マーク・コヤマ「『脱成長』を真剣な学術的概念として受け止めるべきか?」(2026年9月5日)

脱成長論が環境意識の高い若い世代に非常に魅力的に映っていることを考えれば、こうした議論を取り上げて、それが経済成長と経済史を巡る一連の誤解の上に成り立っていることを示すのは有益であろう。

近年、「脱成長」と呼ばれる思想運動が、少数ながらも増えつつある研究者や運動家たちの努力により、人気を増している。脱成長イデオロギーを擁護する最重要文献は、ジェイソン・ヒッケルの『資本主義の次に来る世界』(“Less is More: How Degrowth Will Save the World,” 2020年刊行)や、ケイト・ラワースの『ドーナツ経済学が世界を救う』(“Doughnut Economics,” 2017年刊行)だ。これらの著書はベストセラーとなっており、世界中の書店に並んでいる。2020年には、日本の哲学者である斎藤幸平の著書『人新世の資本論』が刊行された(2024年には“Slow Down: The Degrowth Manifesto”というタイトルで英訳が出た)。本書は、カール・マルクスが晩年の著作において、資本主義が環境にもたらす被害を予見しており、際限なき経済成長を拒否すべきと論じていたと主張している。斎藤の著書は日本だけで50万部という異例のベストセラーとなり、今では15の言語で翻訳されている。この脱成長パラダイムの人気ぶりにより、今やバルセロナ自治大学が脱成長学の修士号を提供するほどだ。

中道左派と中道右派はともに、経済成長を重要な目標として認めている(両者は、経済成長をどう達成すべきか、成長の利益をどう使うべきかに関して意見を異にするに過ぎない)。そのため、〔中道を自任する者にとって〕脱成長がなぜ人々にこれほど訴えかけるのかを理解するのは重要である。

脱成長の主たる動機は、恐らくエコロジー、すなわち、私たち人類が地球環境にもたらしてきた損害への懸念にある。猛暑と山火事がヨーロッパ中で猛威を振るっている2026年の夏にこれを書いていると、脱成長論者たちの動機も理解できる。しかし、これから見るように、経済成長と環境被害の関係に関する証拠は、非常に微妙で込み入ったものだ。それでも、脱成長への熱狂を支えているのは、この惑星の均衡を深刻に乱しかねない様々なティッピング・ポイント(転換点)が私たちの間近に迫っている、という論者たちの偽りのない確信である。

地球への環境的影響に関するこうした懸念には、平等主義的な衝動も流れ込んでいる。脱成長は、50年前であれば何らかのタイプの社会主義やマルクス主義を支持したであろう人々にとって魅力的な立場だ。脱成長の支持者の考えでは、世界の中間層は既に「十分豊か」である。貧困の解決策は、経済成長をさらに進めることではなく、成長を別の方向に向け直すことだ。フランスでベストセラーとなった『減速か死か』(“Slow Down or Die”〔未邦訳〕)の著者、ティモシー・パリック(Timothée Parrique)は、貧困は生産ではなく分配の問題であると論じている。パリックによると、「GDP成長を促すことで貧困を根絶しようとするのは、満タンの車にガソリンを加えることで車の向かう方向を変えさせようとするようなものだ」。

ヒッケルやその他の脱成長論者たちは、成長に対する「惑星の許容量(planetary allowance)」という考えから逆算して議論を行っている。惑星の許容量とは、地球が生態学的な安全圏に留まったまま吸収できる(と論者たちが考える)追加的な生産量を指す。ヒッケルは、この「許容量」を所得が世界平均以下の人々に分配すべきだと論じている。平均所得の水準をどう設定すべきかは難しい問題であり続けているが、ヒッケルは、購買力平価で見て世界の一人当たりGDPの平均が24,000ドルであることから、それを1つの基準にすべきだと主張している [1] … Continue reading 。

脱成長論が環境意識の高い若い世代に非常に魅力的に映っていることを考えれば、こうした議論を取り上げて、それが経済成長と経済史を巡る一連の誤解の上に成り立っていることを示すのは有益であろう。

第1に、脱成長論者は、持続的な成長など不可能であるから、経済成長は究極的には終わるはずだ、とのシンプルな直観に訴えかけている。経済学者のケネス・ボールディングは、有限の資源しかない地球で無限の経済成長は不可能である、というよく聞かれる主張を行った最初の人物だ(そして、この主張を受け入れないのは狂人か経済学者だけだ、とも付け加えている)。

ボールディングの言う通り、経済成長が必然的に有限あるなら、地球に生じている環境被害は、今こそ、経済成長を減速させるか、それを完全に終わらせることを検討し始めるよい機会であるということを示す証拠ではないだろうか? しかしながら、経済成長に限界があるという主張から、今すぐ経済成長を減速させるべきだという主張は導かれない。経済成長の有限性は、それがいつ終わるのかについて何も語らない。限界は、数千年後に来るのかもしれないし、数百万年後に来るのかもしれない。それは、現在生きている世代(あるいは今後の数世代)にとっての経済成長の見込みについて、ほとんど何も語っていないのである。

