ジョセフ・ヒース「バカげた考えから抜け出すこと:私の思想遍歴」(2026年7月25日)

社会に対する激しい道徳的非難を行いながら、なぜ社会が現にこのようなあり方をしているのかについて何一つ理解していなかった。〔…〕こうした行動の根っこにあったのは道徳的な優越感だが、それは振り返ってみればなんの根拠もないものだった。

このエントリは、ダン・ウィリアムズ(Dan Williams)のシリーズ記事「より左翼的でなくなること(On Becoming Less Left-Wing)」にインスパイアされたものだ。一連の記事はいくつかの点で興味深いものだったが、記事の想定読者に響くものには思えなかった。というのも、左派の人々のほとんどは、より左翼的でなくなりたいとは思っていないし、むしろ、現在の政治信条を維持することが道徳的な義務であると考えがちだからだ。そして、年をとることを漠然と恐れてもいる。周りの人々が、人生経験を積むことでどうなっていったかを見ているからだ。そのため、ウィリアムズの記事は、左派の信条をより成熟させるというより、右派の上から目線の同意を引き出す可能性の方が高いように思われた。

個人的には、私自身の政治的見解の進化を「より左翼的でなくなること」と形容することには強い躊躇いを覚える。自分の政治信条の来し方を振り返ると、ハッキリしているのは、かつての私はバカげた考えで頭がいっぱいだった(頭にデタラメしか詰まっていなかった)ということ、そして、時が経つにつれ、それがいくらかマシになっていったということだ。私の信条の軌跡を辿ることは、思想の左右を問わないより開かれた(unifying)ナラティブを生み出す機会となるように思われる。というのも、政治信条を問わず、誰もがバカげた考えから抜け出したいと思っているはずだからだ(私はそう願っている)。もちろん、左派の見解にバカげたところが存在する限りで、バカげた考えから抜け出すことは、左派に同意できない点が増えていくということでもある。だが、そうだとして、その責任は誰にあるというのだろう?

本題に入る前に、なぜ若い頃の私がバカげた考えで頭がいっぱいだったのかをちょっと説明したい。今では、その理由をよりよく理解できていると思うからだ。ほとんどの人と同じように、私の基本的な世界観は親から受け継いだものだった。私の場合、それは1960年代のカウンターカルチャー・イデオロギーと、カトリックの社会教説の混合物だった。この2つの信念体系は多くの点で緊張関係にあるが、世界に対する基本的な態度という点では重要な一致を見せている。どちらの信念体系においても、人間の置かれた状況(そして社会の現状)は深刻な不道徳を抱えている、とされるのだ(ヒッピーはそれを「システム」のせいにし、カトリック教徒はそれを原罪のせいにする)。覚えておいてほしいが、私の幼い頃は、第二次世界大戦も最近の記憶だったのである。私は、ディエップ上陸作戦で生き残った叔父や、脚に残った銃弾の破片のせいでときどき身動きがとれなくなる親戚を訪ねながら育った。ソ連との軍拡競争が最高潮に達していた時期、人類は堕落した状態にあり、最後には自らを破壊しつくす運命にある、との考えは全くもって妥当に思われた。

キリスト教徒がこうした状況診断に対処するやり方は様々だが、この悲観的な見方から逃れる1つの有力なやり方は、自分の無力さを認め、来世で物事が正されるよう祈ることだ。神の恩寵に訴えることで、キリスト教徒は、自分が現世の暗黒からいかにして逃れられるかを示す(完全に信じられるとは言わずとも)首尾一貫した物語を手に入れることができた。だが、私は高校を卒業する頃には無神論者になっていた(自分の欲望と、それから進化理論を学んだことの影響で)。それでも、世界に対するネガティブな見方は相変わらず持ち続けていた。見渡す限り、不道徳と罪しか見当たらなかったからだ(私はすぐにそれらを「不正義」と呼ぶようになった)。こうして私は、たくさんのバカげた考えを頭に詰め込むこととなった。私は、キリスト教の世界観において天国が占める位置に、左翼ユートピア主義を代入したのだが、現世における救済がいかにして実現し得るのかについて、なんら真剣な考えを持っていなかった。社会に対する激しい道徳的非難を行いながら、なぜ社会が現にこのようなあり方をしているのかについて何一つ理解していなかった。社会の悪い部分をどう正せばよいのかについても、見当すらついていなかった。だが、当時の私にとって、そうしたことは、社会の糾弾や他者への非難を止める理由にはならなかった。こうした行動の根っこにあったのは道徳的な優越感だが、それは振り返ってみればなんの根拠もないものだった。

