったが、今や許容不可能なものと見なされるようになった。そこで問題になったのは、どうすれば家庭内暴力をやめさせることができるか、ということであった。

もちろん、そういう法律は既にあった。最大の問題は、警察にその法律を実効化(enforce)させることだった。ようは、この問題を巡る論争が決定的な局面を迎えていた1970年代、警察官の多くは家庭内暴力に対してかなり甘い態度をとっていたのだ。さらに、警告といったより弱い介入で事態を落ち着かせる方がよいのではないか、といった点に関しても意見の不一致が存在した。

軍事愛好家のウェブサイトで2014年1月14日に投稿された日付不明の画像(既に検証済みで、他のAP通信の報道とも整合的)。シリアのラッカにおけるISILの行軍。

2人の若き犯罪学者、ローレンス・シャーマン(Lawrence Sherman)とリチャード・バーク(Richard Berk)が、ミネアポリス警察署を説得してランダム化実験を行う許可を得られなければ、この問題は大部分、思弁の領域に留まり続けただろう。当時の警察でよく見られたのは、基本的に「干渉しない」というアプローチであり、加害者が逮捕されるのは最も極端な場合に限られていた。シャーマンとバークは、警察官たちにクジを引かせて、3つの対応のいずれか1つを取るよう指示した。1つ目は、仲裁すること。2つ目は、加害者を自宅から離れさせる「冷却期間」を設けること。3つ目は、加害者を逮捕して警察署に連行すること。

シャーマンとバークはデータを収集して効果を分析した。その際、3つの介入それぞれがその後の暴力の可能性にどう影響したか、という点にとりわけ注目した。2人が発見したのは、逮捕された加害者が、平均的に見て再犯率が最も低いということだった。

ここまではよかった。ミネアポリス実験のエビデンスは、アメリカの警察業務に多大な影響を及ぼし、いくつかの州は家庭内暴力事件において逮捕を義務づける法律を制定した。

残念ながら、ミネアポリス実験はサンプル集団がかなり小さく、それぞれのサンクションに対する反応の仕方が加害者ごとに大きく異なる可能性に関して判断するのが非常に難しかった。そのため、元の論文では、結果の解釈に慎重を期すよう注意書きが付されている。そこでシャーマンは、ミルウォーキーにおいて、もっと大きなサンプル集団で実験を再現しようとした。このミルウォーキー実験の結果、サンクションへの反応は加害者ごとに大きく異なる、ということが明らかとなった。

シャーマンが発見したのは次のことだった。ある人々に対しては、罰は常識が予測する通りに働いた。だが別の人々に対しては、罰は逆効果になるようだった。こうした人々を逮捕すると、暴力が抑止されるどころか、むしろ再犯の可能性が高まったのだ。実際、この場合、逮捕は状況をエスカレートさせるようだった。

例えば、逮捕は、就業している男性に対しては強力な抑止効果を持っていた。だが、失業している男性の場合、逮捕はむしろその後の暴行の可能性を劇的に高めてしまった。言い換えれば、逮捕によって彼らは、暴力を踏みとどまるどころか、さらなる暴力をふるうよう刺激されていたのだ。同様に、結婚している男性は逮捕によって暴力を抑止されやすかったのに対し、結婚していない男性は(その関係がどれほど長く続いていたかにかかわらず)暴力を刺激されやすかった。また、白人男性は暴力を抑止される可能性が高く、黒人男性は暴力を刺激される可能性が高かった。

こうした結果を踏まえ、シャーマンは刑罰の「反発(defiance)」理論を提唱するに至った。シャーマンはまず、次のような(先の思いやられる)一般化から始める。すなわち、証拠に基づけば、「法的処罰は、犯罪を減らすかもしれないし、増やすかもしれないし、なんら効果を及ぼさないかもしれない。それは、加害者、加害行為、社会的状況、そして分析のレベルに依存する」。これは、「何がどう作用するのかよく分からない」というのを洒落た仕方で言い換えているだけだ。

