サイモン・レン=ルイス「サド・ポピュリズム」(2021年8月21日)

[Simon Wren-Lewis, “Sado-populism,” Mainly Macro, August 21, 2021]

「サド・ポピュリズム」は,ティモシー・スナイダー(イェール大学歴史学教授)の用語だ.2017年に公開された連続ミニ講義の第4回で用いられた.おそらくこの講義はトランプ当選に触発されている.最近になって,The New European の  Alastair Campbell によって,この用語はイギリスで広まってきている.彼は,「サド・ポピュリズム」を EU離脱とジョンソンに当てはめている.この記事では,金権政治ポピュリズムに関する私じしんの議論にサド・ポピュリズムの概念を関連づけたい(金権政治ポピュリズムについては,たとえばここを参照).

なにより些末な相違点は,用語法だ.スナイダーが語っているのは,寡頭政治の話であり,トランプ時代の合衆国がどんな寡頭政治だったかという話だ.だが,第3回講義で,自分が語っていることを記述するのに「寡頭政治」でも「ポピュリズム」でも「私物化政治」でも使って差し支えないと,スナイダーは明言している.だから,このあたりにちがいはない.

なぜ,「サド・ポピュリズム」なのだろうか? スナイダーによれば,通常のポピュリストであれば支持を得るべく目当ての人々の利益になる政策を提示するのに対して,トランプはそうしなかった.そのかわりに,富裕層への大幅減税など,自分に投票してくれた人々の大半にとって打撃になる政策を,トランプは提示した.なぜ富裕層減税が大衆の痛手になるかと言えば,一次近似として,貧しい人たちに増税がなされるか,あるいは,貧しい人たちへの政府支出が減らされる結果になるからだ.「富裕層に減税すれば全体として富が創出されて,これが他の人々みんなにしたたり落ちてくる」というトリクルダウンは,右派の神話だ.

そこで,現実には支持者たちの大半が痛手を受ける種類のポピュリズムを指して,スナイダーは「サド・ポピュリズム」と称している.では,トランプのような(そして,キャンベルに同意して付け加えればジョンソンのような)サド・ポピュリストたちはどうやって選挙に勝利しているのだろうか? ある程度は,彼らの政策で誰が利益を得るのかについて人々を謀ることによって票を得ている部分もある(トリクルダウンの話はそうやって持ち出される).だが,主な要因は文化戦争だ.合衆国に関してスナイダーが語っている文化戦争の側面は,もちろん,人種だ.もっと一般的に言えば,サド・ポピュリズムの支持者たちに提示されるのは,所得ではなく地位だ.

典型的に,地位をつくりだす方法として,そうした地位が非常に歴然としていた過去を人々に思い起こさせる手が使われる.もっと典型的な民主的プラットフォームとサド・ポピュリズムの相違点のひとつに,未来よりも過去を重視することが挙げられる.この点に関して,EU 離脱とのつながりは実にはっきりしている.キャンベルが述べているように,「合衆国で言われたのは『アメリカを偉大にしよう』ではなく『アメリカを *再び* 偉大にしよう』だった.あるいは,またイギリスに話をもどせば,『〔国境・通貨・法律の〕コントロールを *取り戻す*』ことが語られた.」  国民投票後に公表されたアシュクロフトの世論調査で興味を引く点のひとつは,「今日よりも過去の方がよかった」と EU 離脱支持に投票した人たちが考えていたのに対して,離脱反対に投票した人たちはそう考えていなかった,その有様だった.

だからこそ,ジョンソンは「世界に冠たる」と語り,右派「ジャーナリスト」たちは第二次世界大戦の時代や大英帝国の昔を思い返させ続けている.サド・ポピュリストたちは悪役に仕立てて痛めつけられる「あいつ」を探し求める.そうすれば,少なくとも自分の支持者たちは,他人より自分たちの方がすぐれているような気になれるわけだ.それで,いまの政権は亡命希望者たちに冷酷で,〔社会保障の〕給付申請者たちにつらく当たっている.彼らがたまたま冷淡だからではなく,それが票を獲得する方法だからだ.また,イギリス政府が人種差別を減らす各種の試みに非常に敵対的なのも,同様の理由からきている.

スナイダーの分析は広い範囲で正しいと思う.また,彼の議論は,ポピュリスト金権政治について私が考えてきたことを補完してくれる.これまでときおり述べてきたように,私は需要側ではなく供給側に議論を集中させてきた傾向がある.つまり,二大主要政党の一方を支持するだけでなく,民主制をポピュリスト金権政治に転換させるのにエリートたちが取りかかった,その事情の一端をもっぱら論じてきた.そのさい,寡頭支配が形成されるのに決定的に重要だとスナイダーも言及している2つの要素に,私は関心を集注してきた:メディアと格差だ.