こうして私は、今では自分でもドン引きするような政治的身振りをとるようになった(ちなみに、私の仕事を追ってきた人に対して言うと、私がナオミ・クラインを批判することにちょっと不健全なほど執着しているのはこのためだ。クラインのすごいところは、20歳の左翼の学部生だった頃に私たち皆が持っていたのと同じ世界観を持ち、それを今に至るまで持ち続けていることだ。クラインの著作を読むと、いつも昔のことをブワーっと思い出して、いささか恥ずかしい気分になる。クラインを批判するとき、私は実際にはクラインと議論しているのではなく、私がバカげた考えで頭をいっぱいにしていた頃にしでかした誤りを指摘しているだけなのだ)。

バカげた考えから抜け出すための万能のルールが存在するとは思えないので、私の信条がどのような遍歴を辿ったのかをそのまま述べるのが一番よいだろう。本から学んだことは、明らかに重要な役割を果たしているが、それが変化のきっかけとなることは滅多になかった。私が最もハッキリと記憶しているのは、他人が私の持っていたバカげた考えを(意図してであれ意図せずであれ)面と向かって指摘してくれた場面だ。それをきっかけに、私は思い立って、もっと洗練された見解を築くために、たくさんの本を読むようになったのである。

驚くほど幼稚……

私が最初に自覚的に支持した政治的イデオロギーは、アナキズムだった。これは、合理的な思考プロセスによってそうなったというより、当時聞いていた音楽(D.O.A.、ブラック・フラッグ、ベルーリエ・ノワール)からの自然な流れだった(親から吸収したカウンターカルチャー的な世界観により、当時の私は「アングラ」で「オルタナティブ」な音楽だけが聞くに値すると思っていた)。高校生の頃、デッド・ケネディーズがサスカトゥーンでコンサートを開いており、深い感銘を受けた。デッド・ケネディーズは本当に大きな存在だったのだ。こうして、1985年に大学に入り、特定の政治イデオロギーに明示的にコミットする人々と遭遇するようになると、私は自然と自分のイデオロギーはアナキズムだと考えるようになった。

アナキズムは当時、少なくとも左派のサークルの中ではかなり一般的な政治信条だった。というのも、アナキズムを支持すれば、ラディカルな政治的スタンスをとりながら(「全部焼き尽くせ!」)、代替的な社会構想に関わる厄介な問題を全て避けることができたからである。当時は、資本主義と共産主義双方の欠陥が最も強く感じられていた時期であり、アナキズムは便利な思想だったのだ。ソ連もまだ存続していた頃で、社会主義が資本主義と同じくらい悪いものであるということは誰の目にも明らかに思われた。そのため、当時を振り返っても、周りにマルクス主義者がたくさんいたという記憶はない。いたとしても、大抵の人は、マルクス主義者は洗脳を受けていると考えていた。というのも、マルクス主義者たちは決まってどこかの党派に所属しており、他の党派との複雑な内ゲバに明け暮れていたからだ。トロツキストはその中でもとりわけ奇妙で苛烈だった。

そういうわけで、政治哲学を学び始めたとき、私は自然とアナキストたちの文献に目を向けるようになった(当時は、もっと洗練された響きを持たせようと、「アナルコ・サンディカリスト」という言葉を使ったりもしていた)。チョムスキー、マレイ・ブクチン、バクーニンといった人々の著作である。当時はモントリオールのブラック・ローズ・ブックス(Black Rose Books)という出版社を中心に界隈が形成されており、アナキズム的な思想傾向に知的な箔を付けていた。だが、アナキズムの本を読んでも生活費の足しにはならないので、学部生の頃はコンピュータ・プログラマーのアルバイトもしていた。あいにく、ウィリアム・ギブソンの『ニューロマンサー』が出版される前のことだったので、当時はサイバーパンクなどというものは存在していなかった。そのため、私のアイデンティティの2つの面は完全に分離していた。私はただ、冴えないエンジニアたちと働く、孤独なパンクロック野郎だったのだ。