シャーマンは、より建設的な研究として、強制力の行使が上手く作用する条件を特定しようとした。シャーマンによる最も重要な主張は、罰が抑止効果を保つためには、加害者がその罰を正統なものと見なしていなければならない、というものだ。言い換えれば、罰はきちんと「罰」として解釈されなければならない。そうでなければ、制裁は単なる加害や迫害と受け取られ、報復的な反応を引き起こすかもしれない。

罰が機能するための2つ目の重要な条件は、加害者が、コミュニティおよび制裁者の双方と、何らかの社会的繋がりを持っていることだ。最後の条件として、加害者は、ある種の恥の感覚を抱きつつ、なおコミュニティに留まろうとする意欲を持っていなければならない(つまり、グループから疎外されることに誇りを抱く者には、罰は通用しない)。シャーマンが言うように、証拠が示すところによれば、「規範を破ることで失うものが多い者に対しては、逮捕は暴力を減らす方向に作用する。規範を破っても失うものが少ない者に対しては、暴力を増やす方向に作用する」。

さて、シャーマンは犯罪に甘い(ソフト)と簡単に貶せるような人物ではない。だが、シャーマンの理論において、武力の行使と抑止効果との間に、無数の「ソフト」な変数が介在しているということが見て取れる。つまり、武力で強制するだけではダメなのだ。その強制を正しい仕方で(少なくとも、制裁者の意図した仕方で)解釈させなければならない。これはときに、難しい仕事となる。

それゆえ、犯罪の原因を学ぶほど犯罪に関心のある者なら誰でも知っているように、罰、強制、武力の行使は、極めて限定的な効果しか持たない場合がある。

より一般的に言うと、シャーマンの研究が示しているのはこういうことだ。国家が市民をコントロールするために有しているハード・パワーは、多くの人が考えているよりもはるかに限定的なものである。国家は、その領域内における暴力の行使を独占しているとはいえ、その暴力行使の解釈のされ方までは独占できない。そのため、暴力行使がどんな帰結をもたらすかまではコントロールできない。国家は全てのカードを手元に揃えているように見えて、実のところ、安定した社会秩序を生み出せるとは限らないのだ。

ハード・パワー理論

政治イデオロギーの違いの中には、単に個人の気質や経験の違いに過ぎないものもある。だが、経済はどう動いているのか、国家権力の適切な限界はどこにあるのか、社会の成功をもたらすのはどんな要因なのか、といった根本的な問題に関する根深い対立を反映している部分もある。

ハード・パワーを巡る論争は、こうした根深い対立の1つだ。この問題に対してどんな立場をとるかは、刑事司法だけでなく、他の様々な問題に関しても重大な含意を持つ。ラニスターの「力こそが力なのだ」という言葉に同意する人は、経済学者の考え方を直観的にもっともらしいものと感じるだろう。経済学者は市場経済について考える際、外的インセンティブのみに焦点を当てる。また、そのような人々にとっては、〔国際関係論における〕リアリストの考え方も常識的なものに映るだろう。リアリストは外交政策について考える際、国益と軍事力のみに焦点を当てる。

こうした領域の全てにおいて、「ハード・パワー」モデルを採用している政治家、公務員、学者、評論家が数多く存在する。彼ら彼女らは、人間が(経済的であれ軍事的であれ)与えられたインセンティブに反応する仕方を予測する際、「ハード・パワー」モデルを用いる。

それでも、「ハード・パワー」モデルは弱点を抱えており、このモデルに基づく予測の多くは誤りであることが分かっている。シャーマンが家庭内暴力の研究で発見したように、罰は期待通りに働く場合もあれば、正反対の効果をもたらすこともある。残念ながら、「犯罪に厳しく当たるべきだ」と主張する人々に対してこのことを分かってもらうのは非常に難しい。もっと一般的に言うと、「ハード・パワー」モデルの支持者たちは、自分たちの予測が破滅的に間違っていた場合でも、自らの見解を修正することを極端に渋るのだ。

例えば、アメリカによるイラク侵攻の初期、外交政策タカ派がひどく興奮していたことを思い出そう。イラク侵攻は、自分たちの見解の正しさを証明する歴史的な機会を与えてくれる、と彼ら彼女らは本気で思っていたのだ。例えば、ロバート・フルフォードが2003年4月10日、バグダッド陥落が「世界史の転換点」であり、「私たち全員にとって新しい時代」の幕上げを告げるだろう、と興奮気味に宣言していたのはこのためだ。

