ピーター・ターチン「ブルース・ブエノ・デ・メスキータは新たなるマキャヴェリである『独裁者のためのハンドブック』が駄本である理由:その1」(2018年6月4日)

私はブルース・ブエノ・デ・メスキータとアラスター・スミスによる『独裁者のためのハンドブック:悪行がほとんどの場合に良い統治となる理由』を非常に期待して読んでみた。……駄本である理由を説明するのが、私の公的義務ではないかと思う。

The New Machiavelli
June 04, 2018 by Peter Turchin

私が長期的に関心をもっているものの1つに、指導者と追随者がどう制度化されるかの動態がある。大規模な社会や他の大きな人間集団(企業を含む)は、完全な平等主義にはなりえない。別のエントリで書いたように、人間は蟻ではない

協力を大規模に組織するには、指導者が必要だ。必然的にエリート(社会学的に中立な意味で「社会権力を掌中化する人口の極一部」)と平民(人口の残り)が出現する。大きな問題となっているのが、(程度の差はあれ)社会学の最も基礎的な法則の一つである寡頭政治の鉄則(簡単に言えば「権力の腐敗」)を、(一部)人間組織はいかにして回避、あるいは緩和するかだ。

なので、私はブルース・ブエノ・デ・メスキータとアラスター・スミスによる『独裁者のためのハンドブック:悪行がほとんどの場合に良い統治となる理由』を非常に期待して読んでみた。著者らとは大きな見解の相違があるような気はしていたが、同意できずとも、学びがあるのを楽しみにしていたのだ。

私の勘違いであった。この本は、理論的論拠でも、実証的論拠でも失敗、いや酷い失敗をしでかしている。あまりにも酷いので、私は書評しないことにした。ところが、この本は、非常に大きな成功を収めている。多くの部数が発行され、アマゾンで200以上のレビューを集めており、レビューのほとんどは熱烈に肯定的だ(5点満点で平均評価値は4.6点となっている)。また、CGP Greyでも非常に人気ある情報動画(600万以上のビュー)として影響を与えている。

なので、これが駄本である理由を説明するのが、私の公的義務ではないかと思う。

この本の中で、私が同意できる数少ない点の一つが、「我々の社会科学者としての仕事は、“世界が実際にどのように機能しているのか”を研究することにある。“どう機能して欲しいか”ではない」ということだ。メスキータ&スミスは本の冒頭で「世界を改善する唯一の方法として、まずは世界の機能の有り様と原因を理解しなければならないのです」と語っている。

最後の章で、メスキータ&スミスは「私たちがこれまで9章にわたって、政治をめぐってシニカルな考察をおこなってきました――正確な政治的描写であるかどうか心配ですが…」と語っている。シニカル? 正確? とんでもない。

メスキータ&スミスが提唱している理論は、前世紀の経済学者や政治学者が大好きだった合理的選択理論の翻案であり、非常にシンプルで、ナイーブですらある。「政治とは、人生の全過程のようなものです。諸個人に関するものです。各々個人にとって良きことに動機付けられているのです、他者にとって良きことではありません」と彼らは序盤で書いている。

2011年に書かれた本と思えない。これ〔合理的選択理論〕が完全に間違えているとエビデンス的に明らかになった大津波が到来していない30年前に書かれた本のようだ。

人は皆異なっている。一部の人々(大規模な社会においては20~30%)は、本当に純粋な合理的行為者である。彼らは、個人的効用を最大化しており、純粋な実利的用語で表現できる。しかし、大多数の人々は、他人や社会のための善行、忠誠、友情、名誉、神聖な価値観、その他多くの追加的な考慮事項によって動機付けられている。

メスキータ&スミスが提唱する理論は、純粋なマキャベリズムであり、彼らはマキャベリの言葉を肯定的に引用している。「君主になろうと望む者は誰であれ、配下に“城や領地、さらには金や従属者まで与えねばならない。そうすれば、君主は、見返りを与えたこれら配下に囲まれ、その権力を保持することができるだろう。そして、配下らの野望を満たすことによって君主は支持されるであろう”」〔マキャベリ『ディスコルシ』〕

私は、自著『戦争と平和と戦争』でこの理論を徹底的に批判したので、同じ批判をここでは行わない。驚いたのが、この破綻した理論が、一見有能そうな学者達にこうも強力にプッシュされていることだ。実験経済学の何千もの論文によって、合理的選択理論のナイーブで簡略されたバージョンは一掃されてしまったことに無視を決め込めとでも?

私がメスキータ&スミスの理論を戯画化したと読者は思っているかもしれない。とんでもない! 本で語られている非常に正確な意見であるのを、書籍か、CGP Greyの情報動画で確認してほしい。もう一つ本から直接引用しよう。「〔統治者による〕支持者への見返りは、ろくでもない統治であっても、一般大衆による意志が反映された統治であっても、統治の本質なのです」。

メスキータ&スミスによる、マキャベリ的な知的営為はほとんど1つだけだ。追随者(国民、ないし組織の為に働く人員)を、「基幹員」「インフルエンサー」「交換可能要員」に分けた分類である。興味がある人は、ウィキペディアの記事を読んで欲しい――彼らの包括的な理論に関しては、人間性のモデル化で破綻しているので、論じる価値は無いと私は思う。

それでもまず私が認めるのは、独裁者、民主主義体制下の政治家、大企業のCEO、そしてうわべの慈善団体のリーダーの多くは、マキャベリ的モデルによってある程度は説明できることだ。しかし、全てのリーダーがそうではない。我々は経験的に、リーダーが多く混在しているのを知っている。イアン・アミンのような、マキャベリズムとほとんどイコールなリーダーもいれば、ガンジーやマンデラのような真逆のリーダーもいる。そして、ほとんどのリーダーはその中間に位置している。このような不均質性がなぜ観察されるのかは、非常に興味深い問題であり、「その2」でこの件について述べてみよう。

その2に続く

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