ピーター・ターチン「アケメネス朝は何者によって築かれたのだろう?」(2023年7月2日)

人類創成期の巨大帝国――マウリア朝、漢帝国、ローマ帝国――の台頭に先んじて、300万平方kmを超える領土を築いた王朝は、現在ではアケメネス朝として知られている。後発の三つの帝国は起源が判明しているが、アケメネス朝の起源はよくわかっていない。アケメネス朝を築いたのは何者だったのだろうか?

アケメネス朝ペルシア帝国(紀元前500年頃)Simeon Netchev (CC-BY-NC-SA)

クリス・ベックウィズの新著『スキタイ帝国』は、この疑問に新しい、そして驚嘆すべき解答を提示している。ベックウィズによると、この帝国は、「アケメネス朝ペルシア」などではなく、アリア族~アリヤ族~ハリヤ族に系譜を持つスキタイ王家に開祖を持ち、発展したとされる。ベックウィズは、内ユーラシアについての最も洞察力に満ち、知識豊富な専門家の一人だ。彼は、古代ペルシア語、アヴェスター語、セム語、古チベット語、中国語に精通している。彼は30年にわたる一連の著作で、(アンドレ・グンダー・フランク〔から功績を得ること〕に謝罪しながら)世界史において中央アジアこそが中心であることを印象的に論証してきた。ベックウィズの研究は、世界史の研究者の多くがグレート・ステップ〔ユーラシア内陸の大草原地帯〕に住む多様な民族を概して無視してきたことを糾す上で重要なものとなっている。〔私の主催する歴史の大規模定量化データベース〕セシャト・データでのモデリングとデータ分析では、〔世界史における〕中央アジアの中心性について、グンダー・フランクとクリス・ベックウィズと一致する見解が得られている。なので、ユーラシア内陸部のアジア人が世界史で果たした役割についての正当な地位の復権を願っている。

アケメネス朝の起源に戻ろう。この記事では、ベックウィズがアケメネス朝の起源を再構築するために持ち出した証拠を要約するのではなく、私がこの10年に関連文献を読んで構築した全体的な枠組みにベックウィズの見解を接合してみるつもりだ。特に特に有益だったのは、以下の2冊である。

フォーゲルサン, W. J. 著『アケメネス朝の興隆と組織化:イラン東部の証拠』(1992年)ブリル社
(Vogelsang, W. J. (1992). The Rise and Organisation of the Achaemenid Empire: The Eastern Iranian Evidence. Leiden, Brill.)

クズミナ, E.著『インド・イラン語族の起源』(2007年)ブリル社
(Kuzmina, E. (2007). The Origin of the Indo-Iranians. Leiden, Brill.)

言うまでもないが、この記事は仮説要素が強く、本物の専門家(私はそうではない)による訂正を心待ちにしている。

物語は、紀元前2000年頃、インド・イラン語族の祖先(考古学的にはシンタシュタ文化として知られる)による戦車の発明に端を発している。この軍事技術によって、インド・イラン語族は、グレート・ステップの南に広がる農耕民族国家のベルト地帯に移住できるようになった。部族内の一派は南アジアに渡り、他は東南アジアに渡った。西側の集団は、ミタンニ王国とペルシア人として知られるようになった。

ペルシア人は、イラン南西部の古エラムを支配した。ペルシア人がこの地域に到達した時期が判明していないことから、支配者になった経緯はよくわかっていない。ウィキペディアに記載されているように、現在受け入れられている見解は、ペルシア人は第二波イラン人の一部であったとするものだが、これはいくつかの理由から疑問の余地がある(直下で説明する)。