さらに、ボールディングの議論はある誤解のもとに成り立っている。経済成長は、資源の消費や物理的な財の生産を必然的に増やす、との誤った想定を置いているのだ。この誤解は、1870年代の限界革命(すなわち近代経済学の誕生)を誤解した経済学の批判者たちにまで遡る。経済成長とは、価値の増大だ。経済成長が意味するのは、人々が価値を見出しているものがより多く生産されるということである。脱成長論者は、経済成長と環境被害、森林伐採、自然環境の軽視を結び付けている。だが、経済成長はより多くの公園や、森林再生、清浄な空気をもたらすことが多い。物理学者たちは、このような議論に対して反論を行ってきた。地球上の物質やエネルギーのストックは有限である以上、経済成長はどこかで物理的な限界に達するはずだ、というのである。

この結論は、経済的価値の増大と物質的消費の増大を混同している。資源がより希少になり、より貴重になるほど、人々は資源を保全し、より効率的に利用し、再利用し、代替物を探し出す強いインセンティブを持つようになる。それゆえ、長期的な経済成長は、価値1単位あたりの資源使用量を減らしつつ、人々が資源から得る価値を増大させ得る。

そのため、経済成長と環境被害は必ずしも結び付くわけではない。とはいえ、脱成長論者たちは、気温上昇が既に地球にもたらしてきた被害を指摘できる。それゆえ、実際的な論点は、経済成長と環境被害を切り離すこと(デカップリング)がどの程度可能かという点にある。2024年におけるイギリスの温暖化ガス排出量は、1990年より54%も低いが、この間にイギリス経済は約84%も成長した。フランスでも、同じ期間に排出量は32%ほど減っている。この指摘に対し、脱成長論者は次のように反論している。こうした排出の減少の一部は、汚染を生じさせるような財の生産を海外に移転した結果に過ぎず、世界全体の排出量は増大し続けている、と。私の考えでは、デカップリングは明らかに可能であり、実際に進行してもいる、ということを証拠は示している。とはいえ、将来の気候変動を巡る不確実性は大きいため、そのリスクについて油断すべきではないだろう。

脱成長論者は、グローバル経済の方向を転換させたり、その規模を縮小させたりすることを唱えている。ここに、第2の誤解が見出される。私たち(ここでの「私たち」が誰であるかは明確に語られないが)は経済成長の最大化を目指す政策を目下追求している、との想定である。脱成長論者たちはこのようにして、(主観的・客観的な)生活水準の停滞、格差、政治的分極化といった無数の問題を、経済成長の不足ではなく、経済成長の追求のせいにする。

脱成長それ自体には批判的な評論家やジャーナリストですら、この前提をしばしば受け入れている。こうした論者たちもまた、経済成長を最大化する政策を追求している「彼ら」の存在を想定し、経済成長以外の目標を加えることも一考に値するのではないか、などと考えるのだ。しかし実のところ、経済をコントロールしている「私たち」や「彼ら」など存在しない。こうした考えは、市場の自生的秩序を、政策決定者たちが動かし方向付ける機械やエンジンであるかのように誤って理解してしまっている。もちろん、政治家は経済成長が重要だと述べるが、実際に政治家が求めているのは再選だ。つまり、政治家は中位投票者が支持する(だろうと彼ら彼女らが考える)政策を追求するインセンティブを持っている。政治家は経済を無視できないが、他の目標を犠牲にしてまで経済成長の「最大化」にこだわっているという見方は、到底成り立ち得ない。

第3に、脱成長論者は、目下の政策が「経済成長の最大化」を目指していると誤解しているだけでなく、経済成長の歴史についてもひどく誤解している。ヒッケルの著作は、脱成長イデオロギーに歴史的裏付けを与えるものだ。2018年のヒッケルの著書『分断』(“The Divide”〔未邦訳〕)の第3章は、「貧困はどこから来たのか?」と題されている。そこでヒッケルは、産業革命を巡る従来の説明は誤りだと主張している。ヒッケルによれば、近代世界の富を生み出したのは、イノベーションではなく、征服と、植民地主義および資本主義に基づく収奪的な世界システムの確立だ。西洋の勃興を始動させたのは、この搾取と占有であろう、と彼は言う。実際、ヒッケルによると、資本主義は「歴史的現象としての大量貧困」をもたらしたという。2023年、ヒッケルとディラン・サリヴァン(Dylan Sullivan)は、このナラティブを実証的に裏付けようとする論文をWorld Development誌に発表した。この論文を真剣に受け止めるなら、主流派の経済学者と社会科学者は、一般市民をミスリードしてきたことになる。経済成長の起源が何百万もの人々を貧困化させていたのなら、脱成長を求めない理由などあるだろうか?

