アレックス・タバロック 「経済学者の間で脈々と受け継がれる『既成道徳の転倒』という伝統芸」(2014年6月12日)

●Alex Tabarrok, “The Moral Inversion of Economic Thinking”(Marginal Revolution, June 12, 2014)


ティモシー・テイラー(Timothy Taylor)が、「経済学とモラル」と題された小気味よい小論(pdf)で、「経済学が人を堕落させる学問だと取り沙汰されているのは、なぜなのだろう?」と問うている。

七つの大罪――肉欲(色欲)、怠惰、貪欲(強欲)、妬み、うぬぼれ、憤り、暴食(放蕩)――に加えて、敵意、執着、利己心(わがまま、自分勝手)、残虐性を対象にする学問は多い。例えば、政治学、歴史学、心理学、社会学、文学などがそうだ。こういう学問を学んでいる学生たちは、ソシオパス(反社会的な性向の持ち主)になるための訓練を受けているようなものだと危惧されているかというと、そうとは思えない。経済学だけが「人を堕落させる(ダメにする)学問」だと思われているのは、なぜなのだろうか?

アーノルド・クリング(Arnold Kling)の答えは、以下の通り

経済学だけが「人を堕落させる学問」という汚名を着せられているのは、なぜなのだろうか? その理由は、経済学が「意図ヒューリスティック」とでも呼べるものに真っ向から挑みかかるからではないかというのが私の考えだ。行為の「意図」が私心のない善意に満ちたものであれば――その行為が自らの利益ではなく他者(ないしは社会全体)の利益の促進を「意図」したものであれば――、その行為は立派。行為の「意図」が自らの利益を追求することにあれば、その行為は立派とは言えない。そう判断するのが「意図ヒューリスティック」だ。

私なりにもっと端的に言い換えよう。経済学の評判が悪いのは、悪徳を研究対象にしているからというだけではない。悪徳が時として好ましい結果をもたらすことを暴露しているためでもあるのだ。経済学が「既成道徳の転倒」という役目を引き受けるようになったそもそものはじまりは、マンデヴィルの『The Fable of the Bees』(邦訳『蜂の寓話』)にまで遡る。私的な悪徳が社会全体に恩恵(公共善)をもたらす可能性を描き出している、スキャンダラスで不道徳極まりないこの一冊の本(pdf)がはじまりなのだ。それに続くのが・・・、そう、アダム・スミスだ。『国富論』の中に出てくる「見えざる手」の比喩にしても、かの有名な一節――「われわれが食事にありつけるのは、肉屋や酒屋やパン屋の主人が博愛心を発揮するからではない。彼らが自分自身の利益を追求するからだ」――にしても、「私悪すなわち公共善」というマンデヴィルに由来するテーマを繰り返したものなのだ。

「私悪すなわち公共善」というテーマが顔を出すのは、利己的な行為やミクロ経済学の分野だけに限られない。あのケインズもマンデヴィルを賞賛している [1]訳注;山形浩生氏による訳はこちら(ケインズ『一般理論』, … Continue readingのだ。いわゆる「貯蓄のパラドックス」をいち早く発見した人物として、マンデヴィルを褒め称えているのだ。貯蓄(倹約、節制)という美徳が経済全体を疲弊させる(景気を冷え込ませる)一方で、消費(贅沢)という悪徳が国を繁栄させる場合があるというわけだ。このことを繰り返し強調しているのがポール・クルーグマンで、「経済学は道徳劇ではない」と口を酸っぱくして注意して回っている。クルーグマンの次のような発言は、長い歴史を持つ既成道徳に喧嘩を売っているのだ。

これまでに何度も繰り返し語ってきたが、今のこのような状況 [2] 訳注;名目金利がゼロ%近くにまで下がっているにもかかわらず、総需要不足が解消されずに景気の低迷が長引いている状況。が続く限りは、美徳が悪徳に転じ、思慮深さが愚鈍に転じるのだ。誰かがもっとお金を使う必要がある。その使途が賢かろうがそうでなかろうが、ともかく支出を増やすことが何よりも求められているのだ。

