先週の木曜(4月9日)にイングランド銀行が対政府貸付機関 Ways and Means Facility の上限を一時的に撤廃したことが,少しばかり物議をかもした.今回の上限撤廃により,事実上,イングランド銀行は今回の危機に当たって必要なだけのお金を政府に貸し付けられるようになった.これがああいう物議をかもすのを見るに,政府債務をめぐる多くの神話がどれほど世間に定着しているのかがよくわかる.そうした神話のうち,おなじみの例を3つとりあげよう.
これは,イギリスのように自国通貨を発行している国については虚偽だ.危機に際しては,危機への対応について心配した方がいい.政府債務によって,必要なあらゆる財政的リソースを政府が危機対応に注ぎ込めるようになる.債務を懸念するのは,火事の現場で消防車が消火活動に水を使いすぎていると心配するようなものだ.
神話 #2: なるほど.だが,産出の減少がとまったときには(あるいはパンデミックにおいて都市封鎖が緩和されたときには)政府債務を懸念すべきだろう.これも虚偽だ.この過ちは,グローバル金融危機 (GFC) のあとに複数の経済大国がおかしてしまった.そうした国々は,債務を懸念して〔緊縮財政をとったり対策パッケージをケチったりして〕景気回復を遅らせたり,つぶしたり,景気後退に逆戻りさせたりしてしまった.政府はイングランド銀行にみずからの債券を買わせられる(つまりお金を創出し続けさせられる)ので,経済が危機から完全に回復しきるまで債務を心配する必要はまったくない.これは,パンデミックからの回復でも同様に成り立つ.
神話 #3: 政府が債券を発行するのではなくお金を刷ることで赤字をまかないはじめると,すぐにインフレが激しくなる.グローバル金融危機のあと,各国の中央銀行が量的緩和プログラムで政府の債券を買いはじめると,多くの人がこう考えた.なぜなら,中央銀行がお金を創出して債券を買っていたからだ.その後の出来事で,「インフレは避けられない」と考えた人たちが完全にまちがっていたのが明らかになった.当時,私も含めて多くの人が指摘していたとおりになった.彼らが間違っていた理由は,金利が下限に達していた点にある.金利が下限に達している状況では,政府が赤字をどうやってまかなおうが,それほどひどい問題にはならない.その理由は,直観的にわかりやすい:金利がゼロなら,現金と短期債券のちがいがなくなるのだ.どっちでもちがわないなら,金利がゼロのとき,債券ではなくお金を発行したからといって,インフレが生じる理由があるだろうか? そんな理由はまったくない.
これが,前述の対政府貸付機関 Ways & Means の話につながる.結局は政府が債券を発行しているため,今回の上限引き上げは,実際問題としては単純なキャッシュフロー管理になりそうだ.だが,イングランド銀行は新しい量的緩和スキームの一環として債券購入を継続するだろう.皮肉にも,今回はいくらかインフレ率が上がるかもしれない.だが,それは量的緩和とは関わりがない.ひとえに,高まった需要をパンデミックが直撃した部門が利用したり,いまも営業しているものの労働力が不足しているのをコスト引き上げに転嫁したりすることで,インフレ率がいくらか上がるのだ.イングランド銀行は,こうしたインフレ率上昇が起きても,無視する見込みが大きい.
どうして政府は赤字をまかなう際にお金を創出するよりも債券を発行する方を好むのだろうか? なんといっても,債券を発行するにもお金はかかる.短期金利がゼロに達しているときでも,長期の政府債券の金利はそれより高い.「お金の創出で赤字をまかなうとインフレが生じる」というのは,あまりにも陳腐な話だ.なぜなら,この話は物価と中央銀行によるお金の創出とを単純につなげているからだ.だが,さっき述べたように,中央銀行が景気後退時にお金を創出しても,インフレにはならない.
もっといい答えをケインズが述べている.景気後退時には,たくさんお金を創出できる.なぜなら,弱気になった銀行や投資家たちがお金を手元に保持しておくからだ.だが,景気後退でないときには,銀行や投資家たちはそのお金を手放したがる.すると,その経済のなかで各種の金利は下がり,多すぎるほどの借り入れが後押しされる一方で,貯蓄は抑制される.この超過需要がインフレをもたらす.中央銀行は,みずからが創出するお金の量を制限することによって経済の一般的な金利水準を制御できるだけだ.だからこそ,政府の赤字の大部分は債券発行によってまかなわれている.
「危機のさなかや危機が終熄に向かおうとしているときに政府債務を懸念すべきでないとしたら,そもそも政府債務を懸念すべきではないのか?」 いい質問だ.それに答えるには,政府債務が高水準になるのが悪いことかもしれない理由に目を向けなくてはいけない.
