Scott Sumnerはベントレー大学経済学教授。マクロ経済学、経済思想史、貨幣経済学とくに大恐慌において金本位制度が果たした役割を専門とする。シカゴ大学よりPh. D. (経済学)取得。
ここでの「ちょっと長めの脚注」はクルーグマン、「経済学の巨人」はフリードマンを指す。クルーグマンがこのポストでクルーグマンを「将来フリードマンはちょっと長めの脚注程度の扱いになる」と書いたことに端を発している。その経緯についてはこのポストを参照されたい。
Scott Sumner, “A future extended footnote kicks an economic giant“, TheMoneyIllusion
ポール・クルーグマンは自分が経済思想史の専門家じゃないってことは認めているし、そのことを自分で証明している。ブラッド・デロング [1]訳注:大抵の場合においてクルーグマンの擁護者であり、経済史の研究者 がミルトン・フリードマンについて書いたものをいくつか読んでくれれば、彼も考えを変えてくれると思うんだけどね。
古き良き時代を振り返って要点をまとめてみよう。
フリードマンは金利が金融政策スタンスの良い指標ではないと言ったが、ケインジアンはそうだと言った。
フリードマンはインフレは拡張的な金融政策が原因だと言ったが、ケインジアンは労働組合や日照りがインフレの原因だと言った。
フリードマンは超低金利は金融政策がタイトであることの印しだと言ったが、ケインジアンは同意しなかった。
フリードマンはFRBがそう望むならインフレをコントロールできると言ったが、ケインジアンはできないと言った。
フリードマンはインフレと失業との間の長期的なトレードオフはないと言ったが、ケインジアンはあると言った。
フリードマンは日銀が日本のインフレ率を上昇させることができると言ったが、ケインジアンはできないと言った。
フリードマンはIS-LMモデルはミスリーディングだと言ったが、ケインジアンは有用だといった。
フリードマンは緊縮的な金融政策が大恐慌の原因だと言ったが、ケインジアンは緩和的だったと言った。
それでもクルーグマンはフリードマンはほとんどケインジアンであって、これらの基本的な相違点は単に実証面での論争に過ぎないと主張している。両者は同じ基本モデルを使っているのだ、と。もしそれは本当に事実なら同じじゃないモデルってのがどんなものになるか見たくないね。
クルーグマンのフリードマンに関するこのポストは誤解に満ちてる。
そう、彼(フリードマン)は安定化政策が必要だってことを実質的に認めている。でも金融政策に頼ることで政府の役割を最小限に留めることができるし、うざいったい財政なんちゃらも必要ないし、もっといえば金融政策だって裁量に任せることもないって主張したんだ。
でも根源的なレベルではこれは互いに矛盾する主張だ。市場がおかしなことになって大恐慌を引き起こしたっていうのに、どうやってマクロ以外のすべてについては自由な市場を信じろって言うんだい?
ポール・クルーグマンはとても聡明だが顕著な欠点がある。議論している相手の立場にたって、そこから世界がどう見えるかを考える能力を欠いているんだ。フリードマンは運動家的な金融政策には反対した。彼は「おかしなことにならない」ために安定したマネーサプライの成長を望んだ。彼は政策に(社会変革をもたらそうとするような)積極性を求めることに反対した。
フリードマンの反対論者でさえそれは認めている。彼の人生の最後のほうでフリードマンは貨幣ルールはベストではないかもしれないということを認めて、TIPSスプレッドにペッグするインフレターゲットを示唆した。それが市場を使うってことなんだ。私が思うにクルーグマンはそれでさえ「行動主義」と呼ぶであろう。
フリードマンは市場が大恐慌を巻き起こしたとは考えなかった。緊縮的な金融政策が原因だったと考えた。さて、フリードマンは間違っていたかもしれない。しかしクルーグマンは彼の議論を正確に伝えるよう少なくとも努力すべきではないだろうか。また、健全な金融政策と市場がうまく機能することとは論理的に矛盾しないが、会計を媒介するものの価値 [2]訳注:すなわちインフレ率 が極度に不安定ならば市場はうまく機能しないだろう。10億トンの隕石が地球に落ちたってそりゃ市場の機能は低下するだろう。フリードマンは現実的なリバタリアンであって、すべての政府の政策に反対するイデオロギーに囚われたリバタリアンではない。
Update: Nick Roweが同じ事をもっと要領よく指摘している(邦訳)。実際、彼の「それはマヌケな質問」アプローチは私の「フリードマンは活動家じゃない」アプローチよりずっといい。
[訳者より]以下、追記が続くのですが、ダラダラと長いので省略します。いつか続きも訳すかもしれません。