アダム・トゥーズ「安倍晋三の遺産:イールドカーブ・コントロールと “未亡人製造機 (日本国債空売り)”取引」(2022年7月8日)

安倍晋三の暗殺事件は、狂信者による一匹狼的な犯行のようだ。しかし状況が、これを単なる偶発的な事件にしていない。

Chartbook #136: The legacy of Shinzō Abe, yield curve control & the “widow-maker” trade.
Posted by Adam Tooze, Jul 8

安倍晋三の暗殺事件は、狂信者による一匹狼的な犯行のようだ。しかし状況が、これを単なる偶発的な事件にしていない。

安倍氏は撃たれたとき、現在日本で争点となっている彼のレガシー(遺産)を巡る選挙活動の渦中にあった。

安倍氏は、紛うことなきナショナリストであり、歴史曲解主義者だった。一方で、彼は今日、東アジアの外交政策における新しい現実主義を推進したことで高く評価されている。彼は、ロシアによるウクライナ侵略と米中間での緊張の高まりを、自身による戦後タブーを破った新しい日本の安全保障政策の正当性の証明とみなしていた。バイデン政権は、カート・キャンベルのような「アジアへの回帰」論の影響を受けて、日本との同盟関係を再確認している。アナリストの多くにとって、安倍氏はインド太平洋封じ込め政策の予見者でもあった。

殺害された当日の演説で、彼がもう一つ大きな話題としていたのが、日本の経済状況についてだった。この件では、彼は守勢に立たされている。彼は、自身による経済政策のレガシーが脅かされている渦中に殺害された。世界の中央銀行が引き締めに転じる中、日本銀行が独歩的なポジションを維持し続けられるかどうかが、これまで以上に差し迫った問題となっているのだ。

安倍氏は、2012年の総選挙で、「三本の矢」(機動的な財政政策、金融緩和、構造改革)に基づく経済政策(すぐにアベノミクスと呼ばれるようになった)の採用を公約に掲げ、当選した。

安倍氏は、日本も大きな打撃を受けた2008年の金融危機の際には首相の座に着いていない。日本の民間銀行は、欧米に比べて比較的良好に金融危機を乗り切ったが、輸出は大きな打撃を受けた。これは、1990年代から顕著となっていた不況とデフレ圧力をさらに悪化させた。2009年の最悪の月には、日本は2%を超えるデフレを記録している。

日本のインフレ率:出典 トレーディング・エコノミクス

物価の下落は、非常に危険だ。不況が予測される状況下では、自己実現的な下降スパイラルを招くからである。物価の下落は、投資資金を調達するために借り入れを行うとする人に懲罰的影響を与える。安倍氏が目標としていたのは、日本を2%以上のインフレ率に乗せ、投資と成長を回復させることにあった。

彼の野心的なアジェンダ(政策目標)となっている3本の柱については、その評価は様々だ。

構造改革については、好意的に見ても部分的な成功に留まっている。

労働人口の減少に対処するため、安倍氏は女性の労働市場への参加を支持した。彼の政権期間中、日本の女性はかつてないほど労働市場に参入した。日本の女性賃金労働者の割合が、アメリカよりかなり高いという事実は、歴史的に見ても大きな転換点だ。

各国の女性の労働参加率の緩やかな上昇

しかし、日本の男女関係は、構造的観点ではほとんど変化していない。日本は依然として家父長制的構造が非常に根強く残っている

安倍氏は、ナショナリズムを標榜する一方で、構造改革を実施したため、彼の政策は不明瞭な近代化実験の様相を呈している。

構造改革とは対照的に、安倍政権の財政政策は大胆に開始された。2013年には10兆300億円(1160億ドル)の景気刺激策を実施し、政府支出を増やしている。しかし、正念場を迎えた翌年には、前政権が立法化した消費税増税を容認してしまった

財政刺激策の後退によって、アベノミクスは事実上、金融政策による片翼飛行となった。この金融政策は、日本の経済政策において、中途半端と批判できない政策だ。

2013年2月、安倍氏は、自身の拡張的政策の一環として、黒田東彦を日銀総裁に任命した。黒田は、長期にわたる金融緩和政策の支持者だった。副総裁には、以前から日銀の政策を批判してきた岩田規久男と、日銀の国際業務を担ってきた中曽宏が選ばれ、黒田総裁の政策路線の強化が計られた。

黒田らは即座に積極的な金融政策を採用し、2014年にはさらに政策を倍増させた。2016年1月には、政策はまだ不十分だと判断し、マイナス金利政策に踏み切り、2016年9月には10年債を狙いを定めたイールドカーブ・コントロール政策を採用した。これは、日銀による、10年国債の金利の0%前後への維持と、当座預金の政策金利残高を-0.1%への維持を目的とした、潤沢な国債購入への事実上コミットを意味している。