神話 #4: 債務水準が高くなると資金調達危機のリスクが生じる.いま世界には安全資産が不足しているというのが一般的な見解だ.そのなにより明らかな証拠は,政府債務が低金利になっている点にある.短期の市場パニックについて言えば,すでに述べたように,自国通貨を刷っている国ではこれは問題にならない.
神話 #5: 政府債務は将来世代の負担だ.これは,「どんな債務でも利払いが必要になる(利子を支払わなくてはならない),そして利払いには増税しかありえない」という発想から出てきている神話だ.だが,債務にかかる利子の水準は,利率にも左右される〔e.g. 1,000円に 1% の利子がついても 100円に 10% の利子がついても利払いの金額は同じ〕.つまり,利率が低いときには,「負担」は同じままに債務を高い水準にできる.もうひとつ言うべきことがある(自明なはずなのだが,よく見過ごされる).それは,景気後退時に経済を刺激しそこねたら,将来世代に持続的な打撃を引き起こしうる,という点だ.ちょうど,気候変動への対応に失敗した場合と同じだ.
同じことは,「債務の返済・利払いで増税すると労働力供給が抑制される」という発想にも当てはまる.金利がとても低いときには,債務利払いが税に及ぼす影響も低くなる.ここでよくありがちな過ちが1つある――「債務の返済・利払いに必要となるこれほどの金額があれば,新しく病院をあちこちにつくれるじゃないか,債務を減らしてもっと病院を建てよう」という考え方だ.だが,債務をゼロまで減らすという目標を達成するには,何十年にもわたって厳しい財政引き締めを実施する必要がある.
神話 #6: 投資を押しのけてしまう(クラウドアウト)低金利の時代に,これは明白なまちがいだ.OLG モデルにおいて,政府債務は,金利を上昇させることで民間資本を押しのける.つまり,ほどほどの〔公共〕投資をまかなえるくらい金利が十分に低いときには,有害な押しのけが生じるはずがない.
まとめよう.とても金利が低い時代には,大過なく政府債務の水準を高くできる.パンデミックが終わった後に,〔その対応のために高くなっているだろう〕対 GDP 比の債務を減らそうと主張するなら,その論拠を示さなくてはならない.そして,その論拠は,実質金利をこれほどまでに低くしている原因(長期停滞)も,安全資産の不足に関する研究文献も,考慮に入れる必要がある.とくに,オリバー・ブランシャールが強調しているように,政府債務の実質金利が経済の成長率よりも低ければ,景気後退のショックで債務が増加しても,その増加はおのずと徐々に解消されていくだろう.
最後に,もうひとつ神話をとりあげなくてはいけない.それは――
神話 #7: 過度のインフレを引き起こさないかぎり,財政赤字は問題にならない.独立した中央銀行が金利を制御している場合,これは事実ではない.なぜなら,中央銀行は金利を動かしてインフレを制御するからだ.独立した中央銀行は,これまで,インフレ率を首尾よく低水準に保ってきた.だからこそ,すぐにでも中央銀行の独立性を捨て去ろうする政権も野党も存在しないのだ.この状況では,大きすぎる赤字や小さすぎる赤字は,インフレ率ではなく金利の変化につながる.(インフレ率が低いとき,独立した中央銀行は,景気後退の阻止がそんなに上手くできない.だからこそ,国から独立した〔政策の〕割り当てが必要なのだ.)
どんな手段を用いたにせよ,ひとたび景気後退が終わったら,対 GDP 比で見た財政赤字(投資をのぞく)に目標を設定するのは理にかなっている.どれくらいの赤字を目標とすべきかは,理想的な対 GDP 比債務がどうあるべきかに関する見解に左右される.(さらに詳しくはこちらを参照.) こうした赤字目標を設定する理由は,べつに,赤字が大きくなると世界が破滅するからではない――およそそんな話からかけ離れている.そうではなく,赤字目標は,政府の行動を律する仕組みなのだ.かつては,左派政権が支出をあまりに増やしすぎるのを止めるために赤字目標が必要だと考えられていた.だが,いまはイギリスでもアメリカでも,右派政権が〔とくに富裕層や企業の〕税を小さくしすぎる方が問題になりやすい.
ここで,政府債務と赤字が実態以上に多くの人に重要視されている理由に話がつながる.かつては,赤字をめぐる懸念は誤っていても,左派政権が権力をにぎっているときに政府支出にフタをする必須の方法なのだと多くの人が考えていた.あるいは,右派政権が権力をにぎっているときに国家を縮小させる方法ですらあると考えられていた.皮肉にも,気候変動を減らす責務がある時代に,右派政権が減税するのを止めるために赤字目標は重要となるのかもしれない.