ティム・デュイ「敬意と所得の平等」

Tim Duy “On Respect and Income Equality” (Tim Duy’s Fed Watch, January 06, 2014)

補足1:先日訳したノア・スミスのポストへ、タイラー・コーエンに続きティム・デュイが反応したもの。このテーマについてはhimaginary氏マンキュークリス・ディローコーエン記事のコメント欄を紹介しているので興味ある方はそちらもどうぞ。
補足2:本文中に引用されている映画やアダム・スミスの著作にはそれぞれ邦訳版が存在するが、ここでの訳は独自に行ったものなので注意。


私たちに必要なものは所得の平等ではなく敬意の平等であるとして、ノア・スミスが在りし日を思って嘆いている

このままじゃいけないと思う。どれだけのお金を稼ぐかに関わらず、非熟練労働者の一生懸命な仕事が社会交流の中で価値あるものと見なされる社会へと立ち戻りたい。良き親、良き隣人であることが、ウォール街で100万ドル稼ぐのと同じように敬意を払われるような社会へと立ち戻りたい。

つまり、僕は僕らの「デモクラシー」を取り戻したいんだ。僕らには敬意の再分配が必要だ。

私が最初に思ったのは、「そんな世界が今までに存在したことはあるのか」というものだった。おそらくは私より幾分年上の人のほうが詳しいだろうが、私が心配するのは、そうした牧歌的な過去観は1950年代のシットコムから得られるものであって、そこからはアフリカのアパルトヘイトのような不都合な問題は排除されているということだ。

その次に思ったのは、過去においては敬意が今よりもより平等に分配されていたとして、それはほぼ間違いなく所得がより平等に分配されてからだというものだ。スタンブリング・マンブリンブ [1]訳注;ブログ名 のクリス・ディローも同様の理解をしている

(中略)僕はノアが敬意の不平等は内生的であるという点を過小評価しているのではないかと思う。権力や富の不平等を作りだし、それを維持する力が敬意の不平等を生み出しているんだ。

3点目に思ったのは、これは実のところ新たな話題ではないということだ。貧乏人を軽蔑するというという現在の傾向は、遥か以前から存在している。事実これは古き友人、アダムスミスの「道徳感情論」を読むのには良い機会だろう。スミスは所得の不平等が敬意の不平等を生み出すという点を認識していた。

金持ちや権力者については称賛ないしほぼ崇拝し、貧しい人や平均的な人を軽蔑、少なくとも無視するこうした心性は、階級の区別と社会秩序を作り維持するために必要なものではあるが、それと同時に我々の道徳感情の腐敗の原因の最も大きく普遍的なものである。しばしば富と名声は、ただ叡智と徳のみに起因する敬意と称賛の目で見られ、悪と愚昧のみを固有の対象とする軽蔑は、しばしば非常に不当に貧困と弱さの上に投げかけられているのであり、これはいつの時代においても倫理家が訴えてきたことである。

アダム・スミスはパラグラフを次のように続けており、これは何度も読み返すほどに美しい。

我々は敬意を払うに値するよう欲し、敬意が払われることを欲する。我々は軽蔑されるべきとなることを恐れ、軽蔑されることを恐れる。しかし、この世界に降り立ってみれば、叡智と徳は敬意の唯一の対象ではなく、悪と愚昧も軽蔑のそれではない。この世界の敬意の心が、賢さと道徳性よりも豊かさと名声へより大きく向けられるのを目にするのは稀ではない。強き者の悪と愚昧への軽蔑が、貧者の心の清さへのそれよりも薄いことを目にするのは稀ではない。人々の敬意と称賛に値し、それを獲得し謳歌することは野心と競争の大きな目標である。我々の前には二つの異なる道が開かれ、この強く渇望される目標への到達へそれぞれが等しく続いている。一つは、叡智の習得と徳の実践である。もう一つは、富と権威の獲得である。我々の競争には二つの異なる性質がある。一つは、高慢な野心と仰々しいまでの貪欲である。もう一つは、謙虚な慎みと公平な正義である。二つの異なるモデル、二つの異なる絵が我々の前には示され、それらは私たち自身の性質と振る舞いを形作るものである。一つは、より派手できらびやかな色をするものである。もう一つはより正しく、より洗練されて美しい輪郭を持つものである。前者は周囲の視線に注目を強いるものであり、後者は万人に対してではないが、最も熱心で慎重な観察者を引き付けるものである。彼らは賢く徳を備えるものたちであるが、残念ながら叡智と徳の実際かつ確固たる称賛者は、大概において選りすぐりではあるが少数なのである。多くの大衆は富と名声の称賛者かつ崇拝者であり、さらにより驚きうることとして、それは非常に多くの場合公平無私な称賛者かつ崇拝者なのである。

貧しさと「悪と愚昧」を同一のものとする傾向は、古くからの伝統だと思う。変わったかもしれないのは次のことだ。

美点の程度が等しい場合において、貧者や地位の低いものよりも金持ちや名声のある者へより多くの敬意を払わない者はほとんどない。真性かつ確かな前者の美点よりも、後者の厚かましさや虚栄心がほとんどの人間からは遥かに多くの称賛を受けるのである。美点や徳から切り離された単なる富と名声が我々からの敬意に値すると述べることは、正しい道徳あるいはおそらく正しい言葉とすら適うところが少ない。我々はしかしながら、そうした富や名声がほぼ常に敬意を得ており、したがっていくつかの点においては敬意の本質的な対象と見なされることもあることを認めなければならない。

富や名声それ自身が敬意に値すると公に主張することが、「道徳と適うところが少ない」と現代で思われているかどうか自信がない。あるいはより悪質なことに、貧困それ自体が軽蔑に値すると主張することもそうだ。事実、「貧乏人との戦い [2]訳注;米共和党員の発言に起因する。貧乏なのは怠惰であるためという趣旨。 」は今やとても広く公になっているように思える。これは所得不平等の止まることのない拡大と、金持ちにはそうした不平等を正当化する必要があるということに起因するのだと思う。そうした正当化についてはアダム・スミスも嘆いたところだ。「富は必ずや道徳的な優越性を示すものであって、運はそこに何ら関係していない。」

さらに、ノア・スミスは1980年代を指して大衆の会話から敬意が消えた時としている。

この点について、僕の故郷であるアメリカが日本から一つ二つ学ぶことができたらと思う。1980年代以前に「負け組(loser)」という単語がよくある侮辱だったかどうかは知らないけど、ここ数十年でこの単語は至る所に現れるようになった。サービス業に従事する人たちは、どうやって生計を立てているかを僕に伝える際、ほとんどいつも恥じ入っているように見える。低熟練労働者は上から目線にさらされており、自分が「負け組」であることを常に思い出させられるんだ。

貧乏人への敬意の欠如が1980年代初めに始まったことは驚くべきことではない。これは不平等が爆発的に伸び始めた時でもあるのだ。金持ち/貧乏というテーマが一般の文化に表れるのにも時間はかからない。「Trading Place(邦題:大逆転)」を丁度見たのだが、1983年のこの映画は金持ち側からの貧乏人への敬意の欠如を上手く使っている。このテーマは1986年の映画「Pretty in Pink(邦題:プリティ・イン・ピンク/恋人たちの街角)」でも核心となっている。ブレーンが「貧しい側世界の女の子」であるアンディを金持ちのステフのパーティーへ誘った後の印象的なシーンだ。

ステフ:おい、夕べはダサかったなブレーン。
ブレーン:何が?
ステフ:(からかって)何だと思う?
ブレーン:アンディのことを言ってるのか?
ステフ:そうだよ、アンディのことだ。
ブレーン:何か問題あるのかよ。俺はアンディが好きなんだ。正直お前らがアンディになめた態度取るのスゲーむかついたわ。
ステフ:あいつをパーティに来させるなんてありえねーから。
ブレーン:(信じられないという感じで)ステフ、自分が何言ってんのか分かってるか?今俺の耳に聞こえた糞みてーな言葉はお前の口から出てるのと同じものか?
ステフ:はあ、紙に書いてあげなきゃ分らないか?
ブレーン:(むかついて)そうだな。
ステフ:笑えねーんだよマジで。正直、みんな吐き気がしてんだよ。貧乏人相手に盛るなら俺たちに見えないとこでやってくれ。

社会的な圧力がブレーンに耐えきれないものになる。

ブレーン:何を言わせたいんだ?
アンディ:言いなさいよ!
ブレーン:何を?
アンディ:私と一緒なのを見られるの恥ずかしんだわ。
ブレーン:そんなことない!
アンディ:私と出かけるの恥ずかしいのよ。金持ちのお友達が反対するのが怖いんだわ。
(アンディがブレーンを叩く)
アンディ:言いなさいよ!
(アンディがもう一度叩く)
アンディ:本当のことだけ言ってよ!
ブレーン:分かってくれ。君のこととは全然関係ないんだ。
(アンディが走り去る)
ブレーン:(涙をふいて)アンディ!

映画の結末によくあるように、ブレーンは富や名声を徳と叡智と自動的に同一視すべきではないというアダム・スミスの指摘へとたどり着く。

ブレーン:彼女を金で買えなかった、本当はそれが苦しいんだろステフ?そうなんだよステフ。彼女は君をクズだと思ってる。そして心の底では彼女が正しいとわかってるんだ。

しかし1986年以降、所得不平等は拡大を続け、それとともに貧乏人への軽蔑も増えた。ジョン・ヒューズ [3]訳注;プリティ・イン・ピンクの監督 の映画のように人生が終わることはめったにない。

だから敬意の平等を追い求めるべきだというノア・スミスに同意はするが、私はクリス・ディローと同じで、それは所得の平等が拡大した後にのみ訪れるものだと考えている。所得平等の拡大は所得だけに基づいて互いの道徳的な比較を行うということを難しくする。所得平等の拡大は、敬意の基盤として他の要素(「…賢明、公正、堅実かつ節度ある振る舞いを伴う、真性かつ確かな専門能力…」 [4]訳注;スミスの引用 )へと目を向けさせるのだ。

追記1:昔、私は「Pretty in Pink」を使ってマルクスを説明するよう生徒に課していた。際立ってよく勉強している生徒たちはすぐに、アダム・スミスのほうがよくあてはまると指摘して反論した。

追記2:アダム・スミス理解としてはおかしいとガヴィン・ケネディから怒られるのを楽しみに待ってる。

References

References
1 訳注;ブログ名
2 訳注;米共和党員の発言に起因する。貧乏なのは怠惰であるためという趣旨。
3 訳注;プリティ・イン・ピンクの監督
4 訳注;スミスの引用
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