経済学者であれば、誰もが「合成の誤謬」について知っている。軽い羽をかき集めた塊も同じく軽いかというと、そうとは限らない。悪い行いが寄せ集まると悪い結果が引き起こされるかというと、そうとは限らない。良い行いが寄せ集まると良い結果が引き起こされるかというと、そうとは限らない。

ハイエクもマンデヴィルを賞賛した一人(pdf) [3] 訳注;ハイエクのマンデヴィル論の邦訳は、『市場・知識・自由』や『思想史論集 (ハイエク全集 第2期)』に収録されている。であり、既成道徳に異を唱えた一人こちらも参照)だった。それも当然と言えば当然だ。一見すると汚れているように見える行為や信念(考え)が好ましい帰結を生む可能性がある――「自生的秩序」――かと思うと、一見すると清らかなように見える行為や信念(考え)が悲惨な帰結を生む可能性がある――「先祖返りとしての社会正義」――ことを知り尽くしていたのだから。

経済学者が既成道徳に異を唱えている例と言えば、ちょっと前にも目にしたばかりだ。ティモシー・ガイトナー(Timothy Geithner)の次の発言がそれだ。

「・・・(略)・・・パニックの最中においては、失業者が急増するのを防ぐために、放火犯に救いの手を差し伸べるかのような措置も講じないといけない [4] 訳注;巨大な金融機関を救済する、という意味。のです」。 

クリングが指摘しているように、既成道徳は行為の「意図」の是非を云々するのに終始する一方で、経済学者は行為の帰結(結果)に関心を払う。行為の帰結を問題にする点では、帰結主義の立場に立つ哲学者も同じだ。しかしながら、経済学者は、大勢(おおぜい)がやり取りし合う結果として最終的にどのような「均衡」に落ち着くかを分析するために使える道具(ツール)を手にしている。最終的な結果――「均衡」――は、一人ひとりの「意図」と大きくかけ離れているかもしれない。・・・なんてことを言い放つ経済学者(経済学という学問)は、既成道徳に刃向かう側に立つことがどうしても多くなってしまうのだ。

References

References
1 訳注;山形浩生氏による訳はこちら(ケインズ『一般理論』, 「第23章 重商主義、高利貸し法、印紙式のお金、消費不足の理論についてのメモ セクションVII」)。
2 訳注;名目金利がゼロ%近くにまで下がっているにもかかわらず、総需要不足が解消されずに景気の低迷が長引いている状況。
3 訳注;ハイエクのマンデヴィル論の邦訳は、『市場・知識・自由』や『思想史論集 (ハイエク全集 第2期)』に収録されている。
4 訳注;巨大な金融機関を救済する、という意味。
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  1. あんた、マンデヴィル本当に読んだんかー、と言いたい。マンデヴィルは、悪徳に見えることが社会的にいいこともある、とか可能性がある、とか述べたのではなく、悪徳に見えることも「すべて」「必ず」社会的にいいと述べてるトンデモで、ケインズの引用部分だけ読んでほめている人は、実はケインズのジョークにはまってるだけだジョー。http://cruel.hatenablog.com/entry/2015/08/14/145

    1. マンデヴィルの貢献は「私悪すなわち公共善」というパラドックスの可能性に目を開かせた(突破口を開いた)ことにあり、その後の経済学の歴史はマンデヴィルの粗っぽい議論を(そのまままるごと受け継ぐのではなく)精緻化していく過程である(例えば、「貯蓄のパラドックス」が成り立つのはどういう場合か等々という場合分け)、というように言えるのかもしれませんね。何だか優等生的なコメントになりますが。

  2. これは非常に良いコラムだと思います。哲学的にケインズの経済学が難解とされる理由でもあると思います。奢侈の経済学は廃れてしまいましたが、今こそ見直されるべきと思います

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