フルフォードによれば、「平和をもたらせるのは力だけである」。そして、軍事力でアメリカに並ぶ国は世界中のどこにもいないから、アメリカは西洋の伝統的な外交政策の目標(例えば民主主義の促進)を達成できる唯一の国となった。イラク侵攻はその証明となるだろう。それは「時宜を得たタイミングで勃発したことで、変化と啓示をもたらす」のだ、と。

検証の機会としてのイラク侵攻

イラクは、そのような強い予測の焦点となった。「ハード・パワー」モデルの支持者たちは従来、自らの社会秩序の理論に対する反証を拒んできたからだ。どんな社会問題について論じる際でも、彼ら彼女らの提示する処方箋は、当事者たちに対して武力を行使し、インセンティブ構造を変化させる、というものであった(今もそうだ)。望ましい行動をしている者には報酬を与え、していない者には罰を与えよ、というのだ。

だが、こうしたやり方は上手くいかないことが多い。力を用いることで、人々にルールを守らせるどころか、かえって反発を生んでしまうのだ。ここで、「ソフト・パワー」モデルの支持者はこんなことを言うだろう。「そのモデルが上手くいかないのは当然です。やり方が間違っていたんですから」。だが、「ハード・パワー」モデルの支持者は、自分たちの理論を改訂したり放棄したりはせずに、次のように答えるだろう。「そんなことはない。問題は、武力が上手く働いていないことではなく、武力投入がまだ十分でないことだ」。

こうしてエスカレートが生じる。それでもこのやり方は上手くいかず、さらなる反発を生むだけであることが多い。ここで「ソフト・パワー」モデルの支持者たちは再び、「やっぱりやり方が間違っているんですよ」と繰り返す。これに対して「ハード・パワー」モデルの支持者たちはこう答える。「違う、我々は間違っていない。問題はお前らだ。お前らみたいなのがいるせいで、敵は我々の弱さを感じ取って、こちらの決意の固さを疑うのだ。もっと武力を投入すべきなのである。そして、お前らは黙っているべきだ」。

ここに、危険なほど反証不可能な世界観の基本構造が見て取れる。武力行使によって望んだ結果を実現できなかった場合、それは単に「武力投入が十分でなかった」ことの証拠として受け取られる。他人から批判を受けても、そうした批判こそ、武力行使が上手くいっていないように見える理由だとされる。だから、批判者の意見に耳を貸す必要はないし、解決策は当初のプランをいっそう強く推し進めることだ、ということになる。

イラク侵攻があれほどの興奮を引き起こしたのはそのためだ。アメリカは長らく中東で武力を行使してきたが、その目標の多くを達成できてこなかった。一方で、アメリカはどこかで手加減しており、本気を出していないという感覚がハッキリと存在していた。しかし2003年当時、大統領ジョージ・W・ブッシュが全力を出すつもりであることは、疑い得ないように思われた。「今度は本気だ(gloves were coming off)」と人々は好んで口にした。

「ハード・パワー」モデルの支持者たちの間には、「自分たちの正しさが証明されてこなかったのは、これまでアメリカの軍事力の行使が十分に決定的なものでなかったからに過ぎない」という強い感覚があった。だが、今や事態は変わった。イラクを安定し繁栄した民主主義国家にすることができれば(当時、イラク侵攻はそうした結果をもたらすと彼ら彼女らは考えていた)、「ソフト・パワー」の論者たちを未来永劫黙らせることができるだろう。

デイヴィッド・フラムやリチャード・パールが、ブッシュの行動を「悪の終焉」を告げるものと、ほとんど終末論的に表現したのはこのためだ。彼らはオスマ・ビン・ラディンの「人々が強い馬と弱い馬を見れば、本能的に強い馬を好むだろう」という主張を好意的に引用している。