2016年の日銀の政策転換は、日本の国内事情だけが要因となっておらず、グローバル経済が要因となっていた。2015年、世界経済は非常に緊張感を孕んでいる。中国の株式市場は急落し、奇跡的な経済成長は揺らいだ。ヨーロッパでは、ウクライナ問題、シリア難民危機、ギリシャの財政危機を受けて、EU委員会のジャン=クロード・ユンカー委員長が、「ポリ・クライシス(重層危機)」という言葉を使用した。インフレ期待が、デフレ領域まで落ち込んだことで、ECB(ヨーロッパ中央銀行)は最悪の事態を恐れた。投資不足と行き過ぎた緊縮財政によってユーロ圏は、日本のような状況に落ち込んでしまうのではないか? と。2015年3月、ECBは、前例のない規模でのQE(量的緩和)を開始した。これ以前のECBの処置は、特定市場の安定のためにしか債権を購入していなかったが、この時には全面的な債権購入に踏み切っている。

おそらく、FRBは世界の中央銀行を主導してきた(〔世界金融危機の〕2008年には、バーナンキが先導的な政策を実施している)。しかし、2015以降になると、ECBと日銀の政策による債権購入の規模は、アメリカがそれまでに試みた規模を凌駕するものだった。

日本とヨーロッパの政策が極めて似通ったものになったのは、単なる政治的な問題によるものではない。日本もヨーロッパも、特に企業部門の慢性的な貯蓄過剰に悩まされている。工業化と輸出指導によるかつての栄華は、国内部門での不十分な投資を招いた。〔解決策として〕持続的な公共投資、つまり財政政策が、ほとんどの経済専門家によってアドバイスされた。しかし、日本もヨーロッパも政策的妨害によって、中央銀行による政策が「唯一の選択肢」となったのである。

2015年から2016年にかけて、世界は景気後退を免れたが、結果的に、今にいたるまで深刻な不均衡状態をもたらした。当時、ジャネット・イエレン率いるFRBは金融引き締めを進めていたが、ECBと日銀は拡張的な金融政策を実施している。結果、ユーロと円は、対ドルで下落し、2016年のアメリカ製造業の小規模な不景気を誘発した。ラストベルトが厳しい状況に陥ったことは、2016年11月のドナルド・トランプの勝利を後押ししたのである。当時、安倍氏は、世界中のポピュリストの政治家達の中でも非常に適切な舵取りを行っている。

トランプは「アメリカを再び偉大にする」ため、大規模な減税を中心に添えた、アベノミクス的な政策を実施した。この政策は当初、アメリカの中央銀行との対立を呼んだ。FRBは、イエレン議長に始まり、後任のパウエル議長の下で、政策「正常化」の試みを続けていたからだ。2019年、元FRB高官らは、「正常化」の観点から、公然とトランプ政権への反対を表明し、アメリカでは政治・金融市場での緊張感が高まった。不安定な状況は数ヶ月にわたって続き、2019年9月のアメリカのレポ市場では〔短期金利の高騰による〕混乱を招いたが、FRBはトランプ政権に譲歩を強いられた。ECB総裁のマリオ・ドラギも、任期の最後の数ヶ月には同様の政策に踏み切り、ECBは債権購入を再開した。

コロナショックが幅広く報じられる前の2020年当初だと、日本モデルは勝利したようにみなされていた。2008年からの十数年、非伝統的な金融政策を続けるしか選択肢は存在しなかったからだ。コロナショックは、この印象をさらに強化した。どの中央銀行も各々のやり方で、大規模な介入を実施した。日本でも、コロナに対応するため、安倍政権は、GDP比で20%もの巨額の財政・金融刺激策を採用した

2020年9月は、安倍氏は体調不良によって退任に追い込まれたが、少なくとも金融政策に関しては、世界中が「日本化」に倣ったように見えたのである。

2020年、日本と緊密な経済関係にあるオーストラリアの中央銀行であるRBAは、日本銀行を模倣してイールドカーブ・コントロールを採用した。ECBは、イールドカーブをターゲットにはしなかったが、ユーロ圏の経済にとって重要な金利となっているスプレッドを気にかけていたことは明白だった。2021年、ECBもFRBも、日本を悩ませた長期停滞と超低インフレが基調となった世界を懸念して、政策的枠組みを調整した。

その後、ポリクライシス(重層危機)はまたもや想定外の展開を見せた。物価は停滞しなかったのだ。それどころか、エネルギー価格、そして続けてコモディティ価格が上昇し、さらに他の多くの価格が急騰し始めた。日本でさえも、インフレ率が上昇した。欧米は、特に劇的なショックを受けている。

中央銀行と国債市場は、想定外のジレンマに直面した。〔インフレの急騰によって〕中央銀行はこれまでの政策的スタンスの変更に追い込まれたことは自明となっている。そして、2021年秋になり、世界の国債市場に深刻な不安をもたらした

国債が大量に売られたため、〔中央銀行による〕国債価格の下支えと、低金利コミットメントへの信用性が失墜した。2021年11月、国債市場が混乱する渦中、オーストラリア中央銀行(RBA)は、日本型のイールドカーブ・コントロール政策を放棄せざるをえなくなっている。RBAは、〔長期国債〕金利を固定化するために必要な力をもはや発揮することができなくなったのである。〔オーストラリアの長期国債の〕金利は暴騰した。