合衆国における寡頭制の台頭についてスナイダーが論じている内容には,ひとつ興味深い側面がある.それは,地域新聞の衰退が強調されているところだ.スナイダーによれば,地域新聞の読者は,自分たちが知っている事柄にニュースを関連づけることができたし,そのおかげでニュースの真偽ははっきりしていたのではないか,という.地域新聞が衰退して,いまや,私たちが接している「メディア」が語っているニュースはおおよそ読者/視聴者から遠く離れた事実について語るばかりで,それゆえに,そうしたニュースはフェイクニュースだと言われうる.

これは面白い考えだ.たしかに,トランプもジョンソン政権も,いつもウソばかりついているという特徴がある.また,メディア全体が現実を伝えていれば――ネットに根付くカルトはさておき――他人にそういうウソを信じさせるのは難しいだろう.合衆国ではフォックスニュースとトークラジオが,イギリスでは右派新聞紙がこれほどサド・ポピュリスト指導者たちにとって不可欠である理由は,そこにある.イギリスでは,〔BBCという〕公共放送局があり,大勢の視聴者をもっているが,国家による資金削減に弱い.ウソつきサド・ポピュリストが政権についているとき,イギリスの多元的民主制があれほど脆弱だったのと同じく,この公共放送局も非常に脆弱だった.

BBC を脇に置いても,イギリスの新聞社のあれこれがならず者になった理由を理解するのは難しい.問題となっているのは,ごく一握りの男たちの心理だからだ.私の推測を言えば,この点で,EU 離脱は急進化が進んだ瞬間だったと思う.あらゆる右派系新聞社がしばらく EU 離脱を支持しているが,それには,いつも支持している政党の党首に反対の論を張る必要があった.そして,そのために全力でウソをつくことになった.(実際には,以前の経験でその練習は出来ていたのだが.) のちに,そうした右派系新聞社は,ジャーナリストたちにこの政党を扇動させる好機を見出した.ジョンソンがときに言っているように,『テレグラフ』のオーナーこそ,彼の真のボスだ.真実を放棄することで,彼らはかつてない影響力を手にした.

こうした右派系新聞を読んでいる人々に関して言えば,政治についてほんのわずかしか考えていない大多数の人々にプロパガンダが及ぼす力を過小評価すべきでないと私は思う.

金権政治ポピュリズムではなくサド・ポピュリズムについて語るべきだろうか? これまでつねにはっきりさせようと努めてきた点を改めて言うと,ヤン=ヴェルナー・ミュラーが言う意味で私は「ポピュリズム」を使っている.この意味でのポピュリストは,あたかも世間の人々の見解を代弁しているかのように語る.その実,彼らが本当に代弁しているのは,一部の人々だ.世論のおよそ半数が反対しているときに,EU 離脱がどのように「世間の人々の意思」扱いされていたか,思い出そう.ほぼ用語の定義からして,このかたちのポピュリズムは分断をはかるものだ.つまり,〔自分たちが代弁すると称する世間の人々と対比される〕「やつら」を明確に仕立て上げ,その意思を無関係なものとするのだ.この「やつら」をエリートと呼んで無視することで,「世間の人々」がエリートをついに打ち負かしたように見せかけ,ポピュリストは「世間の人々」にいくらかの地位を与える.(現実には,たんにエリートはが分断されているだけだが.)

ここに金権政治を加えると,金権政治ポピュリストの真の利害関心がその金権政治の利害関心となることがはっきりわかる.ここでも,おおよそ〔金権政治ポピュリズムの定義からの〕帰結として,他のあらゆる人たち,とくに「世間の人々」ではない人たちがその結果として痛手を被ることになる.スナイダーの議論が私じしんの議論に加えてくれるものは,ポピュリストたちによって「世間の人々」に提示されるものが地位だという点だと思う.つまり,「世間の人々」の下に「やつら」をはっきりと位置づけるという点〔が,いままでの私の議論になかった部分だと思う〕.さらに,かつてに比べてその地位は失われてしまっているかもしれないが,ポピュリスト金権政治家あるいはサド・ポピュリストがそれを「世間の人々」に取り戻すことを目指している〔という部分も新しい論点だ〕.

スナイダーは金権政治ポピュリズムと民主制との切迫した対立が合衆国で生じていることについて語っている.講義の最後で,合衆国が金権政治ポピュリズムの方に傾いていく可能性について,スナイダーは簡潔に論じている.金権政治ポピュリズムに反対するなら,未来をよりよくする方法について明確な政策を掲げて,未来について語らなくてはならない――それが彼の提案だ.

Alan Finlayson のこの文章を読んでいて,この件を思い起こした.Finlayson によれば,労働党は価値観について語ることに時間を注ぎすぎて,要求をかためるのに十分な時間をかけていないという.価値観の話は時を選ばない.我らが金権政治ポピュリストの指導者たちは,頼まれなくても価値観の話をしている.これに対して,未来でものをいうのは要求だ:つまり,よりよい未来の要求にかかっている.正しい要求を考え,単語3つばかりのスローガンにつきない詳細を固めたとき,自分たちの価値観がどういうものかがはっきりする.

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