フラムとパールによれば、ブッシュは単に、「アラブ世界」の人々に対して、どちらの馬がより強いのかを示そうとしただけだ。「サダム・フセイン体制の首根っこを摑まえて壁に叩きつけることで、アメリカは、ビン・ラディンの自信が偽りのものであり、アメリカが圧倒的に強いのだということを示したのだ」。それが示されてさえしまえば、あとは全てが然るべき場所に収まるだろう、と彼らは考えていた。

こうした議論の中で繰り返し述べられていたのは、アメリカの攻撃によって幻想のヴェールが崩れれば、人間社会を機能させている根本的な仕組みが誰の目にも明らかになる、という考え方だった。心優しい人々は、物事を立派なフレーズや甘い言葉でくるみたがるが、いざとなれば物事を決定するのは武力である。残念ながら、あまりにも多くの人が、装飾部分と駆動部分を勘違いしており、結果、装飾部分が社会をコントロールできる程度を著しく過大に見積もってしまっている。

この議論を最も力強く打ち出してきたのは、ロバート・ケーガンである。ケーガンは、「アメリカ人は〔戦いに結びつけられる〕火星から、ヨーロッパ人は〔美に結びつけられる〕金星から来た」との主張で注目を集めた。よくあるカップルのお悩み相談では、〔男性は火星から、女性は金星から来たとしばしば言われるが〕金星から来たことには何も問題ないとされている。これに対してケーガンは、〔金星から来た〕ヨーロッパ人の考えは子どもじみた幻想だ、とハッキリ述べている(実際、ケーガンの本を読んでいると、彼がテーブルを叩きながらヨーロッパ人の同僚たちに向かって「お前らには現実が見えていない!」と言っている姿を想像せずにはいられない)。

ヨーロッパ人は、「法の支配」だとか、国際問題における正統性の重要さだとか、意識の高いことを色々言っている。この点でヨーロッパ人は魔法の楽園に暮らす子どものようなものだ。この楽園が安全かつ清潔に保たれているのは、その周りをアメリカ軍がパトロールして回っているからに過ぎない。

ケーガンは次のように述べている。「ヨーロッパはパワー・ポリティクスを拒否し、国際関係におけるツールとしての軍事力を過小評価している。だがそれも、アメリカ軍がヨーロッパに駐留することで可能となっているに過ぎない」。それゆえ皮肉にも、「武力はもはや重要ではない、とヨーロッパ人が信じられるのは、アメリカの軍事力のおかげなのだ」。

こうして、ケーガンにとっては我慢ならない光景が展開された。すなわち、アメリカによるイラク侵攻という賢明な判断に、ヨーロッパの指導者たちがケチをつけるという事態だ。ケーガンは次のように驚きを表明している。「ヨーロッパの指導的な公職者や政治家は、イラクやサダム・フセインの大量破壊兵器よりも、イラク問題をアメリカがいかに扱うか(あるいは扱いを誤るか)を心配しているようだ」。

ケーガンはここで、彼にとって不都合な事実を巧妙に隠している。すなわち、過去25年間、世界における民主化の最も強力な推進力となってきたのは、アメリカ軍ではなく、EUであったということだ(EU加盟という「アメ」を上手く利用して、東欧諸国を民主主義陣営へ取り込んだ)。ひ弱で軟弱な人間は、これをもって「ソフト・パワー」アプローチの正しさが証明された、と勘違いしてしまうかもしれない。だからこそケーガンは、これらの成果は実のところ幻想に基づくものだ(EUのソフト・パワーの根底には、アメリカ軍のハード・パワーが存在する)と主張しているのである。

ケーガンや他の論者たちがイラク侵攻を寿いだのは、それが全てを白日の下に晒すはずだと思われたからだ。それは、純粋で混じりけのない、むきだしの力の行使によって何が達成できるのかを、世界中の人々に知らしめるだろう。