グレート・ステップからの次の拡大の波は、(火薬以前の)軍事革命である乗馬技術によって引き起こされた。イラン語を話す集団、キンメリア人とスキタイ人は、馬上からの強力な反り弓を操り、中東を駆け巡り、西はアナトリア、南はエジプトまで到達した。キンメリア人の登場は紀元前8世紀で、それから数十年後にスキタイ人が登場した。ベッグウィズの再構築によれば、スキタイの王統アリアは紀元前675年までにメディアに帝国を築いている。資料で確認できるスキタイの王は3人だ。スパカヤ王、パルタトゥア王、マディエス王である。スキタイの支配者たちは、紀元前620年になって、メディア人に倒されたとされている。この「メディア人」とは何者なのか? ベックウィズは、スキタイ人の到達前には、メディアには多様な言語起源からなる複数の民族が住んでいたとしている。スキタイ人の男性は、現地の女性と婚姻し、これによって新たなエリート、スキタイ・メディア人エリートが誕生し、このスキタイ・メディア人エリートが、帝国の支配者であるスキタイ人(おそらくマディエス王)を打倒する一員となった。文化的には、メディア人とスキタイ人は同一で、これは、彼らがスキタイと同じ衣服や武器を使用してたことで証明されている。ベックウィズはまた、スキタイ語とメディア語はほぼ同じであり、両言語間の違いは、アメリカ英語とオーストラリア英語間の方言的な違いと同程度だったことを示している。ちなみに、スキタイ・メディア語では、アヴェスター文字が使用された。

対照的に、古ペルシア語は、スキタイ・メディア・アヴェスター語との近縁にあるが、成立時点で大きく乖離していたため、相互包括的な言語ではなかったと考えられている。この言語的乖離は、ペルシア人は第二次イラン人移動の波に参加できなかった一端となっており、これにより、ペルシア人は、スキタイ人と共通の祖先を持ちながら、数世紀(おそらく1000年)前に分岐した可能性が高い。

〔ペルシアとスキタイがかなり前に分岐した〕もう一つの根拠として、ペルシア人は、スキタイ人(メディア人)と非常に異なる服装をしていたことを挙げられる。ペルシア人は、ズボンではなくローブを着用していた。ローブを着用して戦車上から弓を射ることはできるが、乗馬しながら戦うにはズボンを履くのが適している。

イランにある〔アケメネス朝ペルシアの都〕ペルセポリスのアパダナ宮殿東階段のレリーフに描かれているメディア人とペルシア人(出典:ウィキペディア)
〔訳注:ローブを着用しているのがペルシア人で、ズボンを着用しているのがメディア人〕

さらに、ペルシア人は、スキタイ人の特徴だった、コートの一種(キャンディ)、フード(バシュリク)、独特の武器である短剣(アキナカ)や柄の長い斧(サガリス)を使用していない。しかし、この論理は、ペルシア人が後にスキタイ人の服装に移行したことで面倒なことになっている。スキタイ人の服装に移行した理由はもちろん、ペルシア人が第二次イラン人移動の波によって乗馬(そして騎射)を採用したからである。ヘロドトスが『歴史』を執筆した頃には、ペルシア人は次世代への金言として以下の3つ挙げている。「乗馬できること」「弓を使えるようになること」「真実を話すべし」。

左右の男性がキャンディを身に着けているレリーフ
By درفش کاویانی – Own work, CC BY 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28093163

ペルシア人と、スキタイ・メディア人とのもう一つの相違点は、前者が多神教を信仰していたのに対して、後者は一神教を信仰していたことだ。そのため、アケメネス朝の開祖キュロス2世は、メディア王アステュアゲスを打倒し、ゾロアスター教は、帝国の公式宗教ではなくなった(三代後のダレイオス1世によって公式宗教に戻った)。

要約しよう。ベックウィズの提唱によると、現在我々がメディア王国とアケメネス朝と呼んでいる国家は、紀元前675年頃に成立し、共にスキタイに起源を持ち、アケメネス朝はアレクサンドロス大王の征服まで続いたことになる。

繰り返しになるが、この提唱は間違いなく異論の的になるだろう。個人的には他の意見を聞きたいと思っている。また、この問題に答えるにあたっては、古代DNAに当たるという、別の情報源もありえるだろう。

余談:ズボンの進化については、私の過去の記事も読むことを進める。(大西洋の反対側にいる人たちは、ズボン派なので)

[Peter Turchin, “The Scythian Empire” cliodynamica, 2 July, 2023]
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