もちろん、これは経済史を戯画化したような議論であり、この分野の専門家なら真に受ける者はいない。サリヴァンとヒッケルの提示している最も実質的な証拠は、次のようなものだ。ロバート・アレンが推計したところによると、実質賃金の厚生比率(welfare ratios)は、彼らがヨーロッパにおける資本主義の勃興期と位置づける1500年以降、顕著に下がっている。しかしながら、経済史研究者たちが何十年も前から知っていたように、この時期の生活水準の低下は、黒死病後の人口回復に伴うものだった。これは単純なマルサス・モデルと整合的な現象であり、市場と資本主義、経済成長の関係についてほとんど何も教えてくれない。

このような誤りは、脱成長論者の中では例外的なものではない。経済学者たちは、ラワースのドーナツ・モデルをフォーマルに定式化し検証しようとしてきた。ドーナツ・モデルによれば、基本的なニーズという社会的下限と、惑星の限界という環境的上限との間に、「安全で公正な範囲」があるという。ラワースは、経済がより資本主義的になるほど、この範囲から逸脱してしまうと論じている。近年なされた検証は、正反対の事実を発見した。経済的自由度が高いほど、不均衡が小さくなり、社会的基準と環境的基準のトレードオフを強いることなく、双方を改善させる傾向があるというのだ。

脱成長の批判者たち(そこには、再分配や平等主義的な目標に共感的な経済学者も含まれる)は、その実行不能性を指摘してきた。例えば、ブランコ・ミラノヴィッチは次のように論じている。脱成長論者は、世界で最も貧しい人々にとって経済成長が依然必要であると認めているものの、その提案を実行するには、今現在豊かな国に暮らす人の86%が生活水準を引き下げなければならない。ミラノヴィッチが正しく指摘するように、豊かな国の国民が、そのような生活水準の低下を自発的かつ民主的に受け入れるだろうとの考えは、純粋な呪術的思考だ。

こうして私たちは、脱成長運動の4つ目の誤謬に辿り着く。すなわち、脱成長は、大規模な強制と暴力なしに達成可能である、という考えである。

もちろん実際には、脱成長を実現するには、政府による経済の組織化と介入を大幅に強める必要があるだろう。パリックは次のように問う。「あらゆる企業が利潤を稼ぐべきなのだろうか? 何を生産するかを市場に決定させるべきだろうか?」。暗黙の答えは「ノー」だ。というのも、パリックは続けて次のように述べているからだ。「脱成長は計画に基づくものだ。計画は社会全体で民主的に議論され、その計画に沿って、公的機関と経済的ステークホルダーたちにより編成される」。

こうして脱成長論者たちは、20世紀に社会主義の計画者たちが犯した誤りを繰り返すことになる。脱成長論者たちは、人間のケイパビリティの拡張、個人の自由、集合的な自己実現について語る。パリックは、「最も大胆なユートピアの計画を、それがどんな変化をもたらすか恐れずに、描いてみようじゃないか」と書いている。しかし、私たちはこのような革命的行動の呼びかけを以前にも聞いたことがある。言うまでもなく、その呼びかけはひどい失敗に終わった。

あるいはもしかすると、脱成長は真剣に受け取るべきものではないのかもしれない。つまり、脱成長は、真剣な学術的概念というより、政治的なスローガンに近いのだ。先進国における中間層の生活水準を切り下げるために必要となるラディカルな政策は、政治的には全く実行不可能である。そのため、脱成長の支持者たちは、現実の脱成長というベイリー〔大胆だが守りにくい二の丸〕から撤退し、グローバルな再分配というモット〔穏当だが守りやすい砦〕に逃げ込みがちだ。

実際、ヒッケルは『分断』において、ユニバーサル・ベーシックインカムや、GDPを「真の進歩指標(GPI)」に置き換えるといった、ひどく月並みな左派的政策を取り上げて本を閉じている。ヒッケルのより最近の著書『資本主義に来る世界』の副題は、「脱成長はいかに世界を救うか」だ。だが、この本も同様に、ごく平凡な左翼的政策の提言で終わっている。こうして見ると、脱成長は見かけほどラディカルな主張ではなく、政策論議における言説の土俵を、より再分配的で左翼的な政策に有利な方向へシフトさせるための手段と言えるかもしれない。

[Mark Koyama, Should We Accept Degrowth as a Serious Academic Concept?, Human Progress, 2026/9/5.]

References

References
↑1 原注:購買力平価で換算した2024年の世界の一人当たりGDPは、24,248ドルだった(世界銀行)。だが、一人当たりGDPは家計所得ではなく、投資や政府支出、減価償却、企業の内部留保も含まれる。そのため、一人当たりGDPの値は、家計が実際に受け取る所得の数倍にのぼる。世界の平均家計所得のより正確な推計は、ブランコ・ミラノヴィッチが用いているもので、購買力平価で1日あたり16ドル、年間5,800ドルとなる。ミラノヴィッチの記事「脱成長:呪術的思考で行き詰まりを打破する(Degrowth: Solving the Impasse by Magical Thinking)」を参照せよ。ヒッケルは、一人当たりGDPを基準として用いている。2017年、ヒッケルはミラノヴィッチへの応答において、世界の一人当たりGDPを17,600ドル(購買力平価)とし、〔その水準まで先進国の経済を縮小させても〕「ディストピアとは言えない」としている。
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