モデルを見直すべきとき

あれから11年経ったが、アメリカの戦闘機は今もイラクを空爆し続けている。急進的なイスラム・カリフ勢力に直面して、既に機能不全に陥っている政府が崩壊してしまうのを防ぐためだ。フルフォード、フラム、パール、ケーガン、その同類たちが行った議論は打ち砕かれた。これほどハッキリと理論が反証され、予測が外れることはそうそうない。彼ら彼女らは、多くの人にとって明白だった事実を、理解することも予測することもできなかったのだ。すなわち、アメリカはイラクに秩序をもたらせないだろうし、安定した民主主義を確立することもできないだろうし、それどころかむしろ、宗派間の対立を解き放ってしまうだろう、ということだ。アメリカはイスラエルと同盟関係にある外からの闖入者としか見なされないだろうし、そうした状況でアメリカが武力を行使すれば、人々はアメリカに従うどころか、いっそう反発を強めるだろう。

イラク北部のクルド人自治区の首都アルビールにおけるアメリカ総領事館前のデモで、アメリカに感謝するプラカードを掲げるイラク系クルド人とイラク系キリスト教徒。これは、アメリカがイラクにおけるスンニ派のイスラム国の進行を阻止するために空爆を始めた数日後の、2014年8月11日の光景である。写真はSAFIN HAMED /GETTYより。

これほど壊滅的な判断ミスをすれば、評論家でもない限り、どんな仕事でもキャリアの終わりとなるだろう。問題は、彼ら彼女らのうち一部でも、自らの見解を変えたのかということだ。

似たような状況と比べてみよう。過去6年間にわたり、アメリカの右派経済学者たちの多くは、FRBが金融「緩和」を続ければインフレが慢性化するだろう、と警告してきた。だが6年経った今も、恐れられていたインフレは全く現実化しておらず、近い将来起こる兆しすら見えてない。

こうした経済学者たちはみな、なぜ自分の予想が外れたかを説明するちょっとした「お話」を用意している。だが、ポール・クルーグマンが指摘しているように、ある点を超えれば、そうした「お話」を脇に置いて、もっと根本的な問題について考え始めなければならない。というのも、そうした経済学者たちは、当てずっぽうで将来を予測したわけではなく、経済の仕組みに関する一定のモデルに基づいて予測を立てたのだ。そして、クルーグマンのようにインフレ率は低いままだろうと予測してきた経済学者もまた、自らのモデルを用いて予測を行っていた。両者は、用いているモデルが異なっていたのだ。一方のモデルが一貫して正しい予測を出し続け、他方のモデルが間違った予測を出し続けるなら、間違っている方のモデルを捨てるべきかについて考え始めなければならない。

同じことはイラク戦争にも言える。「ハード・パワー」モデルの支持者たちは、社会秩序・政治秩序がどのように維持されているかに関する自らのモデルに基づいて、予測を立てていた。これは、経済、刑事司法、外交政策に関する右翼の思考の多くを特徴づけるモデルだ。だが、これほどひどく予想が外れたなら、「これこれこういうことが起こったせいで、予測通りにならなかったのだ」というちょっとしたお話を語るだけでは済まされないように思われる。むしろ、壊滅的なほどに誤った予測を生み出した、根底にあるモデルの方を疑問視し始めるべきだ。

もちろん、武力は全く役に立たないとか、処罰は社会秩序にとって不必要だとかと言っているわけではない。「ソフト・パワー」モデルの支持者たちは、話し合いだけで何もかも解決できる、などと主張しているわけではないのだ。「ソフト・パワー」モデルを特徴づけているのは、まず何よりも、人間の動機づけの複雑さを認めようとする姿勢だ。そこには、武力の行使は人間社会における権力(power)の最も見えやすい側面ではあるかもしれないが、最も重要なものであるとは限らない、という認識も含まれている。

イラクにおけるアメリカの政策が失敗した主な理由は、アメリカこそが正統な権威であるという認識を、イラクの一般市民たちに広めることができなかったことだ。それどころか、アメリカは反発の文化を生み出してしまった。さらなる武力投入は、その場しのぎにしかならない。それは事態を束の間落ち着かせるとしても、真に安定した社会秩序の条件を確立することはできないのだ。

〔本エントリはOttawa Citizen誌に掲載されたもので、ジョセフ・ヒース教授の許可を基に翻訳・公開している。〕

[Joseph Heath, The hard truth about hard power, Ottawa Citizen, 2014/9/15.]
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