ある日、そうした冴えないエンジニアのうちの1人がレバノン出身であることが分かった。彼は、戦争でめちゃくちゃになった国の出身者によく見られるように、よく機能している国家の美徳を私よりもいくらか深く理解していた。あるとき、彼と政治について雑談していた際、私が「俺はアナキストなんだ」と言うと、彼は身を乗り出してこう言った。「え、政府も国もない方が良いって思ってるの?」。私は「その通り」と答えた。次に彼が投げかけてきた質問は、当時の私には全く思いがけないものだった。「でも、じゃあ誰が通貨を管理するわけ?」。私は言葉に詰まった。中央銀行のことなど、私も、私のアナキストの友人たちも、1秒だって考えたことはなかったからだ。彼の問いかけにどう答えたかは覚えていない。多分、「通貨はやがてなくなるはず」とか愚かな返答をしたのだろう。だが、この問いはその後数カ月の間、頭に引っかかり続け、じわじわと私を苛んだ。何より重要なのは、この出来事によって、自分が政治についてたくさんの強固な信条を持ちながら、実は政治的な問題について全く真剣に考えていなかったと気づかされたことだ。真剣に考えている人なら、こうした問題について思考を巡らし、何かしらの答えを持ち合わせていただろう。(ところで、その私の同僚は、エンジニアは自分には向いていないと考え、今ではチューリッヒ大学でファイナンスの教授をやっている。この場を借りて、私の旧友のミシェル・ハビブ(Michel Habib)に感謝を表したい。バカげた考えから抜け出す手助けをしてくれてありがとう!)。

国家が何をしているか、国家なしで同じことを達成するのがどれほど難しいかについて真剣に考え始めたことで、若き日のアナキズムとの戯れは終わりを告げた。こうして私は自然と、マルクス主義への関心を強めていった。マルクス主義は、政治イデオロギーとしては明らかにアナキズムよりも本格的なものだったからだ。ただ、当時は西洋のマルクス主義者が1人残らずネオマルクス主義者になっていた時代だったので、私はすぐにフランクフルト学派に興味を持つようになった。フランクフルト学派の中心的テーマの1つは、いわゆる「道具的合理性批判」だ。これは基本的に、マルクスのイデオロギー批判の後継概念である(この点は後述)。ユルゲン・ハーバーマスの『コミュニケーション的行為の理論』の英訳は、私が学部生の頃に出版され、すぐに最重要文献となった。この2巻本を読み終えた後、私は、今後の自分の勉強はハーバーマスの著書の参考文献に載っている本を全部読むことだ、と決意した。

こうして、次なるターニングポイントが訪れた。それは90年代初頭のことで、私はノースウェスタン大学の大学院生だった。このエピソードはちょっと説明が込み入っている。当時、ノースウェスタン大の目と鼻の先にシカゴ大学の政治学部があり、そこは合理的選択論と分析マルクス主義の一大拠点となっていた。そして、シカゴ大を出たばかりの研究者の1人だったジムことジェームズ・ジョンソン(James Jhonson)が、ノースウェスタン大で職を得て、フランクフルト学派をテーマにしたセミナーを開くことになった。政治学部の学生は誰一人興味を持たなかったが、私たち哲学科の学生は大挙してその授業に押し寄せた。だが、学期が進むにつれ、ジムは哲学科の学生たちの戯言にいらだつようになっていった。そしてある日、彼はついにキレた。「君たちはいつもいつも、道具的合理性批判、道具的合理性批判と喚いているが、道具的合理性について何一つ知らないじゃないか。本当に道具的合理性に興味があるなら、意思決定学科に行って合理的選択論の授業を取ってきたらいい」。

調べてみると、ノースウェスタン大のビジネススクールは、実はゲーム理論を学ぶ上で世界でも最良の環境の1つだということが分かった。そこで私は、ジムの挑発を受けて、ゲーム理論の授業を受講できるか確かめることにした。私は2つの点で幸運だったと言える。1つは、私でも受講できるセミナーが開講されていたこと、もう1つは、そのセミナーを受け持っていた教授が、イェルーン・スィンケルズ(Jeroen Swinkels)という、ものを教えるのが抜群に上手い教授だったことだ。こうして私は、ゲーム理論をたくさん学ぶことになったのだが、これは様々な点で役に立った。第1に、私が哲学科の教授として職を得られたのは、ひとえにゲーム理論のおかげである。というのも、ゲーム理論を学んだおかげで、狭いトピックを扱ったテクニカルな論文をいくつも発表できたからだ。第2に、ゲーム理論は、経済学をイデオロギー抜きに理解する道を与えてくれた(冷戦期の経済学者たちは資本主義応援団と化しており、私は当初、経済学に強い嫌悪感を抱いていた)。最後に、ゲーム理論を学んだことで、「囚人のジレンマ」や集合行為問題についてこれまで耳にしてきたあれやこれやが、なぜ本当に重要なのかをようやく理解することができた。