オーストラリアは比較的小規模な国家であり、RBAの政策転換は不確実性を増大させたが、世界市場を揺るがせたわけではない。しかし、このRBAの政策転換は、もっと大きな変化の象徴である。ブラジルを筆頭とする新興国の中央銀行の多くがすでに利上げを実施している。2022年初頭には、FRBもECBも量的緩和の終了と金融引締への移行をはっきりとアナウンスした。このため、日銀は孤立してしまったのである。

安倍氏の後任である、岸田文雄首相は、経済政策のレガシーを尊重すると約束している。そして、2021年11月、岸田氏は、その約束として、巨大な財政刺激策を実施した。一方、日銀の指導者は交代しておらず、コミットメントは継続されている。安倍氏が暗殺されても、彼の金融政策のレガシーはそのまま放置されているのだ。しかし、問題はこれがいつまで続けられるかだ。

他国の中央銀行が金利を引き上げる一方、日銀は金利を低水準に固定しなければならないため、大規模な国債購入に追い込まれている。経済政策の長い実験の歴史の観点からでも、現在の日銀の政策スタンスは極端なものだ。

銀による国債購入の加速化

フィナンシャル・タイムズが報じているように、世界の投資家らは、この日銀の政策スタンスを持続不可能であると考えつつある。投資家らは、日銀がオーストラリアに追随してイールドカーブ・コントロールを放棄するタイミングを利用しようと待ち構えているのだ。もっとも、投資家が日本国債を空売りしても、日銀は国債を市場で買い切れば、国債金利の上昇を防ぐことができるだろう。

こうした投資家の仕掛けは、目新しいものではない。実際、日本国債の暴落に掛ける取引は「未亡人製造機」と呼ばれ、何度も試みられたが全て失敗している。しかし、今度こそが、日銀が方向転換する歴史的瞬間になるのだろうか? 圧力は明らかに高まっている。

日銀の政策によって固定されている10年国債金利とは別に、短期・長期の借り入れコストは高まっている。日本のイールドカーブ(各国債の満期の金利の推移)は通常、滑らかな上昇となる。しかし、10年国債金利を中心とした明白な捻じれが生じている。

日本の年限別国債の借り入れコスト

7年国債の上限無し金利は、日銀がターゲットとしている10年国債金利を上回っている。これは、日銀の介入がストップすれば、イールドカーブがどう変化するのかを如実に示している。

日本の国内投資家らは、安倍・黒田方式への信頼を揺るがせていない。過去10年間、日銀の冒険的な政策に、膨大な政治的労力が注がれてきたからだ。日銀も、公的には現行のスタンスを全面的に堅持している。

先週の政策決定会合で、日銀は10年国債の金利を0.25%に抑えるために必要な限りの国債を購入するという約束を再確認している。

日銀は、政策を継続しようと、世評を超えた労力を注ぎ込んでいる。もし、金利のコントロールに失敗し、国債価格が急落すれば、日銀は巨額の国債保有から200億ドルもの含み損に直面しかねないからだ。

それ故に、日銀は政策の継続を推し進める決意を示さねばならない立場にある。一方、日本国債の空売りを仕掛ける側は、日銀の継続性への決意表明を、額面通りに受け取ることはできないと主張している。よって、日銀は、完全な制御下で出口戦略を行うためにも、シナリオの主導権を握り続けなければならない。これはつまるところ、日銀は政的立ち位置の変更において事前告知を行ってならない、ということだ。政策の変更は、完全なサプライズで行わねばならない。

日銀が現行の政策を継続すれば、その圧力は国債市場だけでなく、日本の通貨市場にも影響が及ぶ。日本円は、継続的な金融緩和と低金利圧力の率直な反映となっている。

現状、ドルが高くなっている時期でもあり、円は米ドルに対して劇的なまでに通貨安となり、24年ぶりの低水準にまで下落している。円安は、輸出競争力を高め、輸入物価を受賞させ、デフレ傾向に歯止めをかける効果がある。しかし、円安の速度が速すぎるため、日本の投資家には不安が広がっている。「投資先を海外に移すべきなのだろうか?」「円安はいつまでも続くのだろうか?」と。

こうした、国債市場からの圧力の高まりと、円安が深刻化する懸念を考慮して、日銀は思い切って政策を転換を図った方が良いとの見解も多く寄せられている。というのも、日銀は意外にも勝利宣言できる立場にあるからだ。日本のインフレ率は2015年以来初めて、安倍政権が当初目標として掲げた2%の水準を超えた。

もし日銀が方針転換を決断するなら、その方法が極めて重要だ。オーストラリア中銀によるイールドカーブ・コントロールからの脱却は、自身が認めているように、少々みっともないものだった。オーストラリア中銀と違い、日銀は鯨だ。非伝統的金融政策からの脱却を図り、それが失敗すれば、世界の国債市場にショックを与えかねない。それは、日本経済の勢いを失墜させるかもしれない。いずれにせよ、日銀の方針転換は、安倍晋三と結びついた時代との永遠の別れとなるだろう。

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