その後の私に訪れた最大の「なるほど(a-ha)」の瞬間は、アレン・ブキャナンの「革命の動機づけと合理性(Revolutionary Motivation and Rationality)」という論文を読んだときだった。マルクスの機能主義的思考に対するヤン・エルスターの批判は、当時の私にはそれほどピンと来ていなかった。だが、ブキャナンの論文を読んだことで、エルスターの議論が自分にとって一気に明確な形をとるようになった。ブキャナンの論文は、社会理論的主張を裏づける行為理論的なメカニズムを提示しないときに、人がどんな誤りに陥りやすいのか(そしてマルクスが実際にどんな誤りを犯したのか)を具体的に示していたからだ [1]訳注:詳しくは、ジョセフ・ヒース「方法論的個人主義(Stanford Encyclopedia of Philosophy)」のセクション4を参照。 。そして、この論文を読んだことで、マルクスが考えていたようなイデオロギーという概念全体も、この誤りから生じているということに気づくことができた(この点に気づいたことで、私はこの論文を書くことになった〔邦訳はここで読める〕)。この時期のもう1つの重要な転機は、アレク・ノーヴ(Alec Nove)の『実現可能な社会主義の経済学(The Economics of Feasible Socialism)』を読んだことだ。この本によって私は、社会主義経済計算問題というものをようやく理解することができた。

思い出せる範囲で最後の重要なターニングポイントは、トロント大学で教鞭を取り始めてからのことだった。トロント大には「ビジネスの哲学」という授業があり、私はよくその授業を受け持っていたのだが、別のカレッジに移ると、そこでは同じ授業が「ビジネス倫理」と呼ばれていた。私はそれまで、普通の意味でのビジネス倫理を教えていたわけではなかったが、そのまま授業を受け持ち続けた。だが当時、トロント大のビジネススクールには学部生向けの倫理学の授業がなかったので、商学部の学生たちは代わりに哲学科で開講されているこの授業を履修することになった。結果、私は少なくとも100人の商学部の学生たちの前で授業をすることになった。最初の数年で気づいたのは、商学部の学生たちが、私には答えられないような質問をたくさん投げかけてくるということだった。

この出来事がどうして私の印象に強く残っているのかというと、学生たちの質問が全く込み入ったものではなかったからだ。実際、その大半は明確化を求める類の全く素直な質問だった。ある日、学生が手を挙げてこう質問してきた。「先生の言う『会社』というのは、どんな形態の会社を念頭に置いていますか?」。また別の日には、「『株式』というのはどの種類の株式を想定していますか?」とも聞かれた。どちらの質問に対しても、私はきっと訳の分からない受け答えをしたのだろう。正直な答えは「くそっ、知らないんだよ」だったのにだ。質問を受けた後、私は急いで家に帰って答えを調べた。結局分かったのは、19世紀の政治経済学を勉強して得た知識では、現代の資本主義を理解するのに全く不十分だということだった。私は、証券取引所がどう機能しているのかを知らなかった。社債がどんなものなのかを知らなかった。「水平統合」が何を意味するのか知らなかった。新規上場がどう行われるのかを知らなかった。取締役会が企業支配権の取引においてどんな役割を果たすのかを知らなかった。

言い換えれば、私は、資本主義についてたくさんの大仰な意見を持ちながら、資本主義がどういう仕組みで動いているのかについて何もハッキリと理解していなかったのだ。この恥ずかしさをいっそう助長していたのは、私に答えられないような質問を投げかけてきたのが、商学部の学生たち(一番頭の切れる学生たちとは言えない)だったことだ。そこで私は、またしても、バカげた考えから抜け出すことを決意した。自分が暮らす社会の諸制度について道徳的な判断を下す前に、それが実際にどう機能しているのかを学ぶことにしたのだ。

この話から一般的な教訓を引き出せるかについては自信がない。学べることがあるとすれば、人が何かを信じるのには、一定の理由もあるが、一定の動機も働いており、その動機は少なくとも理由と同じくらいには重要であるということだ。様々なテーマに関して、私の見解に影響を与えた本を並べることはできる。だが、多くの場合、そうした本の重要性を理解できたのは、読んでから何年も経ってのことだった。例えば、ジョン・スチュアート・ミルを最初に読んだとき、私は彼が文字通りあらゆる点で間違っていると思っていた。だが、その後の私の知的成長は、彼がほとんど全ての点で正しいと認めるようになるプロセスだった。それは、ミルの本をもう一度、より注意深く読み直したからではない。彼の発したメッセージを、私が以前よりも受け入れられるようになっていたからだ。残念ながら、他人にこうした受容性を持ってもらう方法について、特に知見を持っているわけではない。必要に応じて、バカげた考えをきちんと指摘すること以外には。

[Joseph Heath, On becoming less full of shit, In Due Course, 2026/